黒澤明監督、三船敏郎、京マチ子、森雅之、志村喬、上田吉二郎、千秋実、加東大介、本間文子出演の『羅生門』。1950年作品。デジタル完全版2008年。
第12回 (1951年) ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞(最高賞)、第24回 (1952年) アカデミー賞名誉賞(国際長編映画賞)受賞。
音楽は早坂文雄。
平安時代。「羅生門」で雨宿りしている下人(上田吉二郎)が、杣売り(志村喬)と旅法師(千秋実)からある一人の武士が殺された話を聞く。武士(森雅之)とその妻(京マチ子)、盗賊の多襄丸(三船敏郎)──そのうち殺された武士は巫女(本間文子)の口を借りて──三者が検非違使の前で事情を話すが、彼らの証言は食い違っている。また、武士の死体の発見者である杣売りも何か秘密を隠していた。
「大映4K映画祭」の1本として鑑賞。
30年以上前にNHKで放送されたのを初めて観て、それが黒澤明作品初体験となったのでした。
一つの事件が複数の視点で語られて、それらが互いに矛盾している、という不思議さと語り口の面白さに魅せられました。
劇場で鑑賞するのは今回が初めてだし、2008年に映像と音声が修復されたものをこうしてあらためて観られて嬉しかった。
その後、同様の語り口「羅生門効果 (RASHOMON effect)」を使った映画は何本も作られているけれど、そういえば『アイアン・メイズ/ピッツバーグの幻想』(1991) なんて映画もあったっけ。
一昨年公開されたリドリー・スコット監督の『最後の決闘裁判』の感想にも『羅生門』を元ネタとして挙げていろいろ書いたけど、今回久しぶりに観てみて感じたのは、これは『最後の決闘裁判』とは決定的に異なる映画だということでした。
そもそも、もしかしたらこれは「性暴力」「性犯罪」についての映画ですらないのかもしれない。
いや、劇中で京マチ子演じる武士の妻は盗賊に手篭めにされるんだけど、この映画が描いているのは倫理的道徳的なこと、性的暴行の是非ではなくて、三船敏郎演じる多襄丸というトリックスターを登場させることで、女と男の間のこれまで隠されていた部分、本性だったり本音だったりが露わになる、というお話でしょう。
『最後の決闘裁判』も、男二人と女一人という人物構成は同じだし、夫の騎士という地位・肩書や「男らしさ」というものが妻のレイプ事件をきっかけに瓦解していく、というところでは、特に『羅生門』の終盤での真相、杣売りの証言の部分と似てはいる。
盗賊で都では悪名高かったはずの多襄丸も、また武士であるはずの夫もいざ剣を抜いて闘おうとするとどちらもへっぴり腰でぶざまな姿を晒し、女などほったらかしにして保身に走ろうとする。
ただ、この映画では、武士の妻が手篭めにされた、レイプされた、ということに対しては、映画はそれ自体を妻にとっての重大な侵害行為として捉えるというよりは、妻の貞操や彼女という存在はあたかも“夫の所有物”のように扱われている。
そして、ここでの「妻が手篭めにされた」という事件は、夫の本性、妻が心に抱いていた不満などがさらけ出されるきっかけに過ぎない。
事件の当事者たちの言い分がどれも異なっている、という不思議さで映画を観る者を幻惑する(演者たちの腕の見せどころでもあるし)、映画というものの面白さを存分に味わわせる、という効果ももちろんあるんだけれど、そしてそここそがこの映画が世界中で絶賛された、今もお手本とされる所以でもありますが、人の心の中とは本当にわからないものだ、弱さや卑劣さに溢れてもいる、ということを暴いたこの映画は、つまり一つの「寓話」であり、幅広い解釈やテーマを見出せる、いろんなメタファーに満ちた作品だということ。実は「妻が強姦された」ということ“だけ”を描いているのではない。
「映画」っていろんな「たとえ話」としての機能もあるので、耳目を集める犯罪や凶事などを描きながら、そこで語られているのは実は身のまわりのことだったり、より普遍的な事柄である場合もある。
『最後の決闘裁判』はこの『羅生門』と重なる部分は多いのだけれど、でもあの映画が描いていたのは「有害な男らしさ」の批判・糾弾であり、『羅生門』で描かれていた一部分をクローズアップしてそこに焦点を当てたものなんですね。
『最後の決闘裁判』にはハッキリと「反レイプ」のメッセージが込められていたが、『羅生門』に同様の主張は見られない。男による強姦は乱世の蛮行の一つとして処理されている。そこがこれら2本の映画の決定的な違い。
どちらが上だとか優れているか、というよりも、『羅生門』の方が寓意性や抽象度が高い、ともいえる。
たとえば、手篭めにされたあとに「そんな女のために命を捨てるのは御免だ」と闘いを放棄する夫を妻が「なぜあの男を殺さずに私に死ねと言うのか」と問い詰めるところは、まさに『最後の決闘裁判』に通じる、威厳があるように見えていた夫の化けの皮が剥がれる場面だが、これって性暴力以外にも言えることだし、「気違いのように必死になる男に女はついていくものだ」という妻の台詞も、そのまま言葉通りに聞いてるとずいぶんと古めかしい男性観だと思うんだけど、「妻だとかパートナーのために(自分一人のためではなく)もっと頑張れよ、努力しろ男たち」という叱咤だと思えば、ものすごく身近なことを言ってるようにも思えてくるw
要するに、いざという時に問題を大切なはずの人のせいにして自分だけ逃げようとするような卑怯者は女の相手に値しない、と言っているようでもある。
この映画では、武士の妻を演じる京マチ子はずっと力強いし内に恐ろしさも秘めているのがわかるので(杣売りが言ってたように弱々しかったり哀れそうにはあまり見えない)、ある証言の中では大声をあげて泣いたり、かと思えば急に大笑いしだしたりとエキセントリックで、最後には二人の男たちを大声で罵倒する。
自分は闘って勝った方のものになると言ったり、自分を手篭めにした盗賊に夫を殺せと言ったり、夫を短刀で刺し殺したり、殺し合う二人を置いて逃げたりと非常に損な役廻りで、今この映画を観て抵抗を感じるのは、そうやってこの女性を「男たちを翻弄する女」という型にハメてしまっているように見えるから。
これは黒澤監督の女性の描き方の癖なのかもしれないけれど、この映画の京マチ子さんの演技って『七人の侍』の百姓の娘・しの(津島恵子)が若い侍の勝四郎(木村功)の前で見せる姿とほとんど同じなんですよね。
声をあげて泣いたり、急に笑い出して「いくじなし、侍のくせに」と言ったり。
相手の男が、豹変する女の態度を見て薄気味悪そうな表情をするのも同じ。
女とはよくわからないもので、何を考えているのか皆目わからない、という男側からの目線で描いているから、なかなか感情移入が難しい。
『蜘蛛巣城』(感想はこちら)で山田五十鈴が演じた主人公の妻も同様。妻からの視点がないから、単純に浅はかで愚かな女性に思えてしまう。
一方で、『乱』(1985) で原田美枝子が演じた“楓の方”も『羅生門』の武士の妻の延長線上にある登場人物で、彼女は一文字家を滅亡に追いやるヴィラン(悪役)的な女性でもあるんだけど、楓の方って海外の黒澤映画ファンの間でもわりと人気が高いんですよね。
それは戦乱の世の中でただ男たちの犠牲者のままで終わるのではなく最後に一矢報いてやる、という彼女の復讐心、自らの身を犠牲にして怨敵の一族を全滅させていくその姿に共感を覚える人たちが結構いるからかもしれない。悲壮でかっこよくもあるから。
楓の方は、黒澤監督が描く女傑の完成形だったのかなぁ。
だから、黒澤監督はただ女性を哀れで弱い存在として見下していたのではなくて、底知れぬ力を持つものとして畏敬の念を込めて誇張して描いたのかもしれませんね。
その最初ともいえるのが、京マチ子演じるあの女性だったということだろうか。
さすがにその辺にいる普通の女性たちのことをあんなふうに見ていたわけではないと思うが^_^;
三船敏郎の野性的な魅力、その肉体美も見られますが、その彼を最後には情けない男として描くのが現代に通じるものを感じさせる。
多襄丸のキャラは完全に『七人の侍』の菊千代のプロトタイプだよね(^o^)
時々『七人の侍』でも流れていたような曲調の音楽が流れるし。
三船さん演じる多襄丸と森雅之の武士は前者が獰猛な獣のような男、後者はダンディで落ち着いた感じのイケオジと、異なる男性像、そのどちらの男たちも失墜していくさまが見どころでもあるんだけど、森さんが演じる武士の、妻が盗賊に夫のことを「殺してほしい」と頼んだら盗賊が逆に妻を踏みつけて「この女を生かすか殺すか」と自分に問うてきた、その瞬間に盗賊のことは許した、という理屈がほんとにわからない。
でも、森雅之さんのあの顔で言われると、こういう奴はいるかも、と思わせられるから不思議なんですが。
一番の被害者は妻であるにもかかわらず、なぜか加害者側の男と被害者であるはずの夫が結託したようになって一人の被害者女性を貶める構図が出来上がる。
このくだりは、『最後の決闘裁判』では妻は二人に「決闘しろ」とも「相手を殺せ」とも言っていなくて、男たちはただ自分のプライドのため、家名のために殺し合う、という形をとっていた。
その不要な「プライド」こそが害悪なんだ、と。
とても巧く現代的にアレンジしてあって、『羅生門』で心の内を無視され、一方的に見られる側として描かれ、「わからないもの」とされていた被害者女性の視点で男たちが断罪される。
『羅生門』を観たら、また『最後の決闘裁判』が観たくなってきました。
大がかりな歴史モノとして作られていた『最後の決闘裁判』とは違って『羅生門』の作品自体はとても小さな規模だし(何しろ登場人物は総勢8名)、上映時間も88分、ほとんどがロケ撮影だけど、ただ「羅生門」のあのセットだけはやたらと豪華で、言われなきゃ海外の人なんかは本物だと思ってしまうかもしれない。一点豪華主義であのセットだけは特大のものを作ったようだけど、さすが“世界のクロサワ”(になる前の作品ですがw)。
下人役の上田吉二郎がイイ味出してましたね。
志村喬の杣売りと千秋実の旅法師は生真面目で善人っぽいから、その二人とは対照的なキャラクターでいいアクセントになっていた。
ちょっと説教臭くなってくると、「説教はたくさんだ」と言うし(笑)
巫女役の本間文子は『七人の侍』で、「みんなで首くくって死ぬだか!」と泣き叫んでた農民のおばちゃんだっけ(別の人だったらゴメンナサイ)?
加東大介は『七人の侍』で初めて見たと思っていたけど、そうか、この映画にも出てたんだっけ。
旅法師役の千秋実って、細田守監督が『バケモノの子』(感想はこちら)で彼のヴィジュアルをほとんどそのまんまリリー・フランキーが声をアテてた瘦せたブタのキャラに使ってましたね。
京マチ子さんは妖艶でしたね。
先ほども書いたように、彼女はちょっと貫禄があり過ぎて儚さみたいなものは希薄だったけど、でも時々すごく可愛らしい瞬間があるんですよね。
なぜかめっちゃ爆笑している京マチ子さん。
「映画」をなんでもかんでも現実の世の中と照らし合わせる必要はないんですが、都が荒れ果てて追いはぎや辻強盗が横行している世の中、という時代設定は、それこそコロナ禍と不景気の真っ只中で、無残な連続強盗殺人が相次いでいる現在の日本そのもののように思える。
この映画を初めて観た30年前よりも、はるかにリアリティを持ってしまっている「羅生門」の世界。人心が荒廃した社会の恐ろしさは、もはや絵空事ではない。
この映画が撮られてもう73年(!)経つわけですが、戦後わずか5年目に作られたこの映画は図らずも現代社会の戯画として再び観客の前に姿を現わすことになった。
お話の中身自体はシンプルだからこそ、そこから観る側がいろんなものを導き出すことができる。そういう意味で本当の“マスターピース”なんだと思います。
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