セルジオ・レオーネ監督、クリント・イーストウッド、リー・ヴァン・クリーフ、ジャン・マリア・ヴォロンテ、ルイジ・ピスティッリ(グロッギー)、クラウス・キンスキー、マリオ・ブレガ(ニーニョ)、パノス・パパドプロス(サンチョ)、ベニート・ステファネリィ(ヒューイ)、アルド・サンブレル(クチーリオ)、ロレンツォ・ロブレド(インディオを裏切った男)、マーラ・クルップ(ホテルの主人の妻メアリー)、ローズマリー・デクスター(懐中時計の女性)、ピーター・リー・ローレンス(懐中時計の男性)、ロベルト・カマディエル(駅の店員)、ヨゼフ・エッガー(地獄耳の老人)ほか出演の『夕陽のガンマン』4K復元版。1966年作品。日本公開1967年。
音楽はエンニオ・モリコーネ。
大悪党エル・インディオ(ジャン・マリア・ヴォロンテ)が脱獄し、1万ドルの賞金が懸けられた。インディオ一家を追う2人の賞金稼ぎ、若きモンコ(クリント・イーストウッド)とモーティマー大佐(リー・ヴァン・クリーフ)は商売敵だったが、一家全員の賞金山分けを条件に手を組むことに。しかし大佐には別の目的があった…。(公式サイトより引用)
「ドル3部作 4K」の1本として劇場鑑賞。
3/22(金) からセルジオ・レオーネ監督、クリント・イーストウッド主演の『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』がリヴァイヴァル上映されていて、そのうち『夕陽のガンマン』だけ観ることができました。
ほんとはこちらも劇場では未見だった『荒野の用心棒』も観たかったんだけど、残念ながら都合がつかず、上映が終わってしまった(※追記:その後、4/11の終了までの間に再上映されていたので鑑賞)。
『続・夕陽のガンマン』は以前「午前十時の映画祭」で映画館で観ているのと、3時間近くあるため体力的にキツそうだったから今回は断念。
上映の直前になぜか観客席の妙なところにライトが点いて、いつもはこんなに明るくないから嫌な予感がしたんだけど、案の定、映画本篇が始まっても客電が落ちず、場内が明るいまま上映が続いた。明るさが気になって、オープニングのモリコーネの音楽が全然耳に入ってこない。
さすがに客席から「…なんで暗くならないの?」という呟きも聞こえてきて、僕の斜め前の席のお客さんが立ち上がって外に出ていったので、従業員に声をかけにいったんだろう、と思ってしばらく様子を見ていたら、無事先ほどの変なライトが消えてやがて場内は暗くなったのだった。
上映後も劇場側からはなんの説明もお詫びのアナウンス等もなし。
ミッドランドスクエアシネマさん、あなたんとこのことですよ!
最近は上映が始まると係員がしばらく出入り口に立ってて上映が無事行なわれているか確認する劇場が増えているけど、この劇場には誰もいなかった。お仕事サボらないでもらえますか。
…さて、映画の方ですが、これまで何度も観てきたし、以前はDVDも持っていた。あいにく現在はもう手許にありませんが。
だからかなり久しぶりの鑑賞で、頭の中で他の2本と微妙にごっちゃになってるところもあるし、内容についてはよく覚えていなかった。
記憶していたのは、これまで半引退状態だったリー・ヴァン・クリーフがこの映画で俳優業に返り咲いた、ということや、ジャン・マリア・ヴォロンテが『荒野の用心棒』に続いて悪役を演じていたことぐらい。
この作品のファンも多いし、僕もいかにも“ザ・マカロニ・ウエスタン”といった本作品をこれまでのように楽しんだんですが、内容的には要するに男どもが銀行から奪った大金を巡って戦ってる、ただそれだけの話なんでちょっと観ていて疲れたし、長ぇな、とも思った。
前作(3部作、と言ってもストーリーや登場人物たちに繋がりはないが)『荒野の用心棒』の上映時間が96分だったのに対して、今回は132分あって、その次の『続・夕陽の~』は178分(完全版)と、レオーネの映画はどんどん長くなっている。
お話の面白さで見せるわけでもないので、人によってはしんどいんじゃないかとも思う。
僕は今回、ひたすらスクリーンに大写しになるリー・ヴァン・クリーフとジャン・マリア・ヴォロンテの顔を見つめてました。
イーストウッドももちろん渋くてかっこいいんだけど、ヴァン・クリーフのあの鋭い目つきや不敵な笑顔、悠然とした身のこなし(って、怪我のせいで彼は走ることができなかったそうだが、そのためゆっくりとした余裕のある動きに見えて、喉を押し潰したようなあの声とともになんとも言えない存在感を醸し出している)はいちいち画になる。
ほんと、ウイスキーのCMそのまんまだもんな。
ジャン・マリア・ヴォロンテの方は、もう見るからに悪党、って感じの面構えで、リー・ヴァン・クリーフ同様この人の顔をずっと見てても飽きないんだけど、実はご本人は結構政治的な人でもあって(共産党を支持)撮影の合間に政治的な話題を吹っかけてくるのでイーストウッドがめんどくさがった、というエピソードもあるほど。
でも、髭ヅラであの濃いめの顔つきだから、残忍な役柄がハマるんだよね。それが、この映画ではリー・ヴァン・クリーフ演じるモーティマー大佐の妹を殺した下手人でありながらも、彼女の写真が入った懐中時計をずっと持っていて、あの女性の自死をどこかで悔いているような雰囲気もある。
顔が似てるわけじゃないんだけど、でもちょっとインディ・ジョーンズを演じてる時の髭ヅラのハリソン・フォードを思わせる表情をするんだよね。
『荒野の用心棒』でジャン・マリア・ヴォロンテが演じたラモンは、銃の扱いに長けていていつも相手の心臓を狙う、という役柄だったけど、今回彼が演じるエル・インディオは特に射撃が巧いとかいう描写もなかったよーな。手下の一人、クチーリオを裏切り者に仕立てて彼が逃げていくのを撃ち殺す場面はあるけど、特に凄腕、という感じではなかった。
だから、ラモンほど頭が切れる男、という印象もない。
何か考えてるようで、そんなに考えてないというか、手下たちを殺しちゃったらそのあとどうすんの?インディオの狙いがイマイチわからない。仲間たちを始末して大金を独り占めして、手下の中の一番頭であるニーニョとともに行方をくらまして足を洗おうとしたんだろうか。
どうも、登場人物たち同士の騙し騙され、みたいなストーリーテリングの面白さはそんなに感じなかった。
そういうところでは、僕は『荒野の用心棒』の方が物語として面白かったし(もともと黒澤明の『用心棒』→ 感想はこちら をパクったんだから、面白いに決まってるんだが)、96分というタイトな仕上がりでとても観やすい。
それにしても、出てくるのは見事に男ばっかですよね。
マカロニウエスタンとかギャング映画、ヤクザ映画ってのはそういうものなんでしょうが、女性の登場人物が極端に少なかったり、出てきてもオマケ扱いだったりあっという間に殺されてしまったりする。
そういう部分で、この手の映画は「男のもの」とされてきたのだろうし、だからこそ愛してやまない人たちもいるんでしょう。
『荒野の用心棒』よりもさらに女性の登場人物の重要度というか芝居を見せる余地は減っていて、悪役に犯されて自害するだけ。演じている女優さん─ローズマリー・デクスターはノンクレジット。とても綺麗な人だけど、ただの殺され要員でもある。
このあたりもヤクザ映画っぽいよなぁ(やくざ映画がこちらをいただいたんだが)。
あとは、モンコが泊まることにしたホテルで彼に色目を使う女性だとか、モーティマーが追っていた賞金首の相手をしていた娼婦だけ。
ほんとにむさくるしい世界^_^;
途中でインディオの企みを見破る手下の一人、グロッギーを演じるルイジ・ピスティッリは、そのあとの『続・夕陽のガンマン』では更生して神父になったトゥーコ(イーライ・ウォラック)の兄を演じていたけど、悪人ヅラのせいで善人に見えなくて困った。
クラウス・キンスキー演じるワイルドは背中が盛り上がっていて(劇中で“Hunchback”という台詞もある)、モーティマーが彼の背中でマッチを擦る場面がある。なかなかにして侮辱的な挑発だけど、おかげで名場面が出来上がった、とも言える。この時のキンスキーの怒りに震えるあまり涙目になる顔の演技が絶品。
後半、東の町でモーティマーに再会したワイルドは、食事中の彼に自ら背中を向けて「また背中を貸してやる。マッチを擦ってみろ」と言うが、それに対してモーティマーが「タバコは食後だ。10分後に来い」と返すのが振るっている。
モーティマーの狙いは妹の復讐だったけど、彼自身もけっして善良な人間という感じじゃなくて、停まる予定ではない駅に無理やり列車を停まらせたり、結構やりたい放題やっている。
まぁ、似た者同士でもあるモンコに喧嘩を吹っかけられてブーツを踏み合ったり、殴られたと思ったら今度は拳銃の弾丸で帽子を飛ばし合ったり、いい年したおっさんたちが、子どもが喧嘩のあとに仲直りして友だちになる、みたいな幼稚な悪童めいた関係。
この、拳銃で帽子を飛ばし合う、ってのもいろんなところで真似されてるっぽいですよね。有名なシーンだし「そんなバカな」とも思うけど(笑)
先ほどストーリーテリングに首を傾げたようなことを書いたように、なんか後出しみたいな展開が多くて(インディオはモンコの正体を最初から見破っていて、利用しようとしていた、というくだりなど)、これも上映時間が長かった『続・夕陽のガンマン』以上に冗長さを感じてしまったのだけれど、でも、なんかダラダラしてる、この時間がどこか愛おしくもあった。
男らしさ、男臭さを強調されればされるほど、今となってはそれは可愛くもあり、愚かしく見えもする。
リー・ヴァン・クリーフが銃を組み立てて構える姿に痺れつつも、同時になんとも言えないバカバカしさ、空虚さも感じずにはいられない自分がいる。
それは、もはや「男らしさ」の正体に気づかされてしまったからかもしれない。
無邪気に男たちのワチャワチャを楽しんではいられなくなったのは少々寂しくもあるけれど、でも馬に乗って颯爽と駆けるガンマンたちに、早撃ちとガンスピンにワクワクする心はまだ完全に消えてはいない。
イーストウッドやリー・ヴァン・クリーフが喋ってる後ろでたくさんの人々の姿が見えて、そこにはかつての開拓時代の町並みがあり、荒くれ者たちが闊歩している。
僕はそんな世界で生きたこともないし生きたいとも思わないが、映画の中を時々訪れて、しばし暴力の渦巻く血と汗がしたたる西部劇の世界に身を沈めてみることには、古びたポスターを眺めたり、昔遊んだ場所を再訪するような楽しさがある。
ここんとこ怒涛のように昔の映画のリヴァイヴァル上映が続いてるけど、自分が生まれる前に作られた映画から最新作までいろんな映画を渡り歩く旅は、僕をまるで西部をさすらうガンマンのような気分にさせてくれる(馬には乗れませんが)。
イイ顔のおっさんたちと砂埃にまみれたイタリア製西部劇の世界。コンプラ的にはツッコミどころは多いけれど、これは「男たち」のファンタジー、「ごっこ遊び」なんだな。ほどほどにしときましょう。