映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

もう一つのブログとともに主に映画の感想を書いています。

『ベン・ハー』


ウィリアム・ワイラー監督、チャールトン・ヘストンスティーヴン・ボイドハイヤ・ハラリートヒュー・グリフィスジャック・ホーキンスマーサ・スコットキャシー・オドネル出演の『ベン・ハー』。1959年作品。日本公開1960年。

第32回アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演男優賞(チャールトン・ヘストン)、助演男優賞(ヒュー・グリフィス)など11部門受賞。

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紀元26年。ローマ帝国統治下のイスラエルユダヤの王族ハー家の若き家長ジュダ・ベン=ハー(チャールトン・ヘストン)は、幼い頃ともに育ったメッサラ(スティーヴン・ボイド)と再会する。今やローマ軍を率いる身となったメッサラは出世のためにユダヤ人の反乱分子の名をジュダから聞きだそうとするが、彼は同胞を裏切る行為を断わる。事故でローマ軍の新総督に怪我を負わせてしまったためにジュダと母親のミリアム(マーサ・スコット)、妹のティルザ(キャシー・オドネル)が捕らえられる。ジュダの懇願にもかかわらず、メッサラはミリアムとティルザを牢に幽閉し、ジュダを奴隷としてガレー船に送る。


ハリウッド映画史に残る堂々212分のスペクタクル大作。

この映画を初めて観たのは子どもの頃で、16ミリフィルムでの上映会でした。その後、TVでの放映やDVDなどでこれまでに何度も鑑賞しています。

今回、「新・午前十時の映画祭」で劇場公開されていたので観に行ってきました。

有名な戦車(チャリオット)競争の場面をスクリーンの大画面で観られて嬉しかった。

僕はこの映画をデジタル上映で観るのは初めてですが、さすがに新作のようだとは言えないまでも、映像は十分クリアで音も迫力満点でした。

一箇所だけジュダとメッサラが語り合う場面でフィルムが褪色したようなカットがあったのと、音は問題ないのにたまにコマ飛びしたように人物が何フレーム分か急に移動する時があったけど、それ以外は特に気になるところもなく、55年前の作品がこれほどまでに鮮明に観られることは驚きだった。

何度も観てるせいもあって、4時間近い上映時間もまったく長く感じず。

朝っぱらからちょっと遠い映画館まで足を伸ばした甲斐がありました。

途中、10分間の休憩時間にコンセッションに立ち寄ると、一緒に観ていた2人組の年配の女性たちが「やっぱりDVDで観るのとは迫力が違う」「昔エルサレムに行った時に見た“嘆きの壁”が映っていた」などと語り合っていました。クリスチャンの人かな。


原作はルー・ウォーレスの同名小説。

副題に「キリストの物語」とあるように、主人公ジュダ・ベン=ハーの波乱に満ちた人生を描きながら、根底ではキリスト教の信仰について語られている。

ジュダはイエス・キリストと同じぐらいの年齢と設定されていて、物語の随所にイエスが登場する。ジュダは奴隷として連行される時にナザレで彼から水を与えられ、のちに“山上の説教”やゴルゴタの丘で磔にされるイエスを目撃する。

アヴァンタイトルで、ベツレヘムに向かうヨセフとマリア。

そして東方の三賢者(三博士)たちが馬宿でマリアに抱かれた幼子イエスを拝む。

このオープニングはミクロス・ローザの音楽とともに神々しさに満ちていて、クリスチャンでなくとも厳かな気持ちにさせられる。

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三賢者の一人、バルタザール*1はのちにローマからイスラエルに戻ったジュダと出会い、ジュダに「もしかしたら、あのかたかと思って…」と語りかける。

映画全篇を通して「復讐」に生きるジュダとイエス・キリストの教えとが対比されている。

あくまでも映画の見所はローマ軍とマケドニアとの海戦シーンや先ほどの戦車競争だったりするので、まぁ宗教的な要素は「オマケ」みたいなもんだと思って観てればいいかもしれない。

同じくチャールトン・ヘストンが主演したセシル・B・デミル監督の『十戒』(感想はこちら)も僕は好きな映画ですが、やはり目当ては特撮をふんだんに使ったスペクタクルシーンで、キリスト教的な押しつけがましいメッセージには抵抗を覚える。

そのことについてはまた触れます。

面白いことに、劇中ではイエスはけっして顔が映しだされず(正面から映った時にはご丁寧にもオプティカル処理で顔に影が差している)、その言葉も直接は聞こえず伝聞としてのみ語られる。


それが神々しい存在としての“キリスト”を見事に演出していて効果的ではある。

では、以降はネタバレがありますので、詳しいストーリーについて知りたくないかたは映画を鑑賞後にお読みください。


かつては親友だったが今ではローマ人とユダヤ人としてメッサラとジュダは袂を分かち、不幸な事故によってその亀裂は決定的なものとなる。

財産を没収されて母と妹を捕らわれたジュダは「私が戻ってくるまで待っていろよ」とメッサラに告げる。

この場面でメッサラの横にいるローマ兵は、昨年惜しくも交通事故で亡くなったジュリアーノ・ジェンマ


この映画はイタリアはローマにあるチネチッタ撮影所に大掛かりなセットを組んで撮影されたので、イタリア人俳優たちも大勢エキストラ等で出演している。

のちにマカロニウエスタンでブレイクするジェンマも、この時は地元イタリアの若手俳優としてチョイ役で出てたというわけですね。

チョイ役といえば、ローマに渡ったジュダの隣にいるイギリスの女優マリナ・ベルティ


ほんとにわずかしか出てないけど、綺麗なので妙に気になる。

ジュダとは主人と奴隷の間柄でありながら、やがて愛し合うようになるエスター役のハイヤ・ハラリート、ジュダの妹ティルザ役のキャシー・オドネルなど、僕は当時のハリウッド映画について詳しくないのでいずれも存じ上げない人たちだけど、この映画を何度も観てるうちにいつしか彼女たちに愛着が湧くようになってしまった。


ジュダの母親役のマーサ・スコットは、『十戒』でもチャールトン・ヘストンの母親を演じていた。


そして、アラブの族長役のヒュー・グリフィス。


イギリス人だが、顔を黒く塗ってアラブ人を演じている。

現在ならいろいろ問題があるけど、当時は『アラビアのロレンス』でやはり白人でありながらアラブ人を演じたアレック・ギネスアンソニー・クインのように、白人が中東の人々を演じることは珍しくなかったんでしょう。

子どもの頃はそういう事情を知らなかったんで、そういうもんだと思っててまったく違和感がなかったけど。

まぁそんなこと言ったら、そもそも青い目をした白人のチャールトン・ヘストンユダヤ人を演じてること自体が奇妙なわけですが。

彼は『十戒』でも聖書に記される古代イスラエルの指導者モーセ(モーゼ)を演じていたし、キリスト教がらみの役柄には縁が深い人でもある。

ヘストンは保守派として知られる人(ただし人種差別には反対していた)だが、だいたい“キリスト教”というのはローマを経て本来ユダヤ教キリスト教とは直接関係ないはずの欧米人が勝手に自分たちのルーツのようにみなした宗教なので、よーするに白人が日本人を演じてるぐらい無理があるのだ。

そこんとこは所詮ハリウッド映画なんで、史実云々以前の“見世物”なんですな。

原作自体がアメリカ人が書いたフィクションですし。

ジュダ・ベン=ハーもメッサラも架空の人物です。

だからこれは、イエス・キリストや彼を十字架にかけることを許可したユダヤ総督ポンテオ・ピラトティベリウス帝など歴史上の人物とフィクションの登場人物が相まみえる“空想時代劇”と言っていいのかもしれない。

この物語には原作者ルー・ウォーレスの南北戦争における経験が重ねられているということなので、ユダヤ人云々ということよりも、むしろアメリカ人の信仰についての物語と捉えることもできる。


ジュダは恵まれた身分であり、父の代から仕えている奴隷サイモニデス(サム・ジャッフェ)は海外貿易でさらにハー家に財産をもたらしている。

サイモニデスの年頃の娘エスターは美しく、父親の望みに従って嫁に行くことになるが、ジュダは身分の差を越えて彼女を愛している。

一方で、親友であったメッサラは、ジュダの終生のライヴァルにして復讐の対象となる。

これ以上ないぐらいにメロドラマ要素の詰まったストーリー。


メッサラを演じるスティーヴン・ボイドは、僕が他に観た彼の出演作は『天地創造』ぐらいで、彼は1977年に44歳の若さで亡くなっているけれど、『ベン・ハー』ではその立派なケツアゴと腹から響くような低音ヴォイス、憎々しげな演技で映画史上の「主人公のライヴァル、敵役」として真っ先に思い浮かぶほどの名演を見せている。


互いに腕をクロスする“ローマ飲み”。


ヴェスパで2ケツのジュダとメッサラ。実はめっちゃ仲良し。


戦車競争で敗れ重傷を負ったメッサラは、痛みにあえぎながらもジュダに「まだお前に憎まれる余裕はあるぞ」と言って、彼の母親と妹が生きていて難病を患っていることを告げる。

「まだ終わってない」と言い残してメッサラは息絶える。

この場面はほんとに迫真の演技で、これほどの俳優が若くして世を去ったことが残念でならない。

命の恩人であるジュダをガレー船の漕ぎ手から引き上げ養子に迎えるローマの提督アリウスを演じるジャック・ホーキンスもまた、いかにも往年のハリウッド映画の男臭さ漂う男優(ウホッ)、といった感じで忘れがたい存在感を残している。


ジュダとメッサラ、あるいは義父アリウスとの関係には同性愛的なものが隠されていたともいわれ、今なら腐ったお姉さんたちがキャッキャするかもしれない。

アリウスは元・剣闘士(グラディエーター)で、ジュダを戦車競争の乗り手として育てる。

この映画を観ていると、どうしてもリドリー・スコット監督の『グラディエーター』(感想はこちら)を思いださずにはいられない。

アリウスがジュダを伴って皇帝からバトンを授与される場面のローマの町並や群集の描写は、『グラディエーター』でホアキン・フェニックス演じる若き皇帝がローマに凱旋する場面を思わせる。

コロシアムの場面などを観ても、リドリー・スコットが『グラディエーター』でハリウッドにおけるローマ史劇の代表作ともいえる『ベン・ハー』を意識していたのは明らかだろう。

バトン授与や戦車競争、冒頭のベツレヘムの場面などでは見事なマットペイントによる合成が行なわれていて、それらは現在見ても遜色ない出来の特撮である。


デジタル技術が普及する1990年代頃までは、基本的にこの手法が使われていた。

この映画を観ているとジョージ・ルーカスの『スターウォーズ』やスピルバーグの『インディ・ジョーンズ』を思いだすけど、それらは往年のスペクタクル巨篇を意識して作られたもので、特にジョン・ウィリアムズによる場面やキャラクターごとのモチーフを多用した常に映画に寄り添うように付けられたオーケストラ曲は、ハリウッド製大作映画の復活を促した。

ルーカスが『スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス』のポッドレースのシーンで『ベン・ハー』の戦車競争のイメージを引用したことはよく知られている。

ポッドレースでは、しばらく音楽が止んで状況音のみでレースが展開されるのも『ベン・ハー』に倣っている。





海戦シーンでは、波や炎の大きさからかなり大きなミニチュアを使って撮影していることがわかる。

ミニチュア撮影及び、実物大の船での撮影は特設の池で行なわれた模様。

子どもの頃の僕にとっては、このようなアクションシーンや特撮シーンこそがこの映画の本質だった。

その考えは今でも変わっていませんが。

ベン・ハー』が映画史に残る傑作なのは、まさしくこれらのスペクタクルシーンの存在ゆえなのだから。


ウィリアム・ワイラー監督


監督のウィリアム・ワイラーは、戦車競争の場面はほとんど第二班監督のヤキマ・カヌートにお任せだったんだそうな。

ヤキマ・カヌートは、ジョン・フォード監督の『駅馬車』のスタントで有名な人。

ヤキマの息子ジョー・カヌートチャールトン・ヘストンのスタントを務め、彼が戦車での走行中にはずみで車外へ放りだされそうになったアクシデントを利用してヘストンが体勢を立て直すショットを追撮、より迫力あるシーンに仕上げた。


合成などの特撮を一切使わないこの競争シーンは、派手なクラッシュや後続の戦車の車輪に巻き込まれる選手など、その生々しさにまるで実際に競技を観戦しているような感覚に襲われる。

メッサラがジュダをムチで攻撃して妨害、反撃を食らって戦車に轢かれる場面など、今の目で見ても思わず手に汗握ってしまう。

この映画の“テーマ”には共感できなくても、その圧倒的な映像には感嘆せざるを得ない。

さまざまな伝説もあるようだが、かなりの期間を費やして綿密に計算してリハーサルを十分に行なって撮影されたため、実際には死者や重傷者は1名も出ていない。


そんなわけで、映像の素晴らしさだけでこの感想を終わらせたいところでもあるんですが、一応現代に生きる者として思うところを少しばかり綴ります。

この映画では「復讐心」について語られている。

家族や忠実なしもべであったサイモニデスを酷い目に遭わされて自身も3年もの間奴隷として酷使され、ジュダはメッサラに復讐を誓う。

エスターに長らく所在を探し続けていた母と妹が死んだと知らされたジュダは、族長の馬で戦車競争に出場しメッサラと対決する。

族長のキャンプで出会った東方の三賢者の一人バルタザールに復讐の無意味さを説かれるが、バルタザールの言葉は現実的な族長と同様にジュダの耳には入らない。

僕は、バルタザールやエスターのようにイエス・キリストの言葉「汝の敵を愛せ」をそのまま受け入れることはできないので、ローマを憎むジュダや族長の方に共感してしまう。

昔からこの映画を観て覚えていた違和感は、今回も変わりませんでした。

つまり、親友さえも奪ったローマを憎むジュダが、かつて自分に水をくれた“あのかた”の死によって変わる、という展開がどうしても納得いかない、というか無理があるように感じてしまうのだ。

最大の問題点は、不衛生な牢に長期間閉じ込められていたために“らい病”(ハンセン病。字幕では“業病”)になった母ミリアムとティルザの病いが治る場面。

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ジュダがメッサラを破ったあとも映画はしばらく続いて、実はそここそが真のクライマックスとして描かれている。

そしてイエス・キリストを信じた彼女たちの難病が完治するという“奇跡”が起こるわけだが、現在ならばちょっとありえない描写だろうな。

らい病、というのは聖書にしばしば登場する病気だが、盲目の人とともにこの病気が奇跡によって治るという話がいくつかある。

しかしそれは「信じれば難病も治りますよ」というインチキ霊感商法とどこが違うのか。

じゃあ、現実に病気に苦しむ人は信心が足りないのか、神に見放されたということなのか。

聖書においては病いが「不信仰」もしくは「罪」の比喩として語られている部分もあって、解釈によって如何様にでも受け取れるので現在の倫理観で簡単には語れないのだが、ともかく大いに疑問を感じる。

人間には生まれ持っての「罪」があり、神のひとり子イエス・キリストはその罪を引き受けて十字架にかけられた。だから人々はキリストを神の子だと信じなければならない、というキリスト教の考え自体に馴染みのない人々にとっては、ほとんど「言いがかり」でしかない。

それに、最初に書いたようにこれは“フィクション”なので、そんな作り話の中で奇跡が起こって病気が治りましたよ、なんてことを描いたって何一つ説得力などないし。

僕の個人的な考えを言わせてもらえば、「奇跡」というのは人の心の持ち様が良い方に変わることであって、生き辛かった人生に「生きててよかった」と思える一瞬が訪れたり落ち込んでいたのがちょっと元気になったというような、ささやかな(しかし本人にとっては重大な)変化のことだと思うんですね。

病気がいきなり治っちゃうとか、マリア像が涙を流すとか空中に浮けちゃうとかスプーンが曲がるとか、そういう魔法や超常現象のことを言うのではない。

これは映画なので、何か目に見える形で「奇跡」を描かなければカタルシスがないから「難病が治った」ということにしました、ということかもしれないし(原作がそうなんだから仕方ない、というのもある)、この映画が作られた時代を考えるとこういう安直な結末になるのは致し方ないのかもしれませんが*2

だから、精一杯好意的に解釈して、これは「憎しみではなく愛する心を持つ者には、どんな苦難の中にも救いの道がある」ということを説いているのだ、と思うことにしました。

ただ、それは別にキリスト教を信じる人々だけとは限らないけれど。


渇いて倒れこんだジュダにイエスが与えた「命の水」。

それによって生きながらえたジュダは、のちに再び“その人”と会う。

すべての民の「罪」を背負ったというイエスが十字架にかけられて雷雨の中で息絶えると、ジュダの憎しみは苦しんでいた者たちの“病い”とともに消えた。

族長の言っていた“傲慢なローマ”はやがて滅びた。

しかし、その後も長くイスラエルの民の苦難は続く。

苦しみが大きいほど、人々は天に向かって救いを求め、そこに希望を見いだそうとする。

「命の水」が人を苦しめ殺す“毒”ではなく、渇く者に潤いを与えてくれるものであり続けてほしい、と切に願う。


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*1:三賢者の名前であるメルキオール、カスパール、バルタザールは聖書には記されておらず、後世の者による創作。

*2:それ言ったら僕も好きな『風の谷のナウシカ』のクライマックスなんてどーなのよ、って話だが。