「午前十時の映画祭10」でルキノ・ヴィスコンティ監督、ダーク・ボガード、ビョルン・アンドレセン、マーク・バーンズ、シルヴァーナ・マンガーノほか出演の『ベニスに死す』を鑑賞。1971年作品。
原作はトーマス・マンの同名小説。
療養のため訪れたヴェニス(ヴェネツィア)で老作曲家のアッシェンバッハ(ダーク・ボガード)はポーランド貴族の一家の少年タージオ(ビョルン・アンドレセン)に魅せられる。暑さの続くヴェニスで「美」について想いを巡らしながら、アッシェンバッハは街のかすかな異変に気づく。
この映画は90年代にレンタルのVHSヴィデオ(まだDVDが普及する前だったので)で観た記憶がある。
現在のように鮮明な画質のソフトが出回るはるか前で、TV用にトリミングされていて、しかもところどころピンク色の露光が入っているようなかなり見苦しい映像だった。テレシネに使ったプリントの質がよっぽど悪かったんでしょう。昔はそんなレヴェルの映像ソフトが当たり前のように出回っていた。
技術的なことを何も知らない僕は、昔の映画だから画質が悪いんだろうと思い込んでましたが。
現在は劇場でも昔の映画を高画質で観られるようになったので、ほんとに嬉しい。
だけど、今回観た『ベニスに死す』は、確かに昔ヴィデオで観たものとは比べ物にならないほど観やすくはなっていたものの、上映中にスクリーンの左端にずっと埃か毛みたいなゴミの影が映っていて、すごく気になったのだった。
まだ映画の上映がフィルムで行なわれていた時代はフィルムについた傷やゴミがスクリーンに映ることがあったし(右上あたりにロールチェンジのためのマークも定期的に見えた)、たまにフィルムのガタつきもあった。それらは「映画っぽさ」の印でもあったのだけれど、デジタル上映が当たり前になった今ではそれらが生じることは基本ないはずだから、やたらと目障りで気が散ってしまった。
今回上映されたのは日本では2011年に劇場公開されたニュープリント版をデジタル化したもののようですが、あの映像に映っていたゴミは新しいプリントを作る時にネガにゴミが付着していたのか、あるいはフィルムからデジタル化する際に映り込んでしまったものなのか、それとも今回の上映時にプロジェクターが汚れていたのか、どちらなのだろう。
スクリーンにゴミが映るのなんてめちゃくちゃ久しぶりに見たよ。
冒頭やエンドクレジットのあとに「レストア」の文字があったから、オリジナルのフィルムをクリーンナップしたと思うんだけど、もしもゴミが映り込んでしまったのならずいぶんと杜撰な仕事だし、映画館のせいならこれもまた仕事が雑過ぎるでしょ。せっかくの名画が台無しですよ。*1
だって、たとえば美術館に名画を観にいって絵が描かれたキャンヴァスの端っこの方に埃や毛がついてたら、ヲイ!って思うでしょ。同じことですから。お願いしますよ。もうちょっと丁寧に仕事してほしい。
まぁ、そのゴミも途中でなくなったんで、その後は問題なく観られましたが。
20年以上前に観たきりだからもう細かい内容は覚えていなかったけれど、最後にダーク・ボガード演じるアッシェンバッハが海辺の美少年タージオを眺めながら「尊い…」と呟いて黒い汗を流して事切れる、というエンディング(ちょっとだけ嘘)は記憶していた。
実際久しぶりに観てみたら、ほぼそれだけの映画だったんでちょっと驚いたんですが。つまり、ストーリーがどうとかいう類いの映画ではない。アッシェンバッハが「美」について懊悩(おうのう)しながら病いで死んでいく、おっさんのエクスタシー映画だった。
ネタバレも何も、タイトルで「ベニスに死す」とオチを言っちゃってますし。
タージオを演じるビョルン・アンドレセンの美しさは伝説になっているし、その美と若さがアッシェンバッハの「老い」と対比されているわけだけど、上映時間131分の映画で描かれているのが美少年を遠くから、近くから見つめながら延々悶えるおっさんの姿、ほぼそれだけ、というのもスゴい。
…さっきからなんだかバカにしたような書き方をしているので、この映画が好きなかたはお気を悪くされたかもしれませんが、でも嘘は言ってないでしょう。
こういう映画をみんながこぞって観にいっていた70年代という時代に、僕は不思議さとちょっとした憧れも感じるのです。
僕はトーマス・マンの原作小説は読んでいないので、映画で映し出されているものが文章でどのように表現されているのかわかりませんが、アルフレッドとアッシェンバッハの「美」をめぐる問答はいかにもな芸術家たちの不毛な議論に思えてしかたがなかった。
イイ年した大人が口角泡を飛ばして「美とはなんぞや」「君は間違っている!」と深刻な顔をして言い争っている。この作品は、その「どーでもいい」ようなことを一所懸命考えたり悩んだりしながらも、現実に目にした圧倒的な美しさの前で言葉を失う初老の男の滑稽さと哀しさ、そして恍惚を映し出す。
僕は、「芸術」というのは衣食住とは無関係な一見無駄でバカげたことにうつつを抜かすことでもあると思うので、アッシェンバッハのあのぶざまともいえる姿を笑いつつもどこかで共感を覚えもするんですが。
もう、ダーク・ボガードの顔の演技が見事としか言いようがなくて。
戸惑ったり、怒ったり、タージオを見て嬉しくなってニヤついたり、もう、少年に萌えまくってるおじさまに萌えるという塩梅。
若い頃の回想シーンからもわかるようにダーク・ボガードご本人は素敵なイケオジなんだけど、現在のアッシェンバッハは頭もハゲかけてて猫背気味で、その老いっぷりもなかなか説得力があるんですよね。いかにも神経質な老芸術家、という風情がある。
アッシェンバッハが同性愛者なのかどうかはよくわからなくて(妻と子どももいたし)、でも同業者のアルフレッドとの関係もどこか同性愛的ではあったし、最後に白髪を黒く染めて顔に白粉や口紅まで塗っておめかしするところなど、どうしたって「そういう人」に見える。
映画の冒頭でフランス語訛りで話しかけてくる、やはり化粧をした男と重なる。
あの顔は、アッシェンバッハが自らの最期を予感した死化粧だったのかもしれませんが。
タージオはアッシェンバッハの前で年の近い少年たちと戯れていたり、アッシェンバッハの視線に気づいてちょっと誘うような素振りをしてみせたりと、あの限られた年齢の少年だけが持つ妖しい美しさを振りまいているのだけれど、それはまるで猫のように心の内は謎な「美の化身」、あるいは人の姿をした美術品のような存在として描かれている。ほとんど台詞らしい台詞もないし、アッシェンバッハとの直接的なやりとりもない。
ただ見つめられるためだけにいるような。外見は日本の昔の少女漫画をそのまま実写で撮ったような美形だけど、時代的にもきっと少女漫画に与えた影響は大きかったんじゃないだろうか。
この映画自体が、舞台はもっと昔なんだけど、映画が撮られた1970年代の空気(僕はあくまでもさまざまな映画を通して見たあの時代しか知りませんが)を感じさせるんですよね。
メイキング映像
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それはフィルムの粒子だったり出演者たちの顔つきだったり、そしてさっき述べたようにストーリー云々ではなくてそれ以外のものを見つめキャメラで切り取った内容など、70年代ぐらいの映画の特徴から漂う時代の匂いなんですが。
撮影ではキャメラは移動せず固定で、ロングから寄る時にはショットを割らずにズームを使う。台詞があからさまにアフレコなのも、いかにもあの時代のイタリア映画っぽいし。
今ではグスタフ・マーラーの交響曲第5番・第4楽章アダージェットを聴くとこの映画が思い浮かびます。このあと観たキューブリックの『時計じかけのオレンジ』(感想はこちら)もそうだったけど、クラシック音楽を効果的に使っている映画って映像と曲が分かちがたく記憶されるし、時代を越えた名作になることが多いなぁ、と思いますね。
この映画が描く「美」を、この映画の素晴らしさを自分がちゃんと受けとめられているか、わかっているのか自信はありませんが、それでも劇場で観られてよかったです。
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『ミッドサマー ディレクターズ・カット版』
『ミッドナイトスワン』
*1:どうやら、新たにプリントし直す際にフィルムのゴミが充分に取り除かれていなくてこういう事態になることはままあるらしい。あとでデジタル化してから取り除こうとしても、ゴミが映っていない部分の映像がなければ修正は困難なのだとか。『時計じかけのオレンジ』にも同様に、ある登場人物のショットにだけゴミが映っている箇所があった。おおもとのネガフィルムについていたのだと思われる。