ピーター・ウィアー監督、マーガレット・ネルソン(セーラ)、ドミニク・ガード(マイケル)、ジョン・ジャラット(アンソニー)、アン・ルイーズ=ランバート(ミランダ)、ヘレン・モース(ポワテール)、ウィン・ロバーツ(巡査部長)、カースティ・チャイルド(ラムレイ)、ジャッキー・ウィーヴァー(ミニー)、トニー・リュウェリン=ジョーンズ(トム)、マーティン・ヴォーン(ハシー)、フランク・ガンネル(ホワイトヘッド)、ヴィヴィアン・グレイ(マクロウ)、レイチェル・ロバーツ(校長)ほか出演の『ピクニック at ハンギング・ロック』4Kレストア版。1975年作品(日本公開1986年)。116分版。
原作はジョーン・リンジーの同名小説。
1900年、2月14日。セイント・ヴァレンタイン・デイ、寄宿制女子学校アップルヤード・ カレッジの生徒が、二人の教師とともに岩山ハンギング・ロックに出かけた。規律正しい生活を送ることを余儀なくされる生徒たちにとってこのピクニックは束の間の息抜きとなり、生徒皆が待ち望んでいたものだった。岩山では、力の影響からか教師たちの時計が12時ちょうどで止まってしまう不思議な現象が起こる。マリオン(ジェーン・ヴァリス)、ミランダ(アン=ルイーズ・ランバート)、アーマ(カレン・ロブソン)、イディス(クリスティーン・シュラー)の4人は、岩の数値を調べると言い岩山へ登り始めるが、イディスは途中で怖くなり悪鳴を上げて逃げ帰る。その後、岩に登った3人と教師マクロウ(ヴィヴィアン・グレイ)が、忽然と姿を消してしまう…(公式サイトより引用)
僕はこの映画をちゃんと観るのはこれが初めてなんですが、1980年代の終わり頃にたまたま実家にあった宝島社のムック本にこの映画のことが載っていて、それでその存在を知ったのでした。
その後、BSだったかでやってるのを観たような記憶もあるんだけれど、いつものことでよく覚えておらず、だからほぼタイトルだけ知ってる映画だった。
クリント・イーストウッド監督・主演の『白い肌の異常な夜』(1971) と頭の中でごっちゃになってるところもあって。
この映画、および原作小説はソフィア・コッポラ監督の『ヴァージン・スーサイズ』(2000) とジェフリー・ユージェニデスによるその原作小説「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」に影響を与えているそうですが、あいにく僕はそれらを観てないし読んでないので、比較できなくて残念。
『ピクニック at ハンギング・ロック』については、女の子たちが行方不明になる、という内容らしいことは知ってたし、実話がもとになっているみたいなことも言われてたよーな。
実際には、原作者が夢で見た話を書いたものだということで、なーんだ、って感じですが。
要するに「神隠し」についての物語なわけで、教師1名と3人の少女たちの失踪(のちに少女の1人は生還)の謎は最後まで解かれることはない。その失踪の合理的な理由も、彼女たちの行方もわからないまま映画は終わってしまう。
少し前に映画館で観たヴィム・ヴェンダース監督の『ベルリン・天使の詩』(感想はこちら)は途中で何度も意識が遠退いたし、以前、フェリーニ監督の映画(感想はこちら)でも居眠りぶっこいちゃったほどアート系寄りの映画に弱くなっているので心配だったんですが、カルト的な人気のある映画だし、せっかくの機会なので挑戦してみた。
…やはり途中で少しだけウトウトしてしまったけれど、なんとか眠らずに最後まで観ることができたのでした。
4Kになってまるで最近の映画みたいに鮮明になった映像は絵画のように美しかったし、1970年代の映画で舞台となるのは1900年だけど、シンセサイザーを使った劇中曲は意外と饒舌で、鑑賞しながら20世紀直前の時代と映画が作られた1970年代的なものが交じり合っているような、不思議な雰囲気に包まれたのだった。
原作者が小説のタイトルにも用いた、ウィリアム・フォードの絵画「At the Hanging Rock」(上) にインスピレーションを得たショット(下)。
失踪する少女の一人、ミランダを演じたアン・ルイーズ=ランバートの、それこそ絵画から抜け出してきたような美しさ。
一方で、なぜか他の少女たちと一緒にピクニックに行くことを許されずに学校で詩を暗記させられるセーラ(マーガレット・ネルソン)。彼女はミランダのことを愛おしく思っているようだ。彼女もまた美しい。
やがて、セーラは他の少女たちのように金持ちの家の娘ではなく、孤児院からこの学校に預けられたことがわかる。
ハンギング・ロックを登ろうとしていた4人の少女たちをたまたま見かけたイギリス人の青年・マイケル(ドミニク・ガード)は彼女たちの失踪後一週間経ってもいっこうに進まぬ捜索に業を煮やして、彼のおじの使用人で仲がいいらしいアンソニー(ジョン・ジャラット)とともに行方不明の少女たちを捜しにハンギング・ロックを登る。
実は、アンソニーはかつて妹と一緒に孤児院に入っていた。その妹がセーラだった。
保護者からの学校への学費の送金や連絡が止まっているセーラを、校長は退学させようとする。彼女がみんなと一緒にピクニックに行かせてもらえなかったのはそれが原因だった。
生徒たちや教師たちにも高圧的な態度の校長の姿は、そのままあの当時のものの価値観や風潮を象徴している。
この映画では女の子たちが並んでそれぞれのコルセットの紐を締めたり、メイドのミニーが恋人のトムにやはりコルセットの背中の紐を締めてもらう場面がある。
1900年って、まだ女性たちはコルセットをしていたんだなぁ。で、そういうヴィクトリア朝の女性の服装(劇中でヴィクトリア女王の肖像画も映し出される)をココ・シャネルのような20世紀初頭から活躍し始めたファッションデザイナーたちがより自由度の高いものに変えていったんですね。
だから、これは「コルセット」によって身体を締めつけられていた女性たちが、ピクニックという非日常によって窮屈な学校生活から解放される話なんだな。
岩山を登るのを途中でやめて引き返したイディス(クリスティーン・シュラー)は、下着姿のマクロウ先生(ヴィヴィアン・グレイ)を見た、と証言する。マクロウ先生は校長も信頼していて、彼女に言わせると男性的な知性を持った女性だった。しかし、そんな彼女が3人の少女たちと同じく失踪する。そして二度と帰ってこなかった。
そこそこのお年のマクロウ先生(ヴィヴィアン・グレイ)がハンギング・ロックで下着姿で走っていた、というのは実際にその様子が映し出されることはないし、少女たちの証言だけで語られるんだけど、異様な話ですよね。若い女子生徒たちや女性教師ではなくて、引率した2人の女性教師のうちのあえて中年、もしくは初老に近い女性が当時としては非常に性的に逸脱した振る舞いを見せた、ということ。
この映画に直接的にエロティックなシーンはほとんどないんだけれど、全篇に渡って濃密に漂う性的な要素については、なるほど、僕個人としては今観ることでいろいろと伝わるものがあった。
女性たちがコルセットで抑えつけられていた時代の話だけれど、この映画が描いているものはとても「今現在」を感じさせる。
ちなみに、劇中では男とイチャついてるメイドのミニー役のジャッキー・ウィーヴァーは、パク・チャヌク監督の『イノセント・ガーデン』(感想はこちら)では主人公の恐ろしい叔父に殺されてしまう大叔母の役でした。
アップルヤード校長役のレイチェル・ロバーツは1974年版の『オリエント急行殺人事件』(感想はこちら)では家政婦役でした。多いな、家政婦役。彼女の元夫はレックス・ハリソン。『マイ・フェア・レディ』(感想はこちら)のヒギンズ教授の人。
レイチェル・ロバーツさんは、彼との離婚後に生活が荒れてまだ50代の初めに亡くなってしまったんですね。失礼ながら、映画観ていてもっとご年配のかただと思っていた。貫禄めっちゃあったもの。昔の学校のおばさん先生ってああいう感じだった(いや、あんなドレスは着てないし髪の毛も盛ってないが)。
あの校長は、彼女自身も若い頃からいろいろと抑えつけられ、その身に封じ込めたものがたくさんあるからこそ、女性が奔放に振る舞うことが許されなかったあの時代に若い女子学生たちを厳格に育て上げようとしたんだろう。
また、学校の経営のことも出てきて、つまりはおゼゼがなければ学校は存続できないのだし、だから彼女は何度もセーラに「学校は慈善事業ではない」と繰り返す。なんか、現在の我が国の教育事情と通じるものがありますなぁ。世知辛い。
アップルヤード校長もまた、若い女性たちと同様にあの時代の犠牲者でもあったのだということ。
ハンギング・ロックでの失踪事件に端を発して、ヴィクトリア朝の女学校は脆くも崩壊する。
ちょっと前に観た『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』(感想はこちら)は1970年代のアメリカの男子校が舞台の映画だったけど、同性だけの学校って(学生を守るシェルター的な役割を果たすような場合を除いては)不健全な感じがする。
男たちだけ集まればマウンティング合戦が始まり、また女性蔑視が醸成されやすいし、女性たちだけだと男性への免疫がないために、いざ現実の社会の男性たちと対峙した時に支障をきたしたりもする。また、この映画の中の女学校のように女性たちが抑圧されて、家父長制の温存に利用されかねない。
少女たちの失踪の原因は最後まで不明なままだし、いなくなった4人はマイケルの必死の捜索でみつかったアーマ以外は結局遺体すらも発見されなかった。
学校を辞めさせられて孤児院に戻されることを校長に告げられたセーラは、学校の建物から身を投げて死ぬ。
それを知った校長も、独りでハンギング・ロックへ登って…。
抑圧された女性たちの集団ヒステリー、というのが一番わかりやすいけれど、どうやら原作小説にはカットされた「結末部分」があったそうで、Wikipediaでそれを読んで失笑してしまった。…まぁ、映画では描かれなくて正解でしたね(でも、オーストラリアの先住民・アボリジニの世界観にもとづくもののようだから、ちゃんと意味はあるのだが)。
物語の筋の面白さで見せる作品ではないし、悲惨な最後で幕を閉じる物語だけれど、その失われたものが「美しい少女たち」という姿をとっているから、どこか甘美でもあって、これがやはり70年代の映画だということを痛感させもする。
これはオーストラリア映画だから出演した少女役の女優さんの多くはオーストラリアの人たちなんだろうけど、僕は名前を存じ上げない人たちばかりだし、4Kの映像が鮮明なだけに物語同様、美しい少女たちが急に姿を消したような、そんな不思議な感覚に襲われたのだった。50年近くも前の映画だということが信じられないほど。
オーストラリア映画と言っても「マッドマックス」シリーズとはえらい違いだよな(;^_^A
だけど、少女たちの捜索隊の中にアボリジニの男性がいたり、ハンギング・ロックという聖なる岩山など、そういう神秘的なものを含んだオーストラリアの大地と西洋人たちの侵略の歴史に、男性に支配された社会で抑えつけられてきた女性たちの姿が重ねられてもいる。
「マッドマックス」シリーズにも実はそういう要素が含まれること、その最新作である『フュリオサ』(感想はこちら)にも岩山の砦が出てくるし、物語自体が神話として語られていたり、劇中で“ガスタウン”の主がジョン・ウィリアム・ウォーターハウスによる絵画「ヒュラスとニンフたち」を模写していたりする。
『ピクニック at ハンギング・ロック』では、アン・ルイーズ=ランバート演じるミランダはポワテール先生(ヘレン・モース)によってボッティチェリの絵画「ヴィーナスの誕生」に喩えられ、また校長室にはフレデリック・レイトンによる絵画「燃え上がる6月」が飾られている。
両作品で語られていることは意外と共通しているところが多い。
ピーター・ウィアー監督はハリソン・フォード主演の『刑事ジョン・ブック 目撃者』と『モスキート・コースト』や、アンディ・マクダウェルが出ていた『グリーン・カード』、ロビン・ウィリアムズ主演の『いまを生きる』、ジム・キャリー主演の『トゥルーマン・ショー』などを撮っていて、僕は『グリーン・カード』は90年代にレンタルヴィデオで、『トゥルーマン・ショー』は劇場公開時に映画館で観ました。
だけど、ハリウッドに渡ってからの『グリーン・カード』や『トゥルーマン・ショー』に比べると、この『ピクニック at ハンギング・ロック』はやっぱり独特の謎に満ちた内容や表現で、だから「意味がよくわからない」という人がいるのもうなずけなくはない。いや、だから「神隠し」の映画なんですが。
107分に切り詰めた「ディレクターズ・カット版」というのもあるそうですが、今回はオリジナルの116分のヴァージョンのようで。
日本で公開されたのは1986年なんですよね。映画が作られてから10年以上経ってるし、だからハリウッドで監督作品が評価されたからようやくこちらで公開されたんだな。
38年ぶりにやっと観ることができました(^o^)
↓こちらのブログ記事を参考にさせていただきました。
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