伊丹十三監督の『お葬式』(1984) と『マルサの女』(1987) を「午前十時の映画祭13」で鑑賞。
今年は伊丹十三監督生誕90周年なんですね。
1997年に不可解な死を遂げられて、早26年。
その死の真相についていろいろと取り沙汰されてはいるものの(一般的には自殺とされているが)、その謎は永遠に解かれることはないのでしょうか。
イーストウッドだって93歳でまだ映画を撮り続けているんだから、伊丹監督にも長生きしてもらってもっともっと映画を撮っていただきたかったです。
僕が「伊丹映画」を劇場で初めて観たのは1992年の『ミンボーの女』で、その後は95年の『静かな生活』以外は遺作となった97年の『マルタイの女』まで劇場公開時に映画館で観ています(僕が映画館で観ていたのはわずか5~6年間ほどのことだったんだなぁ…そして伊丹さんは監督生活13年間にほんとに途切れることなく映画を撮り続けられていた…)。
ただ、伊丹監督作品は80年代の終わり頃から90年代ぐらいにかけてはTVの地上波で定期的に放映されていたので、僕は『お葬式』も『マルサの女』とその続篇も、監督作品はほぼすべてTV放送で観ているはず(『静かな生活』も断片的に覚えているので、多分TVで観たんだろう、と思う)。
最後の作品からもう20数年、デビュー作からは40年近い年月が流れたと思うとほんとに感慨深いですが、正直申し上げると、90年代の終わり頃──つまり『マルタイの女』のあたりになるとすでに僕は「伊丹映画」にだいぶ飽きてきていて、その後あらためて観返すこともなかったので内容も『マルタイの女』と『ミンボーの女』が頭の中でゴッチャになってたりする。
伊丹十三監督の映画を僕はあえてヴィデオやDVDなどのソフトで観たことがないんですよね。だからTVで見かけなくなってからずっとご無沙汰だった。
それが今年の「午前十時の映画祭」で初期の監督作品2本が劇場で上映されると知って、本当に久しぶりに観たいと思ったのでした。
いずれもビスタサイズだったんですね。左右にぶっとい黒味が出てほとんど真四角に近い画面サイズ。
『お葬式』
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CM撮影中の俳優夫婦・井上佗助(山崎努)と雨宮千鶴子(宮本信子)のもとに、千鶴子の父・真吉(奥村公延)の訃報が届いた。夫婦は真吉が暮らしていた別荘へ向かい、亡き父と対面する。初めて喪主を務めることになった佗助は、戸惑いながらも周囲の助けを借りて葬儀の段取りを進めていくが──。(映画.comから転載)
僕はこの映画も続く『マルサの女』も劇場のスクリーンで観るのは今回が初めてで、先ほど述べたように最初はTV放映で観たんですが、映画『お葬式』の内容で覚えているのは林の中で男女が“つがってる”シーンだけで、それ以外ほとんど記憶にありませんでした。
それと同時に丸太のブランコに乗って、それをどんどん揺らしていく妻役の宮本信子の姿が印象的だった。
あの丸太は“男性のシンボル”を象徴していたわけだけど、表現の方法がほとんど「オースティン・パワーズ」の下ネタギャグと変わんないのがw
山崎努と宮本信子の夫婦は職業が俳優で、財津一郎演じるマネージャーが身のまわりのことをなんでもやってくれる。
あの二人が物語の上で俳優である必然性はないと思うんだけど、まぁ、伊丹監督と宮本さんのご夫婦をモデルにしてるからあえて同じように役者にしたんでしょう。
ちょっと特殊な夫婦ですよね。
だって、普通は夫婦にマネージャーなんていないし、そのマネージャーが必要なお金を銀行へ下ろしにいったり、お通夜や葬儀の手配などすべてをやってくれるなんてことはないから。映画観てたら、ほとんど財津一郎がやってんじゃん、と。
でもまぁ、だからこそ映画になるし面白いんですが。
夫・佗助は妻・千鶴子とはうまくやってるし、家族は一見問題はないのだけれど、佗助は外で他の女性・良子と浮気していて、彼女が千鶴子の父親の通夜にやってくる。
昼間から酒飲んで大声上げたり、良子はどう考えても普通ではないが、佗助はその場を誤魔化しながら良子を連れ出し帰らせようとする。
が、良子は林の中で泣き叫んだ挙げ句に下着を脱ぎだして…そのまま二人はFU○K!!
昔観た時にも、何か汚いものを見たような気持ちになったけど、何十年かぶりにスクリーンで観て、やっぱり汚ぇな、と思ったのだった^_^;
いや、良子役の高瀬春奈さんは綺麗な顔のかただし、おっさんになった今ではああいう昭和テイストなエロスも悪くはないとは思うけれど、伊丹監督はそもそもセックスシーンを官能的に撮ろうなどとは思っていないようだし、どの作品でも「エロ」をちょっとデフォルメ気味に描いていて、だから観ていて女体が醜く感じられてしまう。「あえぐモノ」のように撮られている。
もちろん、笑いの要素の一環として扱っているのだろうけど。もうケツ丸出しであえぎまくりで(笑)
ちなみに、僕は長らく『マルサの女』で山崎努演じる権藤とセックスしたあとで尻にティッシュペーパーを挟んで立ち去る女性を演じていたのは高瀬春奈さんだとばかり思っていたんだけれど、少年時代に物凄いインパクトを受けたあのシーン(でもまぁ、笑っちゃったのだがw あの「尻ティッシュ」には、何か「おとなの世界」を感じさせられたのであった)で“特殊関係人(愛人)”を演じていたのは志水季里子さんでした。
お葬式という厳かで「死」にまつわる儀式と「性」を同列に並べることで、人間の営みについて描いている、ということだろうし、そこに「食」というものも加わる。
ただ、僕は当時から伊丹十三が描く性にも食にもあまり魅力を感じなかったし、むしろ醜悪さや下品さを感じ取っていた。
あくまでもストーリーを転がしていくための小道具として扱っているような。
85年の監督第2作『タンポポ』は海外でも評価が高いし国内でも伊丹作品の中で一番好き、という人が結構いらっしゃるけれど、僕はあの映画の中の「生卵の黄身の口移し」が生理的に耐えがたかったし(外国人がパスタを音立ててすするのを奥様たちが真似する場面とか、家族のためにチャーハンを作り続けてそのまま死ぬ女性のエピソードもあったな)、『お葬式』の冒頭で老父がモソモソと食事する口許をずっとアップで映し続けるキャメラワークも、汚らしさを大いに感じてしまったのでした。
メシがちっとも旨そうに見えないんですよ。伊丹監督の映画の中のセックスが素敵なものに思えないのと同様に。
きっと伊丹監督は性も食も人間の欲求、生きる者のたくましさを象徴するものとして見ているのだろうし、映画の中で用いてもいるんでしょう。あえて汚く、みっともなく、でもその旺盛な食欲や性欲こそが生きる意欲そのもので、だからこれらの表現は彼なりの人間賛歌だったりするのかもしれない。
そういう、どこか自分とは相容れない感覚、汚さへの嫌悪感を抱きつつも、でもストーリーテリングの面白さで観てしまう。
80年代頃の邦画ってどこか野暮ったく暗くて鈍重、というイメージ(あくまでも“イメージ”です。そうでない映画だって他にもあったでしょうが)だったのが、伊丹十三の映画はスピーディで「面白かった」んですよね。そこが新しくもあったし、後進の映画監督たちにも影響を与えたんだと思う。
『お葬式』にはCM撮影の助監督役で若き日の黒沢清監督が出演していたし、枝に引っかかった伊藤博文の千円札を取ろうとする弔問客の青年役で利重剛監督も出てました。
『マルサの女』には『マルサの女をマルサする』というメイキング作品があって、それを周防正行監督が撮っています(2作目の時にもメイキングを担当)。
何かの職業について詳しくリサーチして、そこからお話を作っていく、「業界モノ映画」みたいなのって、それ以前にもあったのかどうか知らないけれど、伊丹十三作品のあとに出てきた監督たちは似たテイストの映画撮ってますよね。周防監督は『シコふんじゃった。』で相撲を、『Shall we ダンス?』では社交ダンスをコメディとして描いてるし、矢口史靖監督の『ハッピーフライト』や『WOOD JOB!』(感想はこちら)などにも──とゆーか、矢口監督の場合、周防監督の影響の方を強く感じるが──伊丹映画のDNAを感じる。
あと、これは偶然なのかそれとも実際に影響があったのかどうかわかりませんが、韓国映画を観るとたまに伊丹映画を思い出すんですよね。要するにちょっと味が濃ゆめというか、クドいというか(笑)そういうとこが。
伊丹十三の映画は芸術映画じゃなくてエンタメだし、そこんとこでも日本映画としては貴重だと思うんですよね。サーヴィス精神に富んでいる。
それにしても、さすがに84年の映画では出演者の皆さんお若いですね。
菅井きんさんや大滝秀治さんはあの頃から(それ以前から)随分と長いこと「老人」を演じてらっしゃったなぁ。住職の役で笠智衆さんも出てたんですねぇ。
宮本さん演じる千鶴子は三河出身、という設定だけど、彼女も親族もみんななぜか名古屋弁を喋っている。だったら名古屋出身という設定にすりゃよかったのに。
岸部一徳の名古屋弁はかなり危うかったし、尾藤イサオのそれも若干なんちゃって感がなくもなかったけど、大滝さんのような親戚のおじいちゃんっていかにもいそうでいい味出てましたね。亡き祖父を思い出しました。僕の母方の祖父は岐阜出身だったけど、名古屋での勤めが長かったこともあってちょっと名古屋弁入ってたから。
親族で集まっても、実はその中に嫌いな人がいたり、本音は限られた者たちの前でだけ出すとか、ああいうのよくわかりますね。けっして相手も悪人ではないのだけれど、人には相性というものがあるし、特にお金が絡むと家族や親戚同士でも揉める。
僕はもう長らく親戚づきあいはしていないし、祖父母はみんな亡くなっているからここしばらくは誰かのお葬式に出向くこともないけれど、次は自分の親だろうか、と思うといろんなことがグルグルと頭を駆け巡る。いや、親には長生きしてほしいですが。
お葬式の映画を撮った伊丹十三監督が、自らあのような形での死を選んだ、というのがやっぱり解せないんだよなぁ。ヤクザに脅されたって怯まなかった人なのに。
人生というのはなかなか計画通りにいかないものですが、監督の生誕90周年という年にこうやってかつて映画館やTVで楽しませてもらった作品を再び、それもスクリーンで観ることで、日本映画界に大きなものを遺された伊丹十三監督を偲びたいと思います。
『マルサの女』PG12。
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税務署の敏腕調査官・板倉亮子(宮本信子)は、とあるラブホテルに目をつけるが経営者の権藤(山崎努)はなかなか尻尾を出さず、調査は難航する。そんな中、亮子は国税局査察部に抜てきされる。摘発のプロとして経験を積んだ亮子は、上司の花村(津川雅彦)と組んで再び権藤に対峙することになり──。(映画.comから転載)
まさにバブル期に作られた映画で、当時の無駄にゴージャスなラブホの内装が見られたり、あ、そっか、あの頃ファミコンの「スーパーマリオブラザーズ」やってたんだ、とか、山崎努はなんかここでもギラついてるなぁ(笑)*1、マッハ文朱がモデルみたいにスラッとしていて美人だなぁ(それ以前は面白いコスチューム着てガメラと一緒に戦ったりしてましたが)、桜金造懐かしいなぁ、今何やってるんだろう、大地康雄はこの頃から髪薄かったんだなぁ、とか(翌年の『ぼくらの七日間戦争』でもイイ味出してましたね)、あの当時のことをあれこれ思い出しながら観ていました。橋爪功さんがほんとに若い!
年取ったら顔の判別がつかなくなった人もいる中で(“ごみ捨て”という重要な役割を担う特殊関係人を演じていた松居一代なんて、あの当時と顔が変わり過ぎてて言われてもわからない)、宮本信子さんは年齢を重ねられてもずっとあの頃の雰囲気を保ち続けてますよね。素敵だなぁ、と思う。
小林桂樹(マルサでの亮子の上司役)や小沢栄太郎(パチンコ屋の税理士役)など『ゴジラ』(1984) 組も出てたんだなぁ。
芦田伸介のヤクザの組長の演技がお見事でしたねぇ。
「俺のことが信用できねぇのか」って、ああいう因縁のつけ方とか、言葉の通じないジジイっているもんね。そんでメガフォン持って大声で嫌がらせしたり。
『ミンボーの女』で描かれたヤクザはかなりマンガっぽかったけど、この映画での芦田さんのヤクザはその台詞廻しなどがリアルだった。芦田伸介さんご本人は、実際にはヤクザとは対極にいるような立場のかただったんですが。
今回、久々に観て、“マルサの女”の発音が「マ↑ルサの女」ではなくて、「マルサ↑(丸太と同じ)の女」であることを知ったのだった。
せっかくなら続篇も上映すればよかったのにねぇ(どうも1作目に比べると世間での作品としての評価は高くないようだが、もうよく覚えていない)。宗教法人を利用して悪巧みする奴らを描いてたわけだし。今の日本のことじゃないですか。
おかっぱ頭でソバカス顔の宮本信子演じる亮子って、キャラが立ってていいよね(^o^)
かっこいいし、でもいつも寝癖つけてて上司に注意されたり、腕力や運動神経だって人並みでけっして人間離れした女ヒーローではなく、等身大のシングルマザーでもある。
亮子の女性像って、邦画の中では当時はなかなか画期的だったんじゃないだろうか。
「仕事ですから」って台詞、オリジナルはこの映画だったんですね(^o^)
宮本信子さんは今では「夏ばっぱ」役で有名だし(朝ドラにはそれ以前から出演されてますが、僕は観てなかった)、その後も同じ朝ドラの「ひよっこ」にも似た感じの年配の女性役で出演されてたし、現在放送中のテレ朝の「日曜の夜ぐらいは…」でもやっぱり夏ばっぱっぽいおばあちゃんを好演。
今ちょうど、映画館やTVでいろんな時代の宮本信子さんが見られますね。
僕は「あまちゃん」と同じ年に公開された高畑勲監督のジブリアニメ『かぐや姫の物語』での媼(おうな)役が印象に残っています。
宮本さんの力強さと優しさ。『マルサの女』でもその両方が表現されていました。
『ミンボーの女』もまた観たくなったなぁ。
※財津一郎さんのご冥福をお祈りいたします。23.10.14
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『かぐや姫の物語』
「ひよっこ」
『赤い天使』
『ゴジラ』
『椿三十郎』
*1:俺の中の山崎努さんは『SPACE BATTLESHIP ヤマト』→感想はこちら の枯れ過ぎた艦長ではなくて、この当時の彼なんだよなぁ。