セルジオ・レオーネ監督、クリント・イーストウッド、ジャン・マリア・ヴォロンテ、マリアンネ・コッホ、ホセ・カルヴォ、ヨゼフ・エッガー、アントニオ・プエリート、ジークハルト・ルップ、ウォルフガング・ルスキー、マルガリータ・ロサノ、ブルーノ・カロテヌート、マリオ・ブレガ、ベニート・ステファネリィ、ラフ・バルダッサーレほか出演の『荒野の用心棒』4K復元版。1964年作品。日本公開65年。
音楽はエンニオ・モリコーネ。
メキシコ国境の町に一人の流れ者がやって来た。ジョー(クリント・イーストウッド)と名乗るそのガンマンは、町を牛耳る二大勢力、悪徳保安官バクスター一家と情無用の悪党ロホ一家を争わせ、一挙に共倒れさせようと画策するが…。(公式サイトより引用)
「ドル3部作 4K」の1本として鑑賞。
ちょっと前に『夕陽のガンマン』を観て、でもあいにくこの『荒野の用心棒』は日程が合わなくて上映が終わってしまったので諦めていたら、4/11の最終日までの間に再び上映されていたので、仕事が終わったあとに電車に飛び乗って上映館に向かい、終電で帰る、というアクロバティックな技でなんとか観ることができたのでした。
言わずと知れた、黒澤明監督、三船敏郎主演の『用心棒』の西部劇版リメイク。
著作権のことでいろいろあったけど、結果オーライということで。
僕はどちらも好きです。
『夕陽のガンマン』同様にこれまで映画館では観たことがなかったので、劇場のスクリーンで観られて嬉しい。
基本的にはオリジナルの『用心棒』のストーリー通り(なので、細かい内容については↑あちらの感想をどうぞ)なんだけど、騎兵隊の兵士の死体のくだりは確かこの映画独自のものだったと思うし、最後のラモン(ジャン・マリア・ヴォロンテ)との決闘も「拳銃とライフルの対決」ということで工夫してある。
まぁ、ジョーに言われた通りにいちいち律儀に心臓を狙うラモンがお人好しというか、いや、頭撃ったらイチコロじゃん、と思うんだが^_^;
でもカッコイイからオッケー、と。『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』でも使われてたし。
サン・ミゲルの町にやってきたジョーを保安官のバクスターの子分たちがからかって彼が乗っているロバを銃声で驚かして笑いものにするが、ジョーはあとで男たちのもとへ再びやってきて「あのロバは笑われるのが嫌いなんだ。あいつに謝ってくれ」と言う。一笑に付す男たちだったが、ジョーは真顔になって「笑っていいのか?」と彼らを睨む。
それまでアメリカの西部劇では銃を撃つ側と撃たれる相手を同一画面に入れてはいけないことになっていたのが、イタリア人のレオーネはそんなの無視してジョーが男たちを連射で撃ち殺すショットを同じフレームの中で撮ったので、それは当時の人たちにとっては刺激的だったんでしょうね。
もっとも、この映画でも、それから『夕陽のガンマン』でもそうだったけれど、撃たれた相手の身体から血が吹き出るエフェクトはまだ使ってなくて、撃たれても血も出ないし穴も開かない。役者が派手に回転したり仰け反ったりして、その威力を表現している。
そこんとこでは、しっかり血を見せた黒澤監督の元祖『用心棒』やその続篇『椿三十郎』(感想はこちら)の方が先を行ってたんだな。
終盤で散々痛めつけられるのにジョーに献身的な宿屋の主人(ホセ・カルヴォ)。
よく言われるように、イーストウッドが演じるジョー(しばしば“名無しの男”と紹介されるけど、劇中では彼にはちゃんと呼び名があるし、続く『夕陽のガンマン』ではモンコ、『続・夕陽のガンマン』ではイーライ・ウォラック演じるトゥーコから“ブロンディ”と呼ばれる)はキリストを意味している。キリストもロバに乗っていた。
同じように“銃を持ったキリスト”としてはポール・ヴァーホーヴェン監督、ピーター・ウェラー主演の『ロボコップ』(感想はこちら)がある。
ロボコップも銃を撃ったあとにガンスピンさせますし。
銃ってのは男根のメタファーだから、拳銃とライフルではどちらが速いか競い合うジョーとラモンは、チンチン比べ合ってるのと同じなんだよな。
ちなみに、セルジオ・コルブッチ監督、フランコ・ネロ主演の『続・荒野の用心棒』(感想はこちら)と本作品はまったく無関係だし原題も違うんだけど、あちらも面白いです。ガトリング銃も出てくる。
西部劇、特にマカロニウエスタンって、銃の曲撃ちだとか残酷描写だとか、そういうとこでも競い合っていくんだな。まぁ、そういうのこそが面白いんだし、この『荒野の用心棒』はそこに先鞭をつけたんですね。
『夕陽のガンマン』の感想にも書いたように、もとが黒澤作品の翻案だからストーリーはよく出来てるんだけど、それでもいろいろと無理はあって、兵士の死体を墓に置いて生きているように見せるって…あんなに銃を撃ちまくられても微動だにしない時点でおかしいと思うはずでしょ。
あと、これはオリジナル通りなんだけれど、ラモンが無理やり自分の女にしたマリソル(マリアンネ・コッホ)*1を閉じ込めている小屋の真ん前に夫と息子を住まわせておくというのは、いくらなんでも変じゃないか。わざとやってるのか?
ジャン・マリア・ヴォロンテは『夕陽のガンマン』でも1人の女性(彼女はすでに死んでいるが)に心を囚われている役だったけど、頭が切れる男のようでいて、女性に対してはどこかナイーヴなところがあって、そこんとこはちょっと可愛くもある。
ラモンはジョーのことを「ああいう頭が切れる男は危険だ」と言うけど、ジョーがマリソルを逃がしたことがバレてロホ兄弟たちに袋叩きにされるという展開は同じことを『夕陽のガンマン』でもやってて、少々ワンパターンではあった。
まぁ、うまくいったと思っていたら危機に直面、というのはこういう映画では基本ですけどね。
なぜ助けてくれるのか、というマリソルの問いに、ジョーは「昔、ある女を助けられなかったからだ」と答える。それ以上詳しくは説明されない。
空白がいっぱいあるからこそ、主人公のガンマンは謎めいて見える。
イーストウッドはのちにレオーレの映画よりもさらにシリアスさを増して、同じように謎めいたガンマンが主人公の映画を自ら主演して撮った。
イーストウッドが撮った西部劇よりも、僕はもうちょっとユーモアのあるレオーネの「ドル3部作」の方が好きですけどね。
それにしても、若い頃のイーストウッドは「ルパン三世」の次元大介っぽいよなぁ。
『夕陽のガンマン』の主役はイーストウッドというよりも共演のリー・ヴァン・クリーフだったし、『続・夕陽のガンマン』の主役は明らかにイーライ・ウォラックだった。
だから、紛れもなくイーストウッドが主役である『荒野の用心棒』は、ほんとの意味でイーストウッドの主演映画なんだよな。『用心棒』のリメイクだけど、すでにこの作品自体がマスターピースになっている。
エンニオ・モリコーネの曲は3部作すべて聴き応えがあっていいんだけど、この『荒野の用心棒』のテーマ曲や劇中曲は特に耳に残る。
これまでDVDとかTV放送などで何度も観ているから新鮮味はないけれど、ここからさらに「マカロニウエスタン」は盛んになっていったんだと思うと、やはり一度は劇場のスクリーンで観ておくべき映画だし、今年はイーストウッドの代表作を次々と観られて大満足。
正直、ここんとこ旧作のリヴァイヴァルだらけで大変なんですが(おかげで新作を観る余裕がない)、でも、そんなにない機会なんだから、せっかくなのでね。
イーストウッド主演作以外のセルジオ・レオーネ作品も映画館で観たいなぁ。
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