ボブ・フォッシー監督、ライザ・ミネリ、マイケル・ヨーク、ヘルムート・グリーム、ジョエル・グレイ、フリッツ・ヴェッパー、マリサ・ベレンソンほか出演の『キャバレー』。1972年作品。
第45回 (1973) アカデミー賞監督賞、主演女優賞、助演男優賞、撮影賞、編集賞、編曲・歌曲賞、美術賞、音響賞受賞。
1931年のベルリン。キャバレー「キット・カット・クラブ」で歌い手として働くサリー(ライザ・ミネリ)は女優を夢見ている。イギリス人の学生、ブライアン(マイケル・ヨーク)はサリーと同じアパートに越してきて彼女と惹かれ合うが、サリーは男爵のマックス(ヘルムート・グリーム)と知り合い、三人は奇妙な関係を築くことになる。やがてナチスが幅を利かせるようになり、キット・カット・クラブにもナチスの制服を着た客が増えていく。
「午前十時の映画祭12」で鑑賞。
朝の8時25分上映開始という、久々に「どこが“午前十時”」といった感じでしたが、お客さんは結構入っていた。
やはり年配の観客が多かったけど、初公開当時に観た人たちなのかな。
この『キャバレー』を観るのは今回が初めてなんですが…まず告白しておかなければならないのが、僕はこの映画を観るまでミュージカル映画の『コーラスライン』と勘違いしてまして、あれ?あのおなじみの曲が全然流れないな、とか思っていました。あと、ロイ・シャイダー出てこないな、とも(それは『オール・ザット・ジャズ』)。いろんなものが混ざってた。しかもいずれも僕は未鑑賞。実にお恥ずかしい。
それぐらいミュージカルとかその方面に疎いということですが。
ライザ・ミネリがジュディ・ガーランドの娘だってことは知ってたけど、やはりこれまでに彼女の出演作品を観たことはなかったし歌も聴いたことがなかった。
映画の中ではバッサバサのツケマで着脱可能なホクロ、シャワーを浴びたばかりでもベッドでもばっちりメイクなそのインパクトのある顔は、まるでかつての「ぴあ」の表紙のイラストみたいでクセが強いんだけど、ずっと見てるとだんだん慣れてきて彼女の人懐っこそうな笑顔が可愛く感じられてくる。
子どもみたいに表情豊かでいつも明るいんだけど、だからこそその裏にコンプレックスや悲しみを隠している、そんな主人公サリーのキャラクターがライザ・ミネリの顔を見ているだけで伝わってくる。
あのユーモアのセンスは母親譲りですよね。
ジョエル・グレイと唄う“Money, Money”の雰囲気が『イースター・パレード』でフレッド・アステアと一緒に唄い踊るジュディ・ガーランドを思わせる、という感想を書かれていたかたがいるけど、確かにそうですね。
もちろんライザ・ミネリはジュディ・ガーランドとは別のパーソナリティを持ったアーティストだけど、でも母親からその見事な歌声と表現力を受け継いでますよね。
これも母親から受け継いでしまった負の遺産というか、私生活でこれまでいろいろ問題もあったそうだけど、でも今もご健在なのは何より。
ユダヤ人の富豪の家の令嬢、ナタリア役のマリサ・ベレンソンは『ベニスに死す』(感想はこちら)にもダーク・ボガード演じるアッシェンバッハの妻役で出ていたんですね。さすがにまったく覚えていない。
ブライアン役のマイケル・ヨークもそうだけど、キャスティングもなんとも70年代っぽい(ってよく知りませんが、なんとなく)。マイケル・ヨークはマイク・マイヤーズ主演の「オースティン・パワーズ」シリーズにも出てましたが。
『2300年未来への旅』なんてのも昔ヴィデオで観たなぁ。
狂言回しとしてステージで唄い踊る“MC”役のジョエル・グレイのメイクをした顔や表情、動きなんかがちょうどジム・キャリーを思わせて楽しくもその狂騒的でありながら暗さを隠したようなキャラクターが印象深かった。
自分は自分、人は人じゃないですか。
と唄うMCは、この映画の核の部分を担っているともいえる。
どんなに異形に見えようとも、私は私。
第二次世界大戦前のベルリン、というといかにも退廃的で背徳的な世界を想像するけど、そして実際に白塗り顔のMCとダンサーたちにはそういう時代の享楽的な雰囲気を大いに感じるんですが、でも彼らのショーは結構ちゃんとしてて実は意外と健全でもある。しっかりとお客さんを楽しませようとしているから。
ただ、サリーやブライアンがヴァイマル共和制の崩壊直前のベルリンで恋に落ちたり若さを謳歌している間にもナチスの脅威はどんどん拡大していて、観ているこちらはその後の歴史を知っているから気が気ではない。
歌の内容が物語や劇中の時代の移り変わりとシンクロしている。
ブライアンにポルノ小説の英訳を依頼していた男性やアパートの女性の家主が「新聞に書いてあった」と言って、ユダヤ人たちが共産主義者と結託している、というデマを吹聴したりしている姿はフェイクニュースにたやすく騙されてヘイトを撒き散らす最近の陰謀論者たちとまったく同じで、あれから90年以上経っても世の中は変わっていないんじゃないかという暗澹たる気分になる。
最初の頃はわずかだった鉤十字の腕章をしたナチス党員たちが次第にゴキブリのようにどんどん増えていく。街なかで共産主義者が殺されている。
サリーとブライアン、そして彼らと意気投合したマックスが車での旅行で立ち寄った郊外のビアガーデンではヒトラーユーゲントの若者が唄いだし、それに合わせて他の客たちも次々と合唱に加わっていく。一見のどかで朗らかな光景には、それゆえに禍々しさが満ちている。
また、ブライアンの友人であるフリッツ(フリッツ・ヴェッパー)が恋したナタリアはユダヤ人であり、他のドイツ人たちから嫌がらせを受けるようになる。
実は自身もユダヤ人であったフリッツは、その事実を彼女に告白してふたりは結婚するが、果たして彼らはその後生き延びることができたのだろうか。
そして、子どもを宿して一度はブライアンとともに家庭を作ろうと思ったサリーは、どうしても女優の夢を捨てきれず、故郷へ戻るブライアンと別れてひとりドイツに残る。
アメリカ人である彼女もまた、無事に終戦を迎えることができたのかどうか。
映画は、キット・カット・クラブの客席にいる何人ものナチス党員たちを映して終わる。
サリーがフリッツにアドヴァイスする「(女は)押し倒してしまえ」という考え方は、先日観た『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』(感想はこちら)でハッキリと否定されている“いにしえ”の価値観だけど、結局のところフリッツとナタリアは結ばれるのだからなかなか始末が悪い。父親のソファに押し倒されたことが直接的な原因ではないにせよ。
ブライアンがバイセクシュアルで、サリーとマックスだけでなく、実はブライアンもマックスと寝ていた、というのは予想はできたけど面白かったし、この映画は「それだってアリでしょ」と言ってるんだよね。いろんな愛の形があるのだ、と。
そういう関係に爛れた感じをそんなに抱かないのは、これが70年代の映画だからでしょうかね。まだまだいろいろ野蛮な時代だったんだな。
だから今になってかつての狼藉、いや性暴力が明るみに出て非難されてもいるのだけれど。
ともかく、ユダヤ人であろうが同性愛者であろうがバイセクシュアルであっても、そのことでとやかく言われる筋合いはないし、生きづらくなる必要もないんだよね。
この映画ではそう言ってるんだと思う。
1931年のドイツに今の時代がこれほど似ていることが少々ショックだったし、愚かな歴史を繰り返そうとしている人間の変わらなさに絶望しそうにもなるけれど、でも人は映画を観てモノを感じ、考えることだってできる。
過ぎ去った歴史は変えられないけれど、“これから”は変えられる。そう信じていくしかない。
退廃美や消えていったものへの感傷は甘美で、時にはそういうものに浸りたくもなるけれど、でも「映画」は教訓も与えてくれるものだ。
1931年から92年、この映画が作られてから51年が経った。
素晴らしい歌とダンス、俳優たちの演技を堪能して、それから再び前を向いて歩んでいこう。