映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

もう一つのブログとともに主に映画の感想を書いています。

『七人の侍』


黒澤明監督、三船敏郎志村喬木村功稲葉義男加東大介千秋実宮口精二土屋嘉男津島恵子小杉義男藤原釜足左卜全高堂国典ほか出演の『七人の侍』。1954年作品。

音楽は早坂文雄

第15回(1954年)ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞。

91年のリヴァイヴァル公開時の予告篇
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出演者たち
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戦国時代、度重なる野武士の略奪に脅かされる農民たちは侍を雇って村を守ることにするが、地位や報酬とは無縁なその役割を引き受ける者はなかなかいない。やがて、とある豪農家の納屋に立てこもった盗人から人質の赤ん坊を救った島田勘兵衛は利吉や万造たち村人に乞われ、弟子志願の若い浪人・勝四郎とともに村の防衛に必要な侍を探し始める。


七人の侍』は、90年代の初めにリヴァイヴァル上映された時に劇場で観ました。

黒澤映画を本格的に初めて映画館で観たのがこの作品だったことはとても幸運だったと思います。

本当に大好きになって公開中は何度も映画館に通ったっけ。

それ以降、BS放送で一度ほど観ましたが、207分という長さということもあるし、やはり映画館のスクリーンで観た記憶が鮮明にあるのでその感動が忘れられずに逆に気楽にDVDとかで観られずにいました。次もぜひまた映画館で、と思っていたから。

そして知った、今回のTOHOシネマズ「午前十時の映画祭7」における4Kデジタル・リマスター版での上映。

『七人の侍』を観ました♪



技術的なことはよくわからないけれど解像度がかなりよくなったということで、しかも映画館での上映自体が20数年ぶりだからこれはもう何がなんでも観なければ、と。

「午前十時の映画祭」は劇場によってグループAとグループBに分かれていてグループAでの上映はすでに終了しましたが、グループBでは現在公開中なので最寄りの上映館がどちらのブロックなのか確認して行かれることをお勧めします。

まず早速4Kデジタル・リマスター版について。

91年の時も以前よりも見やすくなっていたようだけど、今回は明らかに画質・音質ともに格段に向上していて、これまで黒く潰れていた冒頭の野武士たちの馬での疾走場面がハッキリと見える。

音質も、これまで聴き取りにくかった台詞がよく聴こえる、ということだったんで耳をそばだてて聴いていたんだけど、やっぱり左卜全三船敏郎は時々何言ってるのかわかんなかった^_^;


久右エ門の婆様の住む掘っ立て小屋に七人の侍が集まって、あの世にはつらいことは何もない、心配することはないんだぞ、と言う平八(千秋実)に三船演じる菊千代が「いい加減なことを抜かすな。おめぇ、あの世を見てきたのか!」と苛立ち、「なんだってそう怒鳴るんだ」と戸惑う平八に「俺は可哀想な奴がでぇ嫌ぇなんだ。こんなウジ虫みたいなのを見てると胸がムカムカする」と言って外に出て勘兵衛にむかってまくし立てる台詞(「なんかもっと○○はないのか、○○は!」みたいな内容)が早口過ぎて何度観てもまったくわからなかったんだけど、*1今回も見事なまでに聴き取れず。

だからこれは当時の録音技術の問題じゃないんだよな。三船さんは他の作品でも台詞がよく聴き取れないことがままあったし。

「米はもう一握りしかニャイ…」と言う左卜全も喋り方がモニョモニョし過ぎててところどころ何言ってんのかわからない。この人だけ村人の中で喋り方が違うんだよね。一体どこの方言なんだ、とw

でもまぁ、雰囲気で「こんなこと言ってたのかな」と想像しながら観てたんで、俳優に台詞がハッキリ聴き取れるように喋らせるよりも場面の雰囲気とかキャラクターの「感じ」を優先させた黒澤監督の演出も、それはそれでありなのかな、と。

それでもノイズが減り音がよりクリアになって、台詞や鳥の声とかさまざまな環境音がちゃんと聴こえる。

今から62年も前の映画だから今さらネタバレも何もない気もしますが、一応ストーリーに触れますからまだご覧になっていないかたはご注意ください。ってゆーか、未見のかたはぜひ劇場へどうぞ。この作品を映画館で初めて観るって、貴重で贅沢な経験ですから。


お話は農民たちが侍を雇って野武士たちを撃退する、という大変シンプルなもので、でもそこで描かれる人間模様、大迫力の活劇に見入ってしまう。

映画のほとんどはスタジオではなくてオープンセットで撮影されていて、おかげで映像はどこを切っても臨場感に溢れている。

農民たちの村はいくつかの場所で撮影したものを巧みな編集で一つの村に見せていて、言われないとああいう地形の場所に村のセットを一気に組んで撮ったように見える。

この映画、撮影はもちろん編集が本当に見事だと思うんですよね。

映画の編集というのは目立たないのがいいとされているから、編集のことを云々するのは映画を褒めてることになるのかどうかわからないですが、それでも素人目にもこれがただ漫然と撮って繋いでいるのではないことはわかる。

モンタージュの勉強には最適な作品じゃないでしょうか。

時々挟まれる望遠レンズを使ったショットも実に効果的で、画面に躍動感を与えている。

静と動。静寂と喧騒。光と影、水と炎、風と煙…。

三時間半の中に数多くのエレメントが詰まっている。

黒澤映画の「動き」と編集の見事さについてはこちらの動画が非常にわかりやすく解説してくれています(日本語字幕あり)。

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今回の一般公開に先立って試写会のあとに映画評論家の町山智浩さんと時代劇研究家の春日太一さんが解説されていて、まぁよく知られていることも多いですが、撮影エピソードなど作品をより深く理解するうえで参考になります。

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ちなみに、解説の中で町山さんと春日さんは「この映画ではコマ落とし(クイックモーション)は使っていない」と仰ってますが、クライマックスの雨の中で菊千代たちが馬上の野武士たちと戦う場面で部分的にコマ落としは使ってますね。

あと僕の記憶が正しければ、最初に野武士たちを村に入れて戦う場面でも何箇所かコマ落としを使ってたような。

どちらも絶妙な使い方なので、一見すると通常のスピードにも見えますが。

町山さんも言われてるように『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でマックスが敵から武器を奪ってくるシーンは久蔵が野武士の鉄砲を奪ってくる場面からの引用ですが、『デス・ロード』や『マッドマックス2』で使われた部分的なコマ落としにも僕は大いに『七人の侍』を連想しました。監督のジョージ・ミラーが意識してたのかどうかはわからないけど。


あらたまって言うのもなんですが、僕はこの『七人の侍』を20数年前に初めて観た時、ほんとに感動したんです。こんなに面白い映画が日本にあったんだ、と。

それまで古い日本の映画を観たことはほとんどなかったし、ここまで娯楽性に富んだ迫力満点の時代劇を観たのは初めてだったから物凄く新鮮だった。

それまで時代劇って様式の世界だと思っていたんだけど、演者たちの台詞廻しも自然で何もかもが驚くほど写実的で作り物めいたところがなく、まるで戦国時代にタイムスリップしたようなリアリティがあった。

たとえば、今でこそリアルに見える“ちょんまげ”は珍しくないけれど、90年代当時の時代劇はまだあからさまにヅラ丸出しの髷も多かったので(黒澤監督いわく「羊羹みたいなのが乗ってるちょんまげ」)、そういう時代劇の「型」に収まっていない造形の髷一つとっても丁寧に作られた本格的な作品、という印象だった。

今回、そのように以前はとてもリアルに見えていた『七人の侍』の髷が、映像がクリアになったことで俳優の地肌とヅラの境目や作り物の毛の生え際のマス目までがハッキリとわかったのは驚きでした。

今では地肌とヅラの羽二重がほとんど一体化してるように見えるほどちょんまげの造形や特殊メイクの技術は進化していますが、『七人の侍』でもわざと髪をほつれさせたり月代の部分の髪が中途半端に伸びてたり(山田洋次の『たそがれ清兵衛』でもやっていた)、ホンモノに見せるための数々の工夫の跡がうかがえます(ところで頭を丸める時の勘兵衛や五郎兵衛役の稲葉義男の髪はどう見てもホンモノに見えたんですが、あれは地毛と付け毛を組み合わせていたんだろうか)。

そういう従来の時代劇の伝統的なお約束事からあえて外れたところで作られた『七人の侍』は、だからこそ今観ても古びていない。

この映画よりもあとに作られた時代劇で、もっと時代を感じさせるものはたくさんある。

俳優たちの演技にしても、三船敏郎は『用心棒』の時には主人公の桑畑三十郎の動きをラグビー選手の動きを参考にして演じたそうだけど、『七人の侍』の“アクション”も同じくいわゆる時代劇の“殺陣”とは違って、様式的な「型」とか「間」を排して、実際の戦さ、戦闘はこのように行なわれたのではないか、というシミュレーションのように描いてみせる。

刀や火縄銃、弓や槍などの武器を使った戦いを描いていても、ポーズをキメキメな“チャンバラ”じゃないんですよね。

その後、『十三人の刺客』のような作品も作られたけど、こういう徹底した写実的リアリズムに基づく時代劇って実はそんなに数は多くない。

劇中に登場する武具なども中には本物が使われていたりして、あとで専門家に呆れられたという話も。菊千代たちが野武士のアジトを襲撃する場面では、衣裳として使われていた貴重な内掛が撮影中の炎で焼失している。とんでもねぇな^_^;

農民たちの衣裳は使い古したように見せるために何度も洗濯を繰り返したり汚したり傷つけたりしたんだそうで。

黒澤監督が『赤ひげ』でキャメラには映らない引き出しの中まで美術で用意させたという話も伝わっていてなかなかスゴいこだわりなんだけど、もちろん映画的な嘘だってたくさんあって、たとえば馬はサラブレッドが使われている。当然ながら戦国時代の日本にサラブレッドがいるわけはなくて、そこは映画的に「絵」になるからわざと使ってる。そのへんのバランスも素晴らしいですよね。


物語の中ではトリックスター的キャラクターでキーパーソンでもある菊千代が登場すると、映画館の観客席からキタキタ!って感じの笑い声が。

三船敏郎はやっぱり華があるよなぁ。


菊千代のキャラクターは三船さんご本人の性格も加味して造形されたそうだけど、僕はこれほどまでに身軽でひょうきんな三船敏郎を他の映画で見たことがない。多々良純演じる眉毛の繋がった人足が「まるで山犬だ」と言うように、菊千代は一見野放図で乱暴者だが、農民と侍を繋ぐ蝶番であり、この映画は百姓出身の彼が本物の侍になる映画でもあるんですよね。

僕は三船さんがご存命の時にリアルタイムで映画館で観たのは市川崑監督の『竹取物語』(1987)だけなんですが、三船さん演じる「竹取の造(みやつこ)」はおじいさんというよりもパワフルなおじさんで(妻役は若尾文子さん)、月からの使者がかぐや姫を連れ戻しにくると知ると、「そいつの髪を掴んで引きずり降ろしてやる!」と息巻いていた。

まるで菊千代が年取ったようなキャラクターでしたw

七人の侍』の三船敏郎は、ほんとにもう惚れぼれしますね。こんな男前で野性的な筋骨隆々の俳優がいたんだなぁ、と。

三船さんの吠えるような台詞廻し、肉体の躍動、何もかもが輝いている。まさしく不世出のスターだったんですね。


ウホッいい男


また、七人の侍のリーダーである勘兵衛を演じる志村喬がこんなに頼もしくかっこよく見える映画も僕は他に知らないんだけど、この映画の彼はまさに理想のリーダー像そのもの。


同じ年に志村さんは本多猪四郎監督の『ゴジラ』で山根博士を演じてますが、あの当時は作品を何本も掛け持ちするのが当たり前だったんだろうけど、それにしても一年間に『七人の侍』と『ゴジラ』という映画史的にも重要な二本に主要登場人物として出演してるって、あらためてスゴいと思う。

七人の侍』は一年以上撮影をやってたそうだし、勘兵衛はほぼ出ずっぱりだから、どうやってこの2本に同時に出演してたのか不思議でしょうがないんですが。

僕はこれ以前からゴジラ映画の博士役で志村さんの顔は知っていたんだけど、『七人の侍』を観たあとではこの俳優さんを見る目がまったく変わりました。

村で走る時の健脚ぶり。離脱しようとした村人を追い、皆の前で「部落を踏みにじられて離れ家の生きる道はない。戦さとはそういうものだ!」という言葉。優しさと厳しさが混在しているキャラクター。

実際に三船敏郎志村喬を父親のように慕っていたそうだけど、ほんと、勝四郎じゃないけど思わず「どうかお弟子に!」と言いたくなるもんねw

七人の侍』は登場人物たちの描き分けが鮮やかで、侍側は勝四郎に五郎兵衛、七郎次に平八と(久蔵の久は“九”か?)数字が並んでいて覚えやすいし、農民たちも利吉にしても万造、茂助、与平、高堂国典演じる村の“じ様”(儀作)にしても誰一人キャラがカブらず、彼らは皆わかりやすくある意味類型的な人物として描かれているが、エピソードの積み重ねによって人物の性格や背景が的確に伝わり、単なる記号的なキャラクターにはとどまっていない。

以前、井筒和幸監督が『七人の侍』のハリウッドリメイクである『荒野の七人』の効率的な語り口と適度な上映時間に比べてオリジナル版である『七人の侍』は長すぎる、と苦言を呈していたが、悪いがその意見には同意しかねる。

僕はジョン・スタージェス監督による『荒野の七人』は最良のリメイク作だと思うので作品自体に文句はないですが、それでも『七人の侍』を観たあとに『荒野の七人』を観ると、ちょっとダイジェストっぽく感じてしまうんです。

『荒野の七人』ではならず者のガンマンたちのリーダーをイーライ・ウォラックが演じていて、こちらは『七人の侍』の野武士の頭目よりも目立ってるんだけど、やっぱり『七人の侍』はあれだけ時間をかけて侍探しのエピソードを描いたり農民側の主要キャラクターたちを立たしているので、彼らと侍たちの軋轢と和解、やがて両者が真に協力しあう戦いのシーンの重みが一層増すのだ。だからこそ最後の勘兵衛の「勝ったのはあの百姓たちだ。わしたちではない」という台詞にも実感が湧くわけで。

わかってねーなぁ、井筒さん。

何よりも『七人の侍』では村を要塞化する過程が丹念に描かれ、そこでの野武士との攻防戦がクライマックスになっているが、『荒野の七人』では村は盗賊たちに一度乗っ取られる。井筒監督は『荒野の七人』の面白さは理解しているのに、『七人の侍』の最大の見どころを気にも留めていないのはつくづく残念です。

それに『荒野~』での主人公はあくまでも勘兵衛的なキャラであるクリス(ユル・ブリンナー)で、肝腎の菊千代に相当するコミックリリーフ的なキャラクターはおらず(勝四郎的な若者チコと統合されている)、笑いの要素はほとんどないんですよね。

菊千代はお笑い担当と同時に物語の推進役でもあって、自分たちで呼んだくせに侍を怖れて家に隠れていた村人たちを「すりこぎぶっ叩いて」強制的に外に出すのも彼なら、落武者狩りで集めた大量の武器と鎧を万造(藤原釜足)の家から調達するのも彼。そしてあの「やい、お前たち。一体百姓をなんだと思ってたんだ」の台詞に繋がる。侍たちと村人を繋ぐのも菊千代なのだ。


彼がいなければ『七人の侍』という映画は成り立たない。

与平の馬に無理矢理乗って振り落とされてぶざまに追いかける場面は大いに和むが、のちに野武士の寝ぐらを襲撃する時に菊千代がその馬に乗ることになる。ここでも各エピソードがしっかり伏線となって物語に貢献している。

緻密に書かれたシナリオには無駄な要素は一切ない。

利吉は菊千代に「女房と一緒なら馬小屋も悪くねぇよな」と言われて「おらぁ、女房なんかいねぇ!」と答える。また農作業中に平八の「お前も早く女房をもらうんだな」という言葉に険しい表情で立ち去る。夜、平八に「何かあったら話した方がいいぞ。まぁこうやってポツリポツリ話すのも悪くないもんだ」と促されても、利吉は「おら、何も話すことはねぇ」と口をつぐむ。彼はかつて野武士との談合で村の存続のために自分の妻を差し出していた。


しかし、野武士たちのアジトを襲う際にそこで囚われていた妻と再会、炎の中に消えた妻を追おうとする利吉を引き止めようとして平八は敵の銃弾に倒れる。


大声で泣きながら平八の墓にすがる利吉や悲しみに暮れる村人たちに菊千代は「泣くな!泣くな!」と大声で怒鳴りながら、平八が縫っていた「たの字」が描かれた旗を利吉の家の屋根に立てる。七人の侍と農民たちを意味するマークが描かれた旗が風にはためき、野武士たちの大群が山から降りてくる。*2

各エピソードと登場人物たちの関係が互いに絡みあっていく。

住んでいた橋向こうの家を引き払ってほしいと言われて反抗し、勘兵衛に懲らしめられていた茂助(小杉義男)は、その後、野武士たちによって火がつけられて燃える我が家を見て嘆き悲しむ村人たちに「なんだ、あんなボロ小屋!みんな、持ち場さ帰ぇれ!」と泣きながら叫ぶ。

また、侍たちにかどわかされるのを怖れて娘の志乃の髪を切って男装させた万造は、決戦前夜に勝四郎と一発キメた愛を交わした志乃を「このガキ!」と殴り続ける。止めに入った勘兵衛と説得する七郎次(加東大介)に「無理もないじゃ済まされねぇ。一人娘をキズモノにされて黙っちゃいられねぇ!」と激高する万造に、利吉は「好きで一緒になったもんにぐずぐず言うこたぁねぇ。野伏せりにくれてやったのとはわけが違うぞ」と言う。座り込む万造。やはりここでも話が繋がっている。

このあたりのシナリオの妙。

特に、自分の迂闊な行動のために野武士の侵入を招いて結果的に五郎兵衛や与平、何人もの村人を死なせることになってしまったことを悔いて墓の前で座り込んでいる菊千代、村人たちと一緒にいる勘兵衛と久蔵(宮口精二)、七郎次に言われて娘の志乃に会いにいく万造、志乃と勝四郎たちが交互に描かれ、それらが一つに収束して雨とともにやがて決戦へと向かっていく流れは見事としか言いようがない。

未熟な若者である勝四郎や“なんちゃって侍”の菊千代だけでなく、農民も、そして勘兵衛ら侍たちも登場人物全員が変化し、成長していく。

それを描くためにこの上映時間の長さが必要だったのだ。それをただ「長すぎる」としか感じなかった井筒さんには映画監督として猛省していただきたい。

ところで、志乃と勝四郎の場面はいつ観ても僕は気恥ずかしくなってしまうんですが、彼らも野武士に女房を奪われた利吉と対比されているから必要な存在である。


志乃は男装したにもかかわらず勝四郎に胸を揉まれて女性であることがバレてしまい、しばらくするともう互いにいい仲になっている。

で、「弱虫!侍のくせに」とか言って勝四郎を誘う。

また、決戦前夜にも着物姿でこれ見よがしに勝四郎の前に現われて、彼と一発キメる愛し合う。

情熱的というかその行動は幾分エキセントリックで、観ていて若干ヒく。なんかサカってるみたいで^_^;

「どうなっても構わねぇ」とか言っときながら、田植えの時には勝四郎を無視して歩き去るし。

そういう、ちょっと常軌を逸し気味なところは黒澤的なヒロイン、といえばそうなのかもしれないが。

志乃が本当に勝四郎を愛していたのか、それとも勝四郎への想いというのは百姓という身分からの脱出を夢見た末のことなのかよくわからないけれど、七郎次が万造に話す決戦の前の城の様子のこと、「若い者の身にもなってやれ。無理もないのだ」という言葉には妙なリアリティを感じる。

勘兵衛の「お前も夕辺からもう大人!」にも笑うw

木村功は今でもイケメンとして充分通用する美少年ぶりと童貞臭漂う若者らしさが板についてるけど、撮影時にはすでに三十路を越えていた。年齢不詳な魅力がありますよね。

勝四郎は元服前の15歳という設定らしくて、ということは志乃もまた同じぐらいの歳ということなんでしょうが、演じている津島恵子は最初に髪を洗っている場面では胸の谷間も深く体つきも成熟しているので、大人の女性に見える。


「なんだべ、とっつぁま」という言い方も、普段から父親に抑えつけられている少女には見えなくてもっとたくましそうに見えるんだよね。

さすがに彼女が15歳というのはちょっと苦しいし、津島さんは大人の女性の魅力に溢れているのでそのあとずっと股引穿いた男の格好をすることになるのが実にもったいない。

勝四郎と志乃のラヴシーンが気恥ずかしいのは、ほんとは大人の男女が未成熟な少年少女を演じているから、というのもあるかもしれない。

勝四郎の童貞臭さと菊千代の「あ~、どっかに女いねぇかなぁ」とか、村人の娘から鎌をひったくって「お前の三倍刈ってやる。その代わり、オイ、仲良くしようぜ」と言って彼女の尻を叩く場面などの兄貴っぷりの対比は面白いですが。

勝四郎は久蔵に憧れていて、菊千代の前で久蔵を褒め称える。それを聞いていた菊千代は久蔵の真似をして野武士たちから種子島(鉄砲)を奪ってきて勘兵衛に「抜け駆けの功名は手柄にならん」とたしなめられる。

菊千代は出会った時から勝四郎のことを「ヒヨッコ」扱いしているけど、それでもそんな彼から尊敬されたいのだ。

最後、雨の中で銃弾に倒れた久蔵に駆け寄り、死の間際に久蔵が指し示した方にむかおうとした勝四郎の刀をひったくって狙い撃ちした野武士の頭目に「卑怯者!」と走っていく菊千代。その彼もまた銃弾を受け、頭目にとどめを刺して泥の中で息絶える。

決戦前夜に村人たちから酒と食べ物が振る舞われて、以前「百姓ほど悪ズレした生き物はいない」と言っていた菊千代の言葉通り「なんでも出てくる」と呆れる勘兵衛。ここでも話が繋がっている。

その酒を持って墓の前の菊千代のもとを訪れる勘兵衛。彼は常に菊千代のことを気にかけている。それは最後まで変わらない。

菊千代の最期にも勘兵衛の「菊千代!菊千代!」という呼び声が重なる。

平八と利吉と同様に、登場人物たちの関係はその死に至るまで連なっている。


この『七人の侍』に登場する侍たちが僕たちにとってのある種の「理想」の姿であることは間違いないだろうけれど、一方で農民たちの描かれ方がえげつない、という意見もある。

要するにただ善良で気の毒な人々ではなく、菊千代が言っていたように彼らは「ぺこぺこ胡麻を摺る。なんでも誤魔化す」ズルくて弱虫で時に人殺しですらある。

でもこれは単に農民のことだけを指しているのだろうか。

この映画は黒澤明のまるで上から見下すような農民たちへの視線に抵抗を覚える人もいるようだけど、僕はむしろこれは日本人全体のことを言ってるんじゃないかと思ったんですよね。菊千代の「百姓」についての台詞は、そのまま日本人に当てはまるじゃないか。

万造が言っていた「長いものには巻かれる」村社会的な日本人のメンタリティ、生き方にクロサワは活を入れているのだ。

それでも、最後に勝つのはその「百姓たち」なんである。

武士というのは身分だけど、百姓出身の菊千代が最後には彼が望んだ「本当の侍」になったように、人は侍のように生きることができる。

だからここでの「侍」とは“生き方”のことなのだ。

この映画には説教はない。屁理屈もない。

野武士という脅威から村を守る、という目的のために右往左往、七転八倒して、団結して戦う者たちの姿を映し出すことで、活劇と人間ドラマの中に有無を言わせず心を振るわせる“熱”が込められている。

ここで描かれる野武士とは、人が立ち向かうべき困難の象徴である。

この映画の中では野武士たちの側のドラマは描かれることがない。野武士たちの事情とか、そういうことはここでは触れられない。

逃げようとして頭目に撃ち殺される者たちの姿がわずかに描写されるのみで、彼らは侍たちと農民たちが手をとりあって倒し排除する完全なる悪役として描かれる。


町山さんはこれをこの映画の「欠点」と言われていたけれど、そうかなぁ。

そのあと続けて解説されていた黒澤作品の作劇の特徴についての指摘はなかなか興味深かったけど、こと『七人の侍』に関していえば、僕はあれでよかったと思いますけどね。

もしも敵の野武士たちのドラマまで描いていたら、映画の焦点がボヤケてそれこそ冗長になっていたでしょう。クライマックスだってあんなに感動的にはならなかったはずだ。何人もいる登場人物たちのドラマがすでにてんこ盛りなんだから。

切り捨てるべき部分は潔く切り捨てる。そのおかげで主人公側のドラマが盛り上がる。

ここでの野武士とは、ちょうど『スター・ウォーズ』の帝国軍みたいな存在なんですよね。おそらくジョージ・ルーカスもそれは意識していたと思うけど。


僕はこの映画を観るたびにその面白さに夢中になるとともに、今はなき多くの名優たち、脇役や端役の人々も含めた往年の映画界に想いを馳せて、何か言い様のない感動を味わいます。

かつて素晴らしい人々がいて素晴らしい映画があった。それを今こうやって劇場のスクリーンで観ている幸福感。

黒澤監督をはじめ七人の侍を演じた俳優たちもすでにこの世になく、志乃役の津島恵子さんも2012年に亡くなられて、主要キャストでご存命なのは利吉役の土屋嘉男さんのみ。

今回の4Kデジタル・リマスター版の公開で土屋さんはメディアには出ていらっしゃらないようなのがちょっと寂しいですが、黒澤組のスクリプターだった野上照代さんや若手として出演した仲代達矢さんが感激されていたように、高画質で甦った『七人の侍』がさらに多くのファンを生み出していくことを願って止みません。


追記:土屋嘉男さんのご冥福をお祈りいたします。17.2.8



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*1:TV放映の際に字幕で確認したら「なんか無茶なことはないのか、無茶なことは」と言っていた。

*2:山の向こうから野武士たちが押し寄せるこの場面がジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス』の通商連合のバトルシップの襲来シーンで引用されているのは有名な話。