映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

もう一つのブログとともに主に映画の感想を書いています。

『ジュリエット あるいは夢の鍵/愛人ジュリエット』『モンパルナスの灯』


ジェラール・フィリップ生誕100年映画祭」で、2本のジェラール・フィリップ主演作品を鑑賞。

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この前に同じくジェラール・フィリップの主演作『肉体の悪魔』と2022年に作られた彼のドキュメンタリー映画を観ています。

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肉体の悪魔』同様、今回の感想でもネタバレしますので、まだご覧になっていないかたはご注意ください。

1本目は、マルセル・カルネ監督、シュザンヌ・クルーティエ、ジャン・ロジェ=コーシモン、イヴ・ロベール、ルネ・ジェナン、エドゥアール・デルモンほか出演の『ジュリエット あるいは夢の鍵/愛人ジュリエット』4Kデジタル・リマスター版。1951年作品。日本公開1952年。

撮影は、のちに『ローマの休日』(感想はこちら)や『ベルリン・天使の詩』などを手掛けるアンリ・アルカン

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青年ミシェル(ジェラール・フィリップ)は恋人ジュリエット(シュザンヌ・クルーティエ)のために店の金を盗み、刑務所に入れられてしまう。獄中でジュリエットに思いをはせる彼は、いつしか陽光の降り注ぐ村にたどり着く。そこは人々が思い出を持たない“忘却の村”だった。領主・青ひげ(ジャン・ロジェ=コーシモン)の城にジュリエットが幽閉されていることを知ったミシェルは、やっとのことで彼女と再会を果たす。しかし、ジュリエットはミシェルとの思い出を失っており──。(映画.comより転載)


ヒロインのジュリエット役のシュザンヌ・クルーティエは1951年の『オーソン・ウェルズのオセロ』で主人公オセロ(オーソン・ウェルズ)の妻を演じていて、日本での初公開は1993年だったのでその時に劇場で観たんですが、とても綺麗な女優さんだなぁ、と思って記憶に残っていました。

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オーソン・ウェルズのオセロ』は独特なキャメラワークで、ウェルズが他の映画に出演している合間に様々な場所でロケ撮影をして、それらを繋ぎ合わせて完成させた、ということで、とても面白かったのでまた映画館で上映してほしいなぁ。

で、今回、そのシュザンヌ・クルーティエがジェラール・フィリップと共演しているということで、この映画も観てみました。

※『ジュリエット』は鑑賞から結構日数が経っているためストーリーを忘れかけていて、うろ覚えのまま感想を書いていますので間違いがあるかもしれません。申し訳ありません。僕自身が「忘却の村」にいるのかも。

『オセロ』はアメリカ映画で英語の作品だったので僕は彼女はてっきりイギリスかアメリカの人だと思っていたんですが、シュザンヌ・クルーティエさんはカナダ人で母語はフランス語だったんですね。

『オセロ』では一方的に陥れられて不貞を疑われて殺されてしまう哀れな女性の役だったけれど、今回の『ジュリエット あるいは夢の鍵/愛人ジュリエット』ではちょっとユーモラスなところも見せていて、映画の出演作がけっして多くはないシュザンヌ・クルーティエの魅力が爆発。めっちゃキュート。


ちょっと「不思議ちゃん」な役柄でもあるんだけど、要するに主人公・ミシェルが刑務所の牢獄の中で見ている「夢の中」にいる“ジュリエット”と現実の世界での彼女を演じ分けていて、夢の中のジュリエットは村の他の人々と同様にすぐにこれまでのことを忘れてしまうのでミシェルとのやりとりもどこか嚙み合わず、頭の中がお花畑みたいな女性として描かれている。

そんな彼女をミシェルは追い求め、しかし、ジュリエットはあくまでも夢の中の存在だと思い知らされて、彼がとった行動は…。

映画のほとんどは夢の中の描写、という、おとなのおとぎ話みたいな映画でしたが、そこはフランス映画、というのか、最後はモヤッとする終わり方で。

ミシェルが夜見た夢の中で訪れた不思議な村にはお城があって、そこに住む髭ヅラの領主がジュリエットに目をつけて、彼女を城の中に閉じ込める。


それを知ったミシェルは領主の正体を、大勢の女性たちを殺した“青ひげ”だと見破るが…。

ジャン・ロジェ=コーシモン演じる青ひげがめちゃくちゃキャラが立ってて(ちょっとハビエル・バルデムを思わせる)面白いんですが、この青ひげのジュリエットに対する態度が優しくしてたと思ったら突然キレだしたり、DV野郎っぽいというかサイコパスのようで、何か「有害な男らしさ」の塊みたいな男なんですよね。


実は彼は現実の世界ではミシェルが働いていた店の店主だった。

このあたりは、ちょっと『オズの魔法使』(感想はこちら)みたいだな、と。あそこまでファンタスティックな内容ではないけれど。

朝、目覚めたミシェルは呼び出されて、刑務所の所長から盗みの被害者の店主が訴えを取り下げたことを知らされる。

店主(青ひげ)は、ジュリエットが店に訪ねてきて彼女から懇願されたのだ、と告げる。そして、ジュリエットは自分の妻になる、と。

釈放されたミシェルはショックを受け、夜にジュリエットに会いにいくが、彼女は経済的な不安を口にして、店主との結婚を認める。

立ち去るミシェルをジュリエットは追いかけるが、ミシェルは身を隠し、最後には「立ち入り禁止」と書かれた扉を開けて、あの「忘却の村」に向かう。


これ、もしもハリウッド映画なら、あとを追って走ってくるジュリエットと抱きしめ合って、ミシェルは店主からジュリエットを取り戻してめでたしめでたし、となると思うんだけど、この映画では絶望したミシェルは最後にあの夢の中の世界に行ってしまうんですよね。

そうすれば、また夢の中のジュリエットに出会えるから。あちらの彼女はミシェルと一緒にスペインに旅行することを望んでいた。

夢の中でジュリエットは青ひげと結婚してしまうんだけど、何しろ彼女は忘れっぽいので(笑)やがては結婚のことも忘れて自分を愛してくれるだろう、ということか。

…だけど、それでいいのか?って疑問が残る。「モヤッとする終わり方」というのはそういうことで。

現実の世界でジュリエットと海辺に遊びにいく約束をしていたミシェルは、見栄を張って自分は働いている店の店主の跡継ぎだと嘘を言ったために引っ込みがつかなくなり、旅行に履いていく新しい靴を買う金を店から盗んだのだった。

その後、ミシェルが盗みで捕まったことを知ったジュリエットは店主に掛け合ってミシェルを釈放してもらう。

ならば、ミシェルはジュリエットに感謝して自分の行動を恥じ、それからあらためて彼女とともに生きることを願って、たとえ再び店主に訴えられても堂々と刑務所に戻るなり(「レ・ミゼラブル」じゃあるまいし、靴を買うためのお金なんてそんな大した金額じゃないだろうから、刑期を終えてからまた彼女に会えばいいじゃないか)、あるいは彼女と手に手を取り合って店主=青ひげから逃げる、といったようなラストだったら観客も気持ちよく席を立てただろうと思う。

なぜ、そういうエンディングにしなかったのかはわかりませんが、気になったのは、他のかたが書かれたある感想の中で、ミシェルから店主にあっさり鞍替えしたジュリエットについて、結局は「金」なのか、といった冷めた反応をされていたこと。

う~んと、マルセル・カルネ監督や脚本家がどういう意図でこういう結末にしたのかは知りませんが、僕はジュリエットは店主からミシェルを釈放する代わりに彼との結婚を迫られたのではないか、と思ったんですが。

だって、夢の中では青ひげは忘れっぽいジュリエットをほとんど騙すような形で結婚していたじゃないですか。


現実でも同様のことが行なわれたんだ、と考えるのが自然だと思うんですが。あんな年の離れた店主と初めて会ったばかりでいきなり結婚を決める方が不自然だし。

だから、ジュリエットがミシェルの前で彼との生活に経済的な不安があると告げたのは、そうやって無理に自分の結婚を納得しようとしていたんじゃないのか。あの時の彼女の表情には、夢の中の忘れっぽくて可愛いヒロインとは違う、現実の世界で生きる女性の複雑な心境が垣間見えた。

あそこでジュリエットは、ミシェルに金のために店主と結婚するような彼女の言い分を打ち消してもらって自分を店主から奪い返してほしかったんじゃないだろうか。

去っていくミシェルの名前を呼びながらジュリエットが彼を追いかけたのは、そういうことでしょ。

ミシェルは自分が犯した罪を「君のためにやったんだ」と言い訳するけど、違うだろ。

彼は自分のプライド、見栄を貫くために金を盗んだのだ。それをまるでジュリエットのせいにするような言い草は卑怯じゃないか。彼女はミシェルが金持ちであってほしいなどとは一言も言っていなかったんだから。

この映画は1950年代の初め頃に作られたものだし、だから現在の目で見ると特に劇中での男性の女性に対する言動やものの考え方に首を傾げざるを得ないところが度々ある。

自分の行ないを正当化して反省もせず、愛していたはずの人のために奮起することもなく最後には夢の中に戻っていくとか、なんでこんなネガティヴな物語にしたのか謎過ぎる。

そういえば、アコーディオンを弾きながら「忘却の村」についてミシェルに説明してくれる男性をイヴ・ロベールが演じてました。


彼が監督として撮ったプロヴァンス物語」二部作は大好きな映画だし、『わんぱく戦争』も楽しみました。もともと俳優だったんだな。

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プロヴァンス物語」のラストにも、それまでのユーモラスで楽しい物語がふと遠退いて哀しみが滲む余韻があったし、映画自体は愉快で暴力的ですらあった『わんぱく戦争』でさえも、原作は第一次世界大戦前を舞台にしていて、あの子どもたちのその後を想像すると後味もまた違ってくる。

僕は偉そうに語れるほどフランスの映画を観てはいませんが、どうもフランス映画にはいつも暗さが付きまとうような気がするし、だからいくらでも希望溢れる結末にできたはずのこの作品をああいう形で結んだことには多分意味があるのでしょうね。

それは、このあと観た『モンパルナスの灯』にも言えることですが。


そんなわけで2本目は、ジャック・ベッケル監督、アヌーク・エーメ、ジェラール・セティ、リリー・パルマー、レア・パドヴァニ、リラ・ケドロヴァ、リノ・ヴァンチュラほか出演の『モンパルナスの灯』HDデジタル・リマスター版。1958年作品。

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第1次世界大戦後のパリ、モンパルナス。売れないイタリア人画家モディリアーニジェラール・フィリップ)は画商ズボロフスキー(ジェラール・セティ)の友情に支えられながらも、貧困と病苦を酒で紛らわす日々を送っていた。ある日、モディリアーニは画学生ジャンヌ(アヌーク・エーメ)と出会い恋に落ちるが、彼女の父親によって2人の仲は引き裂かれてしまう。病を悪化させたモディリアーニはズボロフスキーの勧めもありニースで療養することになり、ジャンヌは家族を捨てて彼と一緒に暮らし始める。ジャンヌの愛情と励ましを受け、自身の人生と芸術に前向きに取り組もうとするモディリアーニだったが──。(映画.comより転載)


『モンパルナスの灯』って有名なタイトルだし、観たことがない僕でさえ覚えていたほどだから…って、長らくこの作品をリンドバーグが主人公の映画だとばかり思い込んでいた(それは『翼よ!あれが巴里の灯だ』。“灯”しか合ってねぇし^_^; それにあっちはアメリカ映画)。

画家のモディリアーニの伝記映画なんだけど、冒頭で「この物語は史実にもとづくが、事実ではない」と断わりが入る。

まぁ、そうだろうな、とは思いましたが。

リノ・ヴァンチュラ演じる画商が実在の人物なのか、それとも架空の人物なのか確認できていませんが、あとで触れるけど少々でき過ぎな展開だったので。


モディリアーニの伝記映画、と言いつつも、彼が出会ったピカソユトリロなどの画家たちは映画には登場しないし(セザンヌの名前は出てた気がするが)、描かれているのはモディリアーニの晩年で最後は彼の死で終わる。

僕はモンパルナスとモンマルトルの違いもわからないほど無知ですが、モディリアーニについては山田五郎さんがYouTubeの動画で解説されていて、映画の補足のようにもなっていてありがたかったです。この『モンパルナスの灯』についても触れられています。

藤田嗣治がこの映画のために協力していたんだなぁ(彼もモディリアーニと交流があった)。

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映画を観ていて、元カノ(ベアトリス・ヘイスティングス。彼女は実在の人物で演じるのはリリー・パルマー)を往復ビンタして気絶させたり最低のDV野郎として描かれていてイラついたんだけど、ほんとにああいう男だったんだな。そしてモテた。

劇中ではモディリアーニはやたらと甘やかされていて、同じアパートに住むズボロフスキーが何かと彼に手を差し伸べたりつきあいのある(あった)女性たちも彼のことを見捨てずに助けるんだけど、芸術家として自分の作品が充分に評価されず売れもしないことに(しかも結核持ち)どんどん苛立ちを募らせていくモディリアーニは酒に溺れて荒れる。


しかも、映画は彼が倒れて病院に担ぎ込まれたものの手の施しようがなくて絶命したあとに、画商のモレル(リノ・ヴァンチュラ)がまだ夫の死を知らない妻のジャンヌの前で彼の描いた絵画を買おうとするところで終わってしまう。

えっ、これで終わり?という典型的なフランス映画。

ジャック・ベッケル監督の映画は僕はこれまでに『穴』(1960年作品。遺作。日本公開1962年)と『赤い手のグッピー』(1944年作品。日本公開1992年)を観ていますが、特に『穴』は実録系の脱獄モノでとても面白くてラストは「…あぁ( ;∀;)」って感じなんだけど、それまでのハラハラさせる展開が見どころだった。

『モンパルナスの灯』はそういうドキドキさせるような内容じゃないから、ちょっと僕は楽しみどころがわからなくて。

酒場の壁にやたらと「PICON」の文字があって、『冬の猿』(感想はこちら)でも出てたなぁ、とか思った。昔から人気のリキュールなんだろうか。

妙にしみったれた映画よりは、僕はジャン・ギャバンジャン=ポール・ベルモンドが酒吞んで酔って暴れるあの映画の方がまだ楽しめたなぁ。

モレルが「死んだら評価される」と言っていた通り、モディリアーニの絵は今や100億円以上で買われたりするほどだし、生きている間にはその才能がほとんど認められなかった彼の作品をその死の直後に画商が大量に買っていく、という皮肉は効いてますが、それにしてもあまりに悲し過ぎるラストじゃないか。

なんでこんな暗くて悲しい映画が多くの人々に支持されたのかわからないんだけど、まぁ演じているのが“ファンファン”ことジェラール・フィリップ(残念ながら、今回の催しでは彼がファンファンの愛称で呼ばれるきっかけとなった映画『花咲ける騎士道』は観られませんでしたが)だからな。

現実はもっと酷くて、モディリアーニの死の2日後には妻のジャンヌが投身自殺している。おなかには赤ちゃんがいた。

ジャンヌ・エビュテルヌを演じているアヌーク・エーメは、僕はフェデリコ・フェリーニ監督の『8 1/2』(感想はこちら)を「午前十時の映画祭」で観たし、30年ぐらい前に『甘い生活』(1960) も観た記憶があるんだけど例のごとくまったく覚えてなくて、『8 1/2』ではもうちょっと存在感があったと思うんだけど(忘却中)、この『モンパルナスの灯』では出会って2日後には結婚を決めていたり、その後もとにかくモディリアーニのことを健気に支えるばかりで人物としてはほとんど描き込まれていないので、確かにアヌーク・エーメさんは美しいんだけど魅力を感じるほどではなかった。


今だったら、むしろジャンヌを主人公にして彼女の目から見たモディリアーニを描くだろうなぁ(2004年にアンディ・ガルシア主演でモディリアーニとジャンヌを描いた映画が作られているそうなので、そちらではジャンヌの比重が大きくなっているんだろうか)。

そういえば、アヌーク・エーメは、是枝裕和監督の『真実』(感想はこちら)の中でカトリーヌ・ドヌーヴが「偉大な女優は姓と名前の頭文字がどちらも同じ」と名前を挙げていた女優たちの中にその名前もあった。

4月7日(金) から始まる「午前十時の映画祭13」でアヌーク・エーメが主演したクロード・ルルーシュ監督の『男と女』(感想はこちら)が上映されるので、観てみようかなぁ。彼女の素晴らしさがわかるだろうか。

モディリアーニアメリカ人の富豪から絵が欲しいと言われてジャンヌやレオポルド・ズボロフスキーとともに何枚もの自作の絵を抱えて持っていくものの、先方の「看板や広告に使う」という言葉を聞いて「もういい」と立ち去る場面は、そういうことが実際にあったのかどうか知らないけれど、なんとなくフランス人のアメリカ人に対する「芸術を解さない者たち」への軽蔑が大いに感じられて興味深かった。

そのアメリカ人の富豪の妻は高価な宝石を買いあさっているし、富豪もまたモディリアーニの絵をじっくりと見ることもせずに大量に絵を購入してせっかちに帰国しようとする。

モディリアーニの無礼な態度にアメリカ人富豪も気分を損ねたのか、ズボロフスキーらに「残念ですな」と言い残して絵を買わずに去る。

このあたりの、フランス人とアメリカ人の違いが面白かったですが。

ジェラール・フィリップは世界中で大人気だったからハリウッドからもオファーが来たけど自国の映画への出演を優先して断わったということだし、演劇活動でアメリカを訪れた時も宣伝のためにあちこちまわることに疲弊していたそうで。

ちょっとモディリアーニと重なるようなところも。

ジェラール・フィリップも、めちゃくちゃモテた人だもんね。


『ジュリエット あるいは夢の鍵/愛人ジュリエット』は僕は結構楽しめたんですが、『モンパルナスの灯』は評判ほど素晴らしさがわからず、今回の「ジェラール・フィリップ生誕100年映画祭」で僕が最後に観たのがこれだったのはちょっと寂しかった。

いや、ジェラール・フィリップご本人が36歳の若さで病気で亡くなった人だから、そこのところもモディリアーニと重なりはするんだけど、だからこそ余計観終わってしんみりしちゃって。ジェラール・フィリップはけっして恋人や妻に手をあげたりするような人ではなかっただろうし。

最後はもっと明るい気分で観終えられる映画がよかったな。

ジェラール・フィリップ生誕100年映画祭」が行なわれた映画館は本日23日で無期限の休館が決まっていてそれも非常に寂しいんですが、またいつかどこかで(できれば同じ映画館で)ジェラール・フィリップの映画を観られる日が再び来ることを願っています。


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