「午前十時の映画祭11」でスタンリー・キューブリック監督、ジャック・ニコルソン、シェリー・デュヴァル、ダニー・ロイド、スキャットマン・クローザース、フィリップ・ストーン、ジョー・ターケルほか出演の『シャイニング 北米公開版〈デジタル・リマスター版〉』。1980年作品。PG12。
原作はスティーヴン・キングの同名小説。
コロラド州のロッキー山上にあるオーヴァールック(展望)ホテルの管理人として雇われたジャック・トランス(ジャック・ニコルソン)は、妻のウェンディ(シェリー・デュバル)と幼い息子ダニー(ダニー・ロイド)とともに雪の積もるホテルに五ヵ月間滞在することになる。しかし、やがて彼らの間で異変が起こり始める。
ネタバレがあります。
ひと月以上経ってしまいましたが、7月に同じくキューブリック監督の『2001年宇宙の旅』に続いて「午前十時の映画祭」(もう“午前十時”じゃなくなってるけど)で劇場鑑賞。
『シャイニング』に対しては『2001年』以上に思い入れがなくて、だから朝早くからわざわざ劇場に足を運ぶべきかどうか迷ったんだけど、どうやらこれまで日本で公開されてソフト化もされている「コンティネンタル版」よりも20分以上長い「北米公開版(143分)」ということなので、せっかくの機会だから観てみることに。
ただ、僕はこの映画をこれまでにBSで放映されたのをチラッと観たことがあるぐらいでどの部分が追加されているのかわからなくて、だから以前のヴァージョンとの違いについてはちゃんと把握していません。
「ロッキー」シリーズでアポロやロッキーのトレーナー役だったトニー・バートンが演じる男性がスキャットマン・クローザース演じるホテルの料理長のハロランと喋るシーンが以前はなかったようで。
とりあえず、インターネット上にある記事で以前のものとの違いを確認した程度。
物語の内容や映画のトーンがガラッと変わってしまうようなことはないので違和感はなかったし、140分あっても長さも感じなかった。
ハッキリ言ってしまうとストーリー自体はそんなに複雑でもなくて、冬の間ホテルにカンヅメになっているうちに主人公がおかしくなって最後は凍っちゃった、というだけの話。
原作者のスティーヴン・キングがこの映画版を嫌ってるのは知っていたけれど、僕は原作小説を読んでいないし、キング自身が製作総指揮や脚本を務めたTVドラマ版(監督:ミック・ギャリス)の存在も制作当時に知ってたけど未見。
だから、原作に対する思い入れもないので映画版は抵抗なく観られました。
あらためて観てみて、あぁ、こういう話だったんだ、と。
僕にはこれはドメスティック・ヴァイオレンス(家庭内暴力)についての映画に思えたし、実際、原作はキングの実体験をモデルにしているそうだから、キング自身の家族とのトラブルと心霊現象を絡めて書かれたものなんでしょうね。
原作はもっとその心霊現象とか超常現象絡みの部分がクローズアップされてるようだし、主人公は最後は正気に返って家族を救うという結末らしいから、確かに発狂して妻子を殺そうとした挙げ句、最後にはカッチンコに冷凍されちゃう映画版は原作とは正反対だし、原作者が怒るのも無理はないかもしれない。
そもそも主人公のジャック役をジャック・ニコルソンが演じることにもキングは反対していたそうだから。
主人公を「ごく普通の男」として描くのであれば、確かにニコルソンは原作者の批判通り「最初からおかしく見える」ので、ミスキャストということになるだろう。
だけど、さっき述べたように僕はこれを“ドメスティック・ヴァイオレンス”を描いた映画として観たので、一見明るくて家族を引っ張っていく頼りがいのありそうな男に見えるニコルソンのキャスティングは間違ってなかったと思うんですよね。
中盤以降での暴走していくニコルソンのオーヴァーな狂気の演技は、彼が9年後に『バットマン』で演じた悪役ジョーカーのそれを思わせる。
普通の男がだんだん狂っていくというよりも、そもそもおかしかった男がその本性を現わしたといった感じ。
これは暴力夫(&父親)がいろいろといわくのあるホテルの怪談話を媒介にして彼の中にある鬱屈を爆発させる映画なんだよね。
キングは、彼自身の中の怒りや暴力性をインディアンの呪いだとか超自然的なものが原因のように描いたんじゃないだろうか。そして、そこからの救いで物語を終わらせたんだろう(原作を読んでないから勝手な想像で書いてます)。
でも、それは責任を自分以外の「何か」のせいにする行為じゃないか。
だからこそ、最初から妻に対してキツめの言動をするジャックや、その彼が最後まで正気を取り戻すことなく雪の中で絶命する映画版を原作者は嫌悪するんだろう。
僕は、この映画版『シャイニング』は実に真っ当な「反DV」映画だと思いましたけどね。妻と息子はDVから生還して、暴力男は最後まで許されることはないのだから。
ジャックは、妻のウェンディのことを最初から一人の人間として見下している。
彼は以前、息子のダニーに誤って怪我をさせてしまったことをずっと気に病んでいて、その時にウェンディに責められたことを根に持っている。
すべては彼のその罪の意識が原因。
そして、それはインディアン(アメリカ先住民)を虐殺して土地を奪った白人たちのそれと重ねられる。自分は罪を犯した。いつか復讐されるのではないか、という恐れ。
劇中でのジャックの妻や息子に対する物言いや行動は、DV男のそれだ。
不機嫌になって相手を罵倒したり暴力を振るったかと思えば、後悔しているような素振りを見せて泣いたりする。
先日、自称・メンタリストのDaiGoがホームレスの人々を差別してその命を排除することを正当化するような狂った暴言を吐いていたけど、それが炎上してバッシングを受けると今度は涙を見せて反省してみせた。だけど、それは彼のヘタクソな芝居だったことが暴露されている。
明らかに彼もまたこの映画のジャックと変わらないようなサイコパスで恐ろしい一面を持っている。
Wikipediaのこの映画についての解説では、ウェンディは夫への依存心が強い気弱な女性、と書かれていたけど、そうだろうか。
シェリー・デュヴァルが演じるウェンディが「気弱」そうに見えるのは、夫の暴力にどこかで怯えているからだろうことは映画を観ていればうかがえると思うんだが。
ダニーも、自分を抱きしめる父に「僕やママに乱暴しないで」と言うし。
ウェンディは気弱なのでも依存心が強いのでもなくて、夫が再び暴発することを恐れているのだ。DVの被害者の家族そのもの。
ウェンディがジャックにサンドイッチを差し入れると、それだけで夫は仕事の邪魔をされたと不機嫌になって妻に向かって悪態をつく。
そんなに邪魔されたくないのなら、自分一人だけでどこかにこもって小説でもなんでも書いていればいい。自分の「仕事」に家族を巻き込んでおきながら、思うように筆が進まないと八つ当たりする。
実際には劇中でホテルの管理の作業をしていたのはウェンディで、ジャックは建物の壁にボールをぶつけて遊んでるかタイプライターで延々“小説”を書いているだけだ。
なのに、ダニーの異変にウェンディが不安を募らせてホテルを去ることを提案すると、「管理人としての俺の責任はどうなるんだ」とキレる。管理人の仕事なんてこれっぽっちもしていないのに。そして、自分の小説の執筆がはかどらないのは妻のせいだ、と責任転嫁する。
ほんとはそうじゃないんだよね。小説が書けないのは、彼に才能がないからだ。
この映画の中ではジャックは小説家を自称しているが、これまでに彼が書いた本はまったく出てこないし、そもそも作品を書き上げたことがあるのかどうかすらさだかではない。本当に彼は作家なのだろうか。
映画版でジャックが教師の仕事を辞めたのは、作家の仕事に専念するため、と説明されるけど、原作ではジャックは生徒に体罰を振るってクビになっているようなので、最初から彼は暴力的な人間だったんだよね。
ダニーに怪我をさせたのは「ちょっと力が入り過ぎただけ」と言い訳するが、幼い子どもが傷を負うほど力を入れたというのは、彼が頭に血が上ると抑制できなくなる危険なタイプの人間である証拠。
そして、外部から隔絶されたホテルでひたすら自分と向き合っていくうちに、「作家」の幻想が剥がれ落ちていく。ジャックは作品を生み出すことなどできない、ただ妻や子どもに暴力を振るっているだけの役立たずでアル中のクズなのだ。
それを認めたくないがために、彼はオーヴァールックホテルの幽霊たちと語り合ったり妻以外の美女と抱き合ったりする。自分の中の幻想にしがみつき、最後には死んで幻想の中で永遠に生きることにする。
「オーヴァールックホテル」とは、ジャック・トランスという男の正体が“展望”される場所なのだ。
ジャックが出会うグレイディ(フィリップ・ストーン)は、自分の妻や双子の娘たちを「しつけてやった」と言う。
DVを働く者は、しばしば被害者に対する自分の暴力を「ただのしつけ」と正当化する。
これは、家族に暴力を振るう男の狂気を増幅させてその破滅までを描いた物語として僕は観たし、もしかしたらキューブリックが原作小説の中から彼自身が感じた恐怖を抽出して映像化したものなのかもしれない。
グレイディは1920年代の男だから、ということもあるのだろうか、黒人のハロランのことを平然と「ニガー」と呼ぶし、それを聞いたジャックもその差別的な呼称を繰り返す。この映画が作られた80年代だってジャックのような物言いは許されなかっただろう。彼は50年前のホテルの従業員たちと同化している。
バーテンダーのロイド役を『ブレードランナー』でタイレル博士役だったジョー・ターケル*1が演じていて(って、こちらの方が先だが)、『ブレードランナー』の監督リドリー・スコットは何かとキューブリックを意識しているところがあるから、ジョー・ターケルの起用も意識してやってたんでしょうね(ブレランの最初の公開版のラストの俯瞰の風景ショットは『シャイニング』の未使用フィルムが使われていた)。
ジャックの息子のダニー役のダニー・ロイドは現在は俳優とは別の道に進んでいるけれど、彼の演技はほんとに真に迫っていて素晴らしかった。怯えた表情や“シャイニング”の能力を発動してトランス状態に入ったりと、彼のあの迫真の演技があったからこそ、この映画は今ではホラー映画のマスターピースとされているんじゃなかろうか。
もちろん、ジャック・ニコルソンの怪演と、それを上回るほどの“恐怖ヅラ”を披露してくれたシェリー・デュヴァルの演技の三位一体で、この映画は時代を超える恐怖の「家族映画」になった。
シェリー・デュヴァルはその後、ロビン・ウィリアムズ主演の実写版『ポパイ』でポパイの恋人オリーブを演じていて、そのソックリぶりに笑った(ポパイの声の吹き替えをいかりや長介が担当していたのも可笑しかったが)けれど、彼女の大きなビックリ眼とポカン口はこの『シャイニング』でその威力を最大限に発揮していたように思う。
スピルバーグが『レディ・プレイヤー1』の中でこの映画にオマージュを捧げていたけれど、「父と息子」の物語にこだわりがあるスピルバーグがあえてこの映画を選んだのが興味深い(スピルバーグは少年時代に両親が離婚している)。
あの素っ裸のババアが大笑いしながらにじり寄ってくるのは、この映画最大の笑撃シーンだなw
ジャックが全裸の若い美女と抱き合ってキスすると彼女が老婆の腐乱死体に変わる、というのは、彼の深層心理の中での浮気願望とそれに対する罪の意識だろうけど、すごくわかりやすい(笑)
バスタブの中の腐った死体はやたらとリアルだったんで、あの場面はちょっと苦手ですが。
凍死しているジャックの顔が妙に間抜けで、この映画の中にほのかに漂う妙なユーモアは、やはりジャック・ニコルソンだからこそ出せたものなんじゃないかと思います。
※シェリー・デュヴァルさんのご冥福をお祈りいたします。24.7.11
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