映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

もう一つのブログとともに主に映画の感想を書いています。

『ルックバック』(2024年アニメ版)


アニメーション映画『ルックバック』(2024) について。

9月11日(金) から劇場公開予定の是枝裕和監督による実写版の前に。ネタバレありです。

藤本タツキさんの原作漫画は読んでいなくて、この映画も2年前の劇場公開時には観ていません。

話題になっていたのは知ってたけど、わずか58分の上映時間の作品に割引なしで1700円の料金を支払う気になれなかったので。

でも河合優実さんが主人公の声を担当していて気にはなっていたし、NHKのEテレで放送された時には視聴しました。ちょっと前に再放送された時にももう一度観た。

それでも僕は普段漫画を読まないし、この作品だけでなく藤本タツキさんのほかの作品も一切読んだことがないので、そんなこのジャンルに関してリテラシー皆無の人間が果たして感想など書く資格があるのかどうか心許ないのですが。

しかも、TV放映から微妙に時間が経っているので細かい部分は覚えていないし。なので、記憶違いで間違ったことを書いていたらご指摘いただけると幸いです。

そういういいかげんな奴がなんとなくの記憶をもとに書いているような文章ですから、熱心なファンのかたはお読みにならない方がいいです。

小学4年生の藤野(声:河合優実)は学級新聞で4コマ漫画を連載してクラスメイトや教師から一目置かれていたが、別のクラスの不登校の生徒・京本(声:吉田美月喜)が描いた4コマのデッサン力に敗北感を覚える。
やがて藤野と京本は意気投合、協力し合って同じ漫画を描くことになる。

さて、「感想」などと言ってみたものの、僕が関心を持ったのは作品の内容よりもそれに対する世間の評判や反応の方だったりする。

これも少し前にとある漫画がTVアニメ化される、という発表があっておもにSNS上で炎上していて、僕はその漫画も読んでいないので外野から世間の反応を眺めていたのですが、そこでこの「ルックバック」の原作漫画もあらためていろいろ言われていたことを知りました。

先ほど述べたように僕は原作が発表された時のこともアニメ化された直後の世の中の細かい反応も知らないから何年遅れかでそれらについて触れたんですが、「史実」だとか「作者の実体験をもとにした」といった振れ込みの“フィクション”には若干警戒心を持つようになっているので、アニメ『ルックバック』を初めて観た時に覚えた「ちょっと嫌な感じ」を思いだしたのでした。

ふたりの少女が漫画を介して出会い、共同の筆名で漫画家としてデビューするが、そのうちの一人が自らの意志で自分の望む道に進んでいく。しかし、彼女は残酷な事件の犠牲に…。

事情をよく知りもしない奴(※私のことです)が「いっちょ噛み」してるみたいであまり偉そうなことは言えないけれど、映画の後半で描かれる大量殺人はやはりアニメに疎い僕にも現実に起こったアニメ制作会社への放火殺人事件を連想させるものだったし、だから凄惨な事件からまだ間もない時期(原作が発表されたのは事件からわずか2年後で、しかもWEB公開されたのは事件があった日の翌日)にフィクションの“素材”として商業利用しているのではないか、という批判にも全面的にではないが確実にそういう側面はあると思った。

原作やそのアニメ化作品に対して圧倒的に絶賛の声が多い一方で、ごく一部に批判もある。

批判にもいろいろありますが、その中で興味をそそられたnoteの記事。

note.com

ちなみに、せっかくなのでこの記事の執筆者のかたが挙げられていた何本かの「芸術家映画」のうち、僕が書いた『モンパルナスの灯』と『アマデウス』の感想を張っておきます。

ei-gataro.hatenablog.jp

ei-gataro.hatenablog.jp


また、同じはてなブログで僕と同様に原作未読でご覧になったかたの感想も。

wayfarer.hatenadiary.jp

特に最初の記事はもうこれでもかというぐらい激しい言葉でぶっ叩いてますね(あ、お断わりしておきますが、上記の記事やその執筆者さんを批判する気はないのであしからずご了承ください)。

2つの記事に共通しているのは、「京本」の描写が不足している、と指摘している部分。

主人公の藤野は最初から自分の漫画の才能を鼻にかけたチョイ嫌味な奴として登場して、でもそんな彼女が京本の画力にその鼻をへし折られて一念発起、引きこもりだった京本が自分のファンだったことを知り、友情を深めていくとともにふたりで漫画家として認められていく。

確かに一応家族が描かれてはいる藤野に比べると京本側の家庭描写は極端に少なくて、というか彼女が「亡くなって」からようやく母親が出てくるぐらいで、京本が藤野にとってあまりに都合の良い存在として描かれ過ぎなのではないか、というのはその通りだと思う。

ただし、この作品自体が藤野のほぼ「一人称」で描かれている以上、それがほとんど彼女の視点のみに限られているのは作劇としては不思議ではなくて、出会いのあとで京本が藤野に心酔しているのがわかるのも藤野が京本を引っ張りまわして自分に付き合わせるのも、いずれも京本が「美術大学に進みたい」と自分の気持ちを打ち明けて藤野から離れていく、その時の藤野のショックを際立たせる役割を果たしているわけで、そこは必ずしも「描写不足」とばかりはいえないのではないかと。

安易にフィクションの中の登場人物を作者と同一視するのは避けたいですが、それでもこれは単に主人公がもうひとりの主要登場人物を都合良く利用した「感動ポルノ」ではなくて(上記の批判のように、その可能性もまったくないとはいえないが)、自己本位な言動が目につく藤野もイノセントさを強調されている京本もどちらも原作者の「一部」だと思うのです。

それに、藤野と京本が原作者の分身、というだけではなくて、ここでの藤野の取り返しのつかない「後悔」は、自分が京本の決意や出立を受け入れて祝福するのではなく否定して彼女を見下すような発言をしたまま二度と会うことがかなわなくなったことじゃないだろうか。

たとえ進む道が分かれてもお互いにどこかで生きてさえいればいつか再会する時があるかもしれないし、仮に今後再び会うことすらなくてもやはり生きてさえいればそれぞれの「未来」がある。いつか和解できるかも、彼女に謝罪できるかもしれない、という救いがあったはず。だが、その可能性は永遠に断たれてしまった。作品内で描かれなかった京本の心の内はもはや確かめるすべがない。

そういう悔いは、僕にもいろいろと思い当たるところがある。

そして問題の、「現実の事件をフィクションの中で描くこと」についてですが、先ほど映画を批判されていた(原作に対しては一定の評価をされている模様)かたがこの映画であの事件をもとにした凶悪殺人事件を描く理由・必然性がない、というような指摘をされていることについては、僕が最初にこの映画を観た時の印象から言わせてもらうと、理不尽過ぎる凶悪犯罪、それもクリエイターを標的にした──犯人もまた自分が作り手側の人間だと思っている──事件を描くことで、原作者は憤りや無念さ、クリエイターとしての無力感を込めたんだろうと思ったんですよね。

だから、この「凶悪事件」を別の事故や災害で代替することはできないでしょう。明らかにあの事件は意識的に作品の中で扱われている。

原作者や出版社、そしてアニメ制作会社は劇中での惨事が現実の事件を連想させることについて何も語っていないので、そのことに対しても批判がありますが、それをどう解釈するかも受け手次第ではある。

無責任に利用・消費している、と受け取るか、それとも切実な想いとしてとにかく描かずにはいられなかったのだ、と捉えるか。言いたいことは作品の中で表現する、下手な弁明はしない、というのもひとつの態度の表れとはいえる。

僕が映画を観た時に覚えた「ちょっと嫌な感じ」はそのままこの作品に対する批判に繋がる一方で、それでも避けられなかったあの事件への「なぜあんなことが起きてしまったのか」「どうして避けられなかったのか」という答えの得られない問いかけも痛切に感じたのです。

個人的に京アニ事件の犯人に同情する余地などまったくないのと同様に、この映画でツルハシを振り上げて京本に襲いかかり彼女やほかの学生たちの命を奪った犯人の心の深層や彼の境遇などに深く立ち入る必要はないと思うし(この作品での犯人像がステレオタイプであったことに留意は必要だけど)、ここで重要なのは犯人側の事情ではなくて「殺された側」、一方的に暴力で未来を奪われた人々への想いだ。

私のせいで京本は殺されてしまった、という藤野の罪悪感はかなりの飛躍があって無理があり過ぎるし、もしも小学生のあの時に藤野と京本が出会わなかったら…という「IF」の世界でも結局は京本は美大へ進学するし凶悪犯罪者に遭遇する。

何をどうしたって起きてしまったことはなかったことにはできない。藤野≒藤本タツキの怒りと悲しみ、無力感は私たち読者や観客が抱いているものでもある。

何度想いを巡らせてもそれを痛感するからこそ、そのあとで、では「私」はこれからどうすべきか、というところで、藤野は「クリエイター」である自分には漫画を描き続けることしかないのだ、という結論に至る。

そして大切なのは、この「ルックバック」という作品の存在自体が(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、もしかしたら今後起きてしまうかもしれない同様の凶悪事件を未然に防ぐ役割を果たすかもしれない、ということ。

「創作物に人を救う力などないのではないか」という無力感にさいなまれながらも、作り手はそういう祈りのようなものとしてこの作品を世に送ったのではないか、と思うのはナイーヴ過ぎますかね。

僕はこの作品に対する批判はあっていいと思うし、いくつかの批判にはうなずかされるところも多々あるので、そうやって作品を読んだり観たりして「考え」「議論する」ことには大きな意味があると思います。ただ冷笑するよりもよっぽどマシだろう。

実際には時間を巻き戻して凶悪犯罪者を飛び蹴りで撃退することも、亡くなった人たちを救うこともできない。

藤野が描いた4コマ漫画で京本を救った彼女の背中に凶器のツルハシがぶっ刺さってる4コマ目のオチには不覚にも笑ってしまったし、それは不謹慎すれすれではあるけれど、そうやって「笑い」に変えることで現実の怒りと悲しみをなんとか、それこそなんとかやり過ごしていく(それはけっして消えることはないにせよ)──表現物、創作物というものにはそういう力があるのだと信じたい、そういう切なる願いがこの作品を生みだす原動力だったのではないか。

正直、僕には映画の構図だとかショットの見事さ、みたいなところに注目するような芸術的な「目」がないので、肝腎の「絵」についてどうこう言えないんですが、それでも多くの人たちが述べられている通り藤野がリズムをつけて歩いたり飛び跳ねるような動きをして見せる場面は目に心地よかったし、「アニメ」を観ている快感があった。

いかにもなコミカルタッチで凶悪犯をやっつけたり先ほどのツルハシぶっ刺さりみたいなデフォルメなど、漫画やアニメには実写作品とは違った爽快感や独自のリアリティというものがあるし、それがままならない現実を乗り切っていく助けになることもある。

「クリエイター」であろうとなかろうと人は生きていくのだし、「何か」が人に寄り添い、たとえささやかではあっても生きづらさから一歩踏みだす力になってくれることはある。

再三繰り返しているように僕はアニメ作品(特に日本製の)を観ることはほとんどないし、この作品のおかげでアニメや漫画に再び強い関心が芽生えたわけでもないですが(ちいかわも観てない)、でもこうやってたまに心に残る作品に触れるのもいいな、と思いました。

実写版も楽しみにしています。


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