シドニー・ルメット監督、アルバート・フィニー、マーティン・バルサム、リチャード・ウィドマーク、ジャン=ピエール・カッセル、ローレン・バコール、アンソニー・パーキンス、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ショーン・コネリー、ジョージ・クールリス、イングリッド・バーグマン、マイケル・ヨーク、ジャクリーン・ビセット、レイチェル・ロバーツ、ウェンディ・ヒラー、ジョン・ギールグッド出演の『オリエント急行殺人事件』。1974年(日本公開1975年)作品。
第47回アカデミー賞助演女優賞(イングリッド・バーグマン)受賞。
1935年。新たな事件の依頼でロンドンに向かうことになった探偵のエルキュール・ポワロは、オリエント急行の中で殺人事件に遭遇する。国際寝台車会社の重役ビアンキの頼みで犯人の正体とその動機をつきとめようとするが、それは5年前にアメリカで起きた「アームストロング事件」が関係していた。
ネタバレがありますので、ご注意ください。
ケネス・ブラナー監督・主演の同名映画(感想はこちら)が現在公開中ですが、僕は今までアガサ・クリスティのこの原作を読んだこともその映像化作品を観たこともなくて(オチは知ってたけれど)、今回初めて映画を最初から最後まで通して観てその内容を知りました。
で、正直なところ最新版の映画は僕はちょっとピンとこなくて、気になったので1974年版のDVDをレンタルして鑑賞することに。
なるほど、ブラナー版でよくわからなかったところがこのシドニー・ルメット版ではもっと詳しく描かれていて理解しやすかったし、改変された部分など両者の比較はなかなか興味深かったです。
このシドニー・ルメット版はブラナー版に比べてポワロが乗客たちに行なう“尋問”のシーンがもうちょっと長いんですよね。
Twitterの呟きで、1974年版をもっとも高く評価して、その次にデヴィッド・スーシェ主演のTVドラマ版、そして最後が2017年版、という順序で採点されていたかたがいらっしゃって、あいにくTVドラマ版はレンタル店にDVDが置いてなかったので僕は未見ですが、「1974年版>2017年版」というのは僕も同感です。
やはり映画としてこちらの方が整っている。
まぁ、どっちが上でどっちが下とかそんなのはどうでもよくて、それぞれ別ヴァージョンとして楽しめばいいんですけどね。
2017年版はキャメラポジションに変化をつけたりVFXも駆使して美しい風景を映し出したりアクションも加えたりして、観客を飽きさせないように工夫している。
一方でこの1974年版はオーソドックスな撮り方で、もちろん映画だからショットが細かく切り替わりはするけれど、ちょうど舞台劇を観ているような感覚で俳優たちの演技をじっくりと観ていられる。
僕はこの1974年版も観るのはこれが初めてだから別に懐古主義とかじゃなくて、このゆったりとしたテンポが心地よかったんですよね。
上映時間は2017年版が114分でこの1974年版は128分と、わずか14分ほどの違いだけど、その違いが全体の印象に影響を与えている。
2017年版も冒頭のあたりはちょっとそんな雰囲気があったけど、1974年版は観光映画というか、豪華な海外旅行に同行するようなワクワク感がある。
駅の場面で明らかに日本語ではない言葉(中国語?)を喋ってる着物姿の女性たちの一団が何度か映り込んでて奇妙だったんだけど、なんでしょうか、異国情緒を演出してたのかな。
主要登場人物たちの紹介も兼ねて、事件が起こるまでがわりと尺をとってゆっくり描かれる。
1974年版と2017年版の最大の違いは、1974年版では映画の冒頭で5年前にアメリカで起こったアームストロング大佐の子どもが誘拐されて遺体でみつかった事件の概要を解説しているのに対して、2017年版ではそれがないこと。
僕の記憶が正しければ、結構あとの方でようやく説明が入ってたと思う。
あとは2017年版では74年版のおじいちゃんのお医者さんとアーバスノット大佐(ショーン・コネリー)のキャラクターが合体してアフリカ系の俳優が演じていたり、殺人事件の被害者ラチェットの秘書マックイーンが彼のボスの金をチョロまかしていたことがわかったり、ピンカートン探偵社の探偵ハードマンが人種差別的な発言をしたり、ちょこちょこと変更がある。
変更したところが映画にとってどのように効果的だったのかよくわからないんですが。
1974年版は出演者たちもイイ年してるし大人な雰囲気があって、家庭教師のメアリー・デベナムを演じたヴァネッサ・レッドグレイヴは落ち着いていてとても綺麗。2017年版のデイジー・リドリーもよかったけど、1974年版のレッドグレイヴのメアリーはあまりシリアスじゃなくて、いつも微笑を浮かべていてわりと余裕がある。
お相手が白髪交じりのショーン・コネリー(『未来惑星ザルドス』に出てた頃)だから、大人の恋なんですよね。彼が演じるアーバスノット大佐は妻と離婚してからメアリーに求婚しようとしている。
2017年版ではそれが人種の壁を越えた恋に変更されている。
人種といえば、1974年版にわりと露骨に感じられた「イタリア人=マフィア」というイメージ*1は2017年版では登場人物の人種を変えたことで払拭されている。その代わりウィレム・デフォー演じるハードマンの「ユダヤ人云々」という台詞が加わっていた。
2017年版ではジョシュ・ギャッドが小悪党みたいに演じてブラナー演じるポアロと追っかけっこしていたマックイーンは、1974年版ではアンソニー・パーキンスが演じている。
パーキンス演じるマックイーンは幼い頃に母に先立たれて以来、アームストロング大佐の妻を母のように慕っていたが、そのマザコンっぽい設定が『サイコ』のノーマン・ベイツを思い出させて可笑しい。明らかにそれを意識して演出されている。
2017年版ではミシェル・ファイファーが演じているお喋りなハッバード夫人は1974年版ではローレン・バコールが演じていて、まるで宝塚の男役みたいな野太い声で喋りまくる。あぁ、こういうおばさんが近くにいたらしんどいな、と思わせる^_^;
ミシェル・ファイファーも好演していたけど、貫禄ではやっぱりローレン・バコールにかないませんね。
ラチェット(本名=カセッティ)の執事を2017年版ではシェイクスピア俳優で映画出演も多いデレク・ジャコビが演じていたけど、僕はデレク・ジャコビ(ケネス・ブラナーの前作『シンデレラ』→感想はこちら では国王役だった)って昔のジョン・ギールグッドみたいなポジションの人だなぁ、と思っていたら、1974年版ではギールグッドが同じ執事役を演じていた。
やっぱりあちらでもそういうイメージなんだな。
肝腎のポワロは、アルバート・フィニーはメイクアップでそのキャラクターを作り込んでて、もうあからさまに胡散臭いおっさんに仕上がっている。
TVドラマ版のデヴィッド・スーシェが演じるポワロを見慣れているとずいぶんと人工的なキャラに見えるけど、意外と違和感はなかった。
ただ、デヴィッド・スーシェが熊倉一雄の声でしばしば口にするお馴染みの「モナミ」「メルシィ」という言葉はフィニーのポワロは一言も発してなかった気がするんですが。
フランス語訛りはケネス・ブラナーの方がそれっぽかったし(“ポアロ”の発音とか)。
僕は長らくデヴィッド・スーシェっててっきりフランスかベルギーの俳優さんかと思っていたんだけど、バリバリの英国人だったんですね。ポワロを演じることになってサシェット(Suchet)という苗字をフランス風の読み方に変えたんだとか。
放送当時から今と同じくハゲてて貫禄があったから結構お年を召してらっしゃるのかと思ってたら、1946年生まれなのでまだ現在72歳。最初にポワロを演じた時は40代初めだった。意外とお若かったんですね。
ちなみに、ポワロはベルギー人という設定だけど、これまで映画やTVドラマでポワロを演じているのはピーター・ユスティノフやアルフレッド・モリーナも含めてほとんどが英国人(アメリカ人俳優が演じた作品もあるらしいけど)。
もともと英国産の作品だからそれはわかるんだけど、実際のベルギーの人たちはどう感じてるんでしょうね。
関係ないけど、ベルギーのフランドル地方が舞台の「フランダースの犬」も英国の作家の作品で、現地では知名度が低く評価も高くないそうで(日本でいうと「SAYURI」みたいなもんか)、有名な日本のアニメ版もあちらでは一度も放送されていないらしい。
海外でも知られているアニメ版が当のベルギーで放送されていない理由はいろいろあるだろうけど、まず登場キャラクターの女の子が着ている服がベルギーのものではなくてオランダ風なのはなかなか致命的ではないかと^_^;*2
ポワロもしょっちゅうフランス人と間違われてますが。
閑話休題。74年版ポワロの話に戻りますが、一人ひとりの尋問の様子が長めになっているので、2017年版で端折られ過ぎててちょっとわかりづらかったそれぞれのキャラクターや人物関係が理解しやすかったし(1974年版は探偵だったハードマンの存在感が薄いけど)、何よりも俳優たちの表情をじっくり見ながら彼らの演技を堪能できるのはよかった。
一方で、2017年版では事件の真相が明らかになるとポワロは「善と悪の間」で悩むんだけど、こちらの1974年版のポワロはもう潔いほど悩まないし、事件が解決(?)すると乗客たちと一緒にワインを飲んで和やかにくつろいでたりする。
それはあくまでもオールスターキャスト映画として意識的に明るく演出されたようで、僕はこちらの方が好みなんですよね。
だって、おおもとの物語自体が人工的な作り物の世界なんだから、そこにあまりシリアス過ぎる演出をしてしまうとなんともチグハグな印象を受けてしまう。
この1974年版を「舞台劇的」と表現したのもそのようなところから。
卑劣で残虐な殺人を犯した男が無事なままでのうのうと生きていることに対する怒り、というのは凶悪犯罪のニュースを聴いて日頃感じることでもあるし理解はできるんだけど、12個の刺し傷がある死体の謎をめぐる推理モノにそういう現実味が必要なのかどうか疑問なんですよ。
別にこれは社会派サスペンスドラマではないのだし。
もちろん、現実の事件をエンタメ作品で扱ったっていっこうに構わないと思いますが、*3「所詮、作り物」というこの映画の姿勢に大人の余裕を感じるのです。
もっともポワロの尋問がしばしば「~だとしても不思議ではない」という、推理というよりもほとんど当て推量みたいな断言で締めくくられるのにはまったく説得力がなかったですが。原作の方もかなりユルユルの推理だったのかな?
2017年版もそうだったけど、どうしてわざわざポワロの前に証拠品の血のついたナイフを出すのかわかんなかったし、それ以外の現場の遺留品についてもなんであんなわざとらしく残しておいたのか。
わからないことがいっぱいでしたが、2017年のケネス・ブラナー版をご覧になったかたはこの1974年版も併せて観ると、台詞や設定の変更、演出の違いなどが確認できて同じ原作でも印象がだいぶ異なるので面白いと思いますよ。
※アルバート・フィニーさんのご冥福をお祈りいたします。19.2.7
※ショーン・コネリーさんのご冥福をお祈りいたします。20.10.31
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