フランソワ・トリュフォー監督、ジャンヌ・モロー、オスカー・ウェルナー、アンリ・セール、マリー・デュボワ、ヴァナ・ユルビノ、サビーヌ・オードパン、ボリス・バシアク出演の『突然炎のごとく』。1962年(日本公開1964年)作品。
原作はアンリ=ピエール・ロシェの小説。
モンパルナスで出会ったまったく性格の異なるジュール(オスカー・ウェルナー)とジム(アンリ・セール)は意気投合する。カトリーヌ(ジャンヌ・モロー)という女性に惹かれた彼らは自由奔放な彼女に翻弄されながらも、奇妙な三角関係を続ける。ドイツとフランスの戦争によって引き裂かれた彼らだったが、戦後、ジムはカトリーヌと結婚していたジュールの家に招かれる。
ストーリーについて書くので、未見のかたはご注意を。
「午前十時の映画祭8」で鑑賞。
恥ずかしながら僕はこれまでフランソワ・トリュフォーの映画はほとんど観ていなくて、憶えているのは過去にTV放映だったかで『大人は判ってくれない』を、リヴァイヴァル上映で『アメリカの夜』を観たことぐらい。
『アメリカの夜』は映画撮影にまつわる物語で、「映画」というものと、その撮影現場で働く人々への愛に満ちた作品だったと記憶しているけれど、何分20年以上前に観たきりなので内容はよく憶えていません。
トリュフォーについてはゴダール同様に「ヌーヴェル・ヴァーグ」の旗手として映画史的にその名は知ってはいたし、トリュフォーがヒッチコックと対談した書籍「映画術」も昔図書館で借りて読んだりはしていましたが、映画自体は積極的に観るまでには至りませんでした。
トリュフォーの映画はけっして内容が難解なわけではないけれど、でもあの時代の映画って映画史の本などで読むととても興味深いんだけど、実際に作品を観てみるとそのよさがよくわかんないことが多くて、ちょっと敬遠してしまいがちだったりする。
ちなみに、今回この映画の日本語字幕を担当しているのは、「映画術」の翻訳をしていた山田宏一。
「映画術」ではヒッチコックとトリュフォーの映画の組み立て方の根本的な違いがうかがえて面白かった。
ヒッチコックの映画がすべてを「画」に奉仕させる、非常に技巧的で作り物の面白さに満ちているのに対して、トリュフォーの場合はたとえば演者の芝居のさせ方とか「人間」の方に興味が向いている。
二人の作家性の違いはそのまま映画のタイプの違いのようでもあり、彼らに影響を受けた後進の映画監督たちのことなどもいろいろと頭をよぎる。
で、今回別の最新映画を観るついでに、たまたま「午前十時の映画祭」でやっていたトリュフォーの監督作品であるこの『突然炎のごとく』を観ることに。
タイトルは有名だからこれも知ってはいたけど、映画は初見。どんな話なのか予備知識もないままで観ました。
でも、う~~んと…最初にお断わりしておくと、ごめんなさい、僕の手に余る作品だった^_^;
観終わったあとにポカ~ンとしてしまった。
登場人物たちの三角関係を描いた話だから意味がわからないことはないんだけれど、なんというか、やっぱり最近のハリウッドのわかりやすい物語に慣れきっていると、この映画が描かんとしているものは僕にはちょっと難しすぎて。
一人の女に振り回された挙げ句に、男の一人は彼女とともに命を落とし、目の前で妻と友人をいっぺんに失くした男は寂しく去っていく。
余韻もへったくれもない幕切れ。
これを観て俺は一体何を感じればよいのか。愛することは狂気の沙汰、とでもいうことか。
でもこの作品がなぜこれほどまでに有名で評価が高いのかをまったく理解できなくて、あまりにわからないので鑑賞後に映画評論家の町山智浩さんの解説を聴きました。
ストーリーとか手法、時代背景などの疑問点については、ほぼ解説してくれています。
ジムとカトリーヌの幼い娘サビーヌが途中で消えちゃった理由は結局わかんなかったけど。
もう、町山さんの解説を聴いたらそれでオッケーな気がしちゃいますが^_^;
僕は正直ヒロインのジャンヌ・モローよりも、映画の最初と最後の方に出てくるお喋りなテレーズ役のマリー・デュボワの方がカワイイし魅力的で今っぽいと思ったんですよね。
彼女をもっと観ていたかったぐらいで。
僕はジャンヌ・モローという女優さんはリアルタイムで映画館で観たのがリュック・ベッソン監督の『ニキータ』に出てたのが初めてなので、あの時点でもうずいぶんシワがいっぱいのおばあちゃんだったから(あと、ジャン=ジャック・アノー監督の『愛人/ラマン』ではナレーションを担当していた)、彼女の若い頃を知らないし、どうしても映画史的な視点からしかその存在を把握できないんです。
目許が宮本信子に似てたりするしw
それでも前半はわりと好きだったんですよ。青春映画っぽくもあって。でも後半で三人が別荘を行ったり来たりしてるのがず~っと続いてるのを観ていて飽きてしまった。これ、俺にはどーでもいい話だなぁ、と。
当時多くの映画監督のミューズとして映画に出続けていた彼女の、ただひたすらおのれの欲求に忠実な姿、それが先駆的なヒロイン像として映ったのかな、なんて。
僕にはこの映画のカトリーヌはただアブナイ人にしか見えませんでしたが。僕が「お子ちゃま」だからだろうけど、そもそもカトリーヌのようなめんどくさそうな女性にかかわりたいと思えないので。
でも、確かに町山さんが解説されているように、映画の最初の方で芝居を観たジュールとジムの女性差別的な発言や態度に抗議して川に飛び込む場面はとてもよくわかったんですよね。
そしてそこから彼女が変わっていく、というか壊れていく。
だから、自分は抑えつけられている、と感じている人、特に女性には彼女の生き方が理屈ではともかく感覚的に共感できるのかもしれませんね。
もっとも、トリュフォー本人はそういう見方に批判的なんだそうですが。
でも、映画の序盤でセーヌ川に飛び込んだカトリーヌは、映画の最後には車ごとジムと川に転落する。
そこにちゃんと因果律があって、だから監督にはそういう意図がなかったとしても、彼女のあの暴走気味の人生にはいろいろと意味が込められると思うんですよ。
ただ、僕はやはり安定した家庭生活に充足できずに破壊的で衝動的に振る舞うカトリーヌという女性にはあまり魅力は感じられなくて、むしろこれを彼女についての映画というよりは、ジュールとジムという二人の男性の関係を描いたものとして捉えました。
原題も「ジュールとジム」だし、僕はこの映画はカトリーヌという女性を介したジュールとジムの同性愛的な関係や感情を描いていたんじゃないかと思ったんです。ちょうどルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』(1960)が、アラン・ドロンとモーリス・ロネが演じる青年たちの同性愛的な関係を描いていたと言われるように。
前半で妙に仲がよくていつも連れだっている彼らの姿も、なんとなくそんな雰囲気ではあるし。
もちろん、仲がいいからって必ずしもそこに恋愛感情が伴うとは限らないけれど。
これは僕の誤読かもしれませんが、ジュールが捨てられそうな自分の代わりにジムにカトリーヌと結婚してくれるように頼むところなんて、ほんとはジュールが求めているのはジムなんじゃないだろうかと。
ジムの方も、結婚しようと思っている相手が他にいるのに、カトリーヌに呼ばれるとすぐさま彼女たちの家に向かうのも、ただ単に女好きだから、というんではなくて、相手がジュールなのだと考えるとしっくりくる。
特別美人でもなく口がいつも「への字」のジャンヌ・モローがどうしてあんなに男たちにモテるのかという謎も、実はあれは男同士の恋愛や痴話喧嘩を描いてるんじゃないか、などと妄想を膨らませると(さらにそこに別の男性も加わるし)、意味がよくわからなかったりあまり興味が持てなかった話にちょっとは刺激が感じられたりなんかしてw
まぁ、半分は冗談ですが、こうやってあれこれ深読みしたりこじつけてみることでいろんな解釈が可能になって、単に有名な作品を映画のお勉強のために観た、というだけではない楽しみ方ができるのではないかと思います。
※ジャンヌ・モローさんのご冥福をお祈りいたします。17.7.31
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