「午前十時の映画祭10」でスタンリー・キューブリック監督、マルコム・マクダウェル主演の『時計じかけのオレンジ』を鑑賞。1971年(日本公開72年)作品。R18+。
近未来のロンドン。両親とアパート住まいのアレックス(マルコム・マクダウェル)は4人組の不良グループ“ドルーグ”のリーダーとして日夜“超暴力”(ウルトラ・ヴァイオレンス)に明け暮れている。しかし、押し入った家の女性を暴行の末に殺してしまい仲間に裏切られたアレックスは収監され、刑期を大幅に短縮するという条件で犯罪者の更生のための「ルトヴィコ療法」を受けることにする。
ネタバレがありますので、ご注意ください。
この映画は昔ヴィデオで観ました。スタンリー・キューブリックの問題作、というふれこみだったけど、問題は暴力描写の凄まじさではなくて作品の倫理的な部分だった。
暴力やレイプなどをコミカルで楽しげに描いていることが問題視されたんですね。しかも最後も主人公は単純に断罪されない。最後の台詞が「完全に治ったね」で、アレックスが彼の“回復”を祝福する人々の前で女性とセックスしている姿を映して映画は終わる。
当時、観終わったあとに釈然としないものがあった。
この映画を「クール」で「カッコイイ」と持ち上げている人たちのことも、どうかしてる、と思った。
でも今回、久々に観返してみて(劇場鑑賞は初めて)、あらためて「あぁ、こういう話だったのか」と。
劇中でアレックスたちに妻を犯され自身も暴行されて半身不随になる作家が言っていたように、「選ぶことができないのならば、それは人間とは言えない」ということを訴えている。
1972年の日本での劇場公開時にどのような反響があったのかは知らないし、もしかしたら現実とは切り離して刺激的なエンタメとして消費されたのかもしれませんが、この映画は今現在観ることで作品によりリアリティが増して感じられてくるのではないかと思います。
アレックスたちがホームレスの老人を痛めつける場面があったけど、そういえば日本でも80年代に中学生たちがホームレスの男性を暴行して死亡させる事件があった。北野武が『その男、凶暴につき』でその事件を基にしたのだろう場面を描いていた。
ただ、これは青少年の非行問題に限ったことではなくて、人間のモラルについての寓話でもあるし、「選択の自由」の重要さと、そこに含まれるディレンマについても語っている。
劇中でアレックスは「ルトヴィコ療法」の作用で性的なことや暴力について考えたり、それを行なおうとすると吐き気がしてきて無害な少年になる。ベートーヴェンの音楽を聴いたり、女性のおっぱいに触れようとすると気分が悪くなるという具合。暴力を受けても反撃もできない。
それは一見犯罪者の更生と凶悪犯罪の再犯防止に繋がるようにも思われたが、実際には「パブロフの犬」の条件反射の逆版みたいなもので、強制的に犯罪を行なえなくしているだけで本人が罪の深さを認識して判断しているのではないことが問題。
権力に対する反発、というのは、この映画が作られた時代はヴェトナム戦争中で世界中で若者たちが自己主張し始めてもいたし、そのような世相を反映してもいたんでしょうね。
でも、現実の世の中を見渡すと、ハッキリ言ってアレックスたちよりもはるかに凶悪で更生の余地もない異常者や犯罪者は大勢存在していて痛ましい事件が報道されることもしばしばある。
それらを眺めていると、「治療」することで再犯が防げるのなら結構なことだし、明らかにそうすべき事例がいくつもあるだろう、とも思う。
この映画では、人間というのはモノを考えて自分で正しい判断ができるはずなんだからそれを信じなければ、という姿勢が根底にあるけれど、残念ながらそれが望めない者が存在することをすでに僕たちは嫌というほど思い知らされてしまっている。
性犯罪を自分で止められない者は「病気」なんだから治すべきだし、暴力や殺人をやめない者もまた、それが二度と不可能な状態にすべきだろう。加害者が充分な罰も受けず(人を殺しておいて“充分な罰”も何もないもんだが)娑婆でのうのうと生き続けて、反対に被害者やその家族がまわりの人間たちや社会に攻撃されて潰されていくような今の風潮は間違っている。
──思わずそう主張したくもなるのだけれど、でもこの『時計じかけ~』では、そうやってなんでもかんでも“権力”に委ねてしまうと、人々から自分の意思で選択する自由が奪われてまさに「中身は機械が詰まったオレンジ」のように人間性が失われていくことを危惧している。
その先に待っているのは、この映画でも実写フィルムが使われていたナチスの台頭のような悪夢の時代の再来だ。
これはたとえば「表現の自由」にだって言えることでしょう。どこまでが自由でどこからは制限されるべきか、それはじっくりと人々の間で話し合われなければならないはずで、国や公的機関などが恣意的に判断して国民に強制すべきではない。
そういう状態を放っておけば、やがては何が「病気」なのかも勝手に決めつけられてしまう。権力者や一部の人間たちに不都合なことは「反社会的」とされて、すべて排除される。それはきわめて危険なことだ。
「選択の自由」を権力者に譲り渡してはならない。
調子コイて暴れまわっていたアレックスが警察に捕まって暴力を振るわれるところは思わず「ざまぁw」と感じてしまうけれど、あのようなことを許せば、いずれは無実の者にまで同じことが行なわれる事態になる。警察は、ならず者を退治してくれる正義の味方ではない。
映画の終盤で、支持率が低下した内務大臣や政府が自殺未遂を起こしたアレックスさえも利用する様子からは、“権力”というものの節操のなさが風刺されている。
彼らは自分たちの権力の維持のためならば、犯罪者だって利用する。彼らにとってもっとも大事なのは、人の命ではなくて政権の護持でしかない。
僕がこの映画を初めて観た時に感じた「釈然としないもの」は、モラルなき世界をまるで持て囃すような挑発的な作風に反応してのものだったんだけど、もちろん作り手はあえてそういう手法をとっているんですよね。
アレックスが聖書の残酷で暴力的な箇所だけを楽しみながら読んでいるところなども、いかにも無神論者のキューブリックっぽいし、アレックスのメンタリティは今の若者のそれに置き換えても充分に成り立ちそう。
アレックスが一見するとごく普通の平凡な家庭の出であるのも、今風。
その犯罪も食うに困って、といった切羽詰ったものではない。
有名な「雨に唄えば (Singin' in the Rain)」(映画『雨に唄えば』の感想はこちら)シーンの極悪さ、男性器型オブジェを使った“猫おばさん”の殺害場面の60~70年代風のサイケデリックな演出のふざけたような表現など、それは風刺なのはわかるから、この映画を無邪気に喜んでる人たちだって単純に暴力の快感に溺れているのではないんだと思いたい。
まぁ、「ただの映画」なんですから、無邪気に喜んでいようがどうしようが人の自由ですが。
この『時計じかけのオレンジ』の雰囲気って、同じイギリスのギャグ集団「モンティ・パイソン」のスケッチ(コント)を思わせるんですよね。風刺が効いてたり、暴力をブラックなギャグとして描いているところなんかも。
時代的に近いからということもあるけど、アレックスが住んでいるアパートのまるで現代アートじみた内装などファッションやインテリアなんかもモンティ・パイソンの番組のそれと共通するイメージがある。
やたらと号令っぽくがなる看守長がパイソンズのジョン・クリーズに見えたり。口髭生やした顔もちょっと似てるし。あと、アレックスの仲間の一人で彼を裏切ってのちに警官になるディム(ウォーレン・クラーク)の絶妙に気色悪い顔つきなんかはテリー・ギリアムっぽかったり。
エルガーの「威風堂々」が使われているのもそうだし、それからアレックスが2人の女性たちと高速で“イン・アウト(性交)”する場面(マルコム・マクダウェルのアレが見えそうで見えなかったり)で流れるのが、モンティ・パイソンの影響を受けてビートたけしもタケちゃんマンや鬼瓦権三役で出ていた「オレたちひょうきん族」のオープニングで使われていた曲だったのが可笑しかったり(80年代世代なものですから)。
ちなみに、作家が妻の死後になぜか同居している眼鏡のマッチョなお兄さんを演じているのは、のちにダース・ベイダー(声の方じゃなくて本体)になるデヴィッド・プラウズ。
デヴィッド・プラウズ本人がベイダーの声も演じているスター・ウォーズの撮影時の映像と音声が残っているけど、つくづく映画というのはいろんな人たちの協力で作り上げていくのだということがよくわかりますね(YouTubeのコメント欄で、プラウズの声がパロディ映画『スペースボール』でリック・モラニスが演じた“ダーク・ヘルメット”呼ばわりされてるのがお気の毒^_^;)。
主演のマルコム・マクダウェルは、いかにも悪童っぽい顔つきで顔の作りもその表情もいちいち小憎たらしいんだけど、でもほんとは頭が良さそうなのがよくわかる、もうこの映画に出るために生まれてきたみたいな俳優ですね。
マクダウェルはこのあとアレックスを意識したような役ばかりオファーされてうんざりしたそうだけど、無理もないかと。だってやっぱりアレックスのキャラはとても印象に残るから。
この映画に影響を受けた作品も多いでしょう。
1968年公開のキューブリックの前作『2001年宇宙の旅』は宇宙が舞台だったけど、その次のこの『時計じかけ~』は、「その頃、地上では…」という話。
同じく近未来を舞台にしていながらも、『2001年』のようにミニチュアや合成を使った視覚効果ではなくて、美術や衣裳、そして若者のモラルが崩壊した世界観などで未来っぽさを出している。
当時は「未来的」だったデザインや音が今ではレトロで心地よく、日本版の予告篇など実に時代を感じさせてなかなか気持ち悪い(褒め言葉のつもり)。
80年代に作られた日本のインディーズ映画のいくつかは、明らかにこの映画を意識しているものがある。この映画が物凄い金のかかった特撮を使わなくてもSF映画は撮れるということを後進のクリエイターたちに知らしめたともいえる。
まぁ、この『時計じかけ~』はSF映画というよりも、やっぱり風刺的なアート映画ということなんだろうけど。
ちょうどこの映画と同じ日にホアキン・フェニックス主演の『ジョーカー』を観たんですが、ホアキンが演じていた主人公よりもこの『時計じかけ~』のアレックスの方がよっぽど“ジョーカー”っぽいのが可笑しかった。
張り形みたいな長い鼻のピエロの仮面をつけて、罪の意識もまったくないままふざけながら悪さをしまくってるし。
この作品は笑えるところもあるし、だからこそ時代を越えて愛されてもいるのだけれど、でも「ディストピア」を描いた映画としては、すでに現実の方がこれを追い越してしまっている感がある。
『時計じかけ~』では形だけでもかろうじて守られていたことも、現在では堂々と守られなくなってきているから。政府は公然と国民に圧力をかけてきて、もはやそれを隠すことさえしない。
自分の意思で「選ぶ自由」の重要性はますます増してきている。
今年はスタンリー・キューブリックが亡くなってちょうど20年目ですが、僕は恥ずかしながら彼の初期のモノクロ作品は観ていないし、彼の映画のファンというわけでもありません。
だけど、去年はスピルバーグの『レディ・プレイヤー1』(感想はこちら)の中で『シャイニング』がフィーチャーされてたし、今度ユアン・マクレガー主演でその『シャイニング』の続篇『ドクター・スリープ』が公開されるし、地味にちょっとだけキューブリックづいてますよね。*1
今回の『時計じかけのオレンジ』の上映がそれを意識してのものだったのか、それともたまたまだったのかわかりませんが、没後20周年でもあるし、また他のキューブリック作品が観てみたくなりました。
※デヴィッド・プラウズさんのご冥福をお祈りいたします。20.11.28
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*1:まもなく『IT イット』の映画化作品の続篇も公開されるから、キューブリックというよりも原作者のスティーヴン・キングづいてるのかもしれませんが。