
- 作者:こうの 史代
- 発売日: 2008/01/12
- メディア: コミック

- 作者:こうの 史代
- 発売日: 2008/07/11
- メディア: コミック

- 作者:こうの 史代
- 発売日: 2009/04/28
- メディア: コミック
広島の江波に住む浦野すずは、昭和19(1944)年に18歳で呉市の北條周作のもとへ嫁ぐ。すべてが初めて尽くしの生活に戸惑いつつも、好きな絵を描きながら真面目に働き、新しい家族やまわりの人々とも打ち解けていくすず。戦時中の市井の人々の日々の生活がやがて戦火に巻き込まれていく過程をユーモアを交えつつ描く。
ストーリーに関してのネタバレがあります。
現在、同名アニメーション映画が劇場公開中で僕も観ました。
僕はこの原作漫画を映画の公開よりもだいぶ前に購入したんですが、前評判も高いしてっきり本屋さんの店頭で平積みになってると思い込んでいたら見当たらず、店員さんに漫画のタイトルを伝えても通じなくて在庫を確認してもらってようやく入手。
なんか「あれ?」って拍子抜けしてしまった。
他に大ヒットしたアニメの原作本は目立つ場所に大量に置いてあるのに。
結局、原作は知る人ぞ知る作品だったようだし、アニメ化に際してもTV局や大手映画会社が絡んでいなくて小規模な制作・公開のために、そもそも一般的にはそんなに話題になっていなかったようで。
本屋でのあまりにそっけなさすぎる扱いにかなりガッカリしてしまったんですが、でも映画の方は本当に素晴らしかったので、観終わったあとに早速本棚に置いてあった原作を読みました。
もともと原作のファンだった人にとっては映画を観たら「すずさんが動いて喋ってる!」という感動があったでしょうが、僕は映画の方が先だったから、逆に映画の絵柄もストーリーもかなり原作に忠実だったこと、でも台詞などが微妙に変えられているのがわかって興味深かった。
アニメ版は、デザインだけでなく人物の動きや作品の雰囲気そのものが、まるで原作からそのまま抜け出てきたようでした。
そして原作漫画には、映画で感動した物語を再度、今度は映画ではカットされたエピソードなども含めてもっと詳しく味わう楽しさがありました。
原作のどこが映画では省略されたり変えられたのか、その違いを確認するのも一興。
映画を観たあとに原作を読む、というのはこれもアニメ化された「百日紅(さるすべり)」(本の感想はこちら)の時と同じパターンですが、個人的にはやはりこの順序で正解でしたねぇ。
僕は普段めったに漫画を読むことがなくて、こうの史代さんの作品を読むのもこれが初めてです。
だからそれで何か知ったようなことを書くのもおこがましいんですが、でもまずは率直にこうのさんの絵の魅力に惹かれました。
絵心もないくせに生意気ながら言わせてもらうと、あぁ、とても絵が達者な人なのだろうな、と。
等身が低めでデフォルメされたキャラクターたちはまるで達筆な文字を見るようで、巧いからこそ可能な省略というか、少ない線で登場人物たちの特徴を端的に捉えて情感まで描き出している。
もっとも映画の方の感想にも書きましたが、この作品に限らないけど漫画というのはどうしてもキャラクターデザインのヴァリエーションが限られるから似たような顔や外見のキャラが結構いて、特に『この世界の片隅に』には“すず”の実家側(浦野家)の家族や親戚、夫の周作側(北條家)の人々、また台詞にのみ登場して姿は見せない人物(晴美の兄の久夫)などもいるので、パラパラッと読んだだけでは人物関係がすぐに把握できなかったりもする。
漫画の場合は映画と違って途中で何度も前に戻って読み返せるからけっして読みづらい漫画ではないんだけれど、台詞でのやりとりは比較的多いので、誰がどうなってこうなって、というのがすぐに理解できないこともままあるし、また資料的な箇所では詳しく述べつつも物語の部分ではあえて説明せずに読者の解釈に委ねているところもある。
たとえば僕はずっとすずの幼馴染で水兵になった水原哲は戦死したものとばかり思っていたんですが(今生の別れみたいにしてすずに会いにきていたし、映画の終盤─原作の下巻の終わり近く─で終戦後にすずが港ですれ違う水原の姿は、僕はてっきりすずの見た“幻”なんだと思っていた)、物語の中で海外での戦死がハッキリ告げられるのはすずの兄の要一で、水原の消息については不明。
正直、あの着底した重巡洋艦「青葉」を見つめる水原の姿をどう捉えればいいのか、映画を観ても原作を読んでも水原の生死に確信が持てませんでした(実際に復員してきたのなら、すずが声もかけずに素通りするのはおかしいし、でも幻にしてはあまりにハッキリ見えているし)。
そのあと広島ですずが何度も見知らぬ人たちから別人と見間違われる場面があるので、あの水原の姿も誰か別の復員兵の姿を水原のように描いたのかもしれませんが。
「入湯上陸」で呉の北條家にやってきた水原に抱き寄せられて、すずが結婚した身でありながら「うちはずっとこういう日を待ちよった気がする」という、どう受け取ったらいいのかちょっと困惑する言葉を放ったり、爆弾で右手を失ったすずを見舞った妹のすみが重傷を負った姉に対して取り乱すこともなく美男子の想い人のことでノロケたり(怪我人を無造作にバシバシ叩くとこがいかにもマンガっぽくてヤだった)、登場人物たちの言動に「ん?」と疑問を抱く瞬間がいくつもある。
漫画だとまだ流して読めるんですが、それがアニメになると気になるんですよね。
すずの水原への想いというのは子どもの頃の描写からわからなくもないんだけど、小学校では彼女の髪を引っ張ったり(映画では描かれていない)いかにもな悪ガキだった水原にすずがそこまで惚れていたのが、ちょっと都合良すぎじゃないかなぁ、とも。
それをいったら、この漫画の水原も周作も、ヒロインであるすずにとっての「理想の男性」的なイケメン(顔だけでなくキャラそのものが、という意味で)に描かれすぎな気はする。
だから映画では直接的に描かれることがなかった周作と朝日遊郭のリンの関係は、ほんのちょっとだけ周作というキャラクターをリアルにしてはいたかもしれない。
学校を出ていないので文字が書けないリンのために、かつて“客”として訪れた周作が彼女の名前と住所をノートの裏表紙の切れ端に書いてやったことを知ったすずは、自分がリンの「代用品」だったのではないか、と落ち込む。
このくだりは映画ではカットされているけれど、海外版の予告篇には映画本篇にはなかったすずとリンが桜の木の上に登っている場面のショットがある。もしかしてあれはパイロットフィルムだったのかな。
もしそこが残されていれば、リンは映画でも原作同様にさらに存在感のあるキャラクターになっていたでしょう。
リンについては、物語の中でハッキリと種明かしされているわけではないけれど、少女の頃にすずが草津の家で出会った“座敷童子”は実はリンだったことがわかるようになっている。
その後、彼女は遊郭で働くことになり、原作漫画では描かれていなかったがアニメ版では「きっちゃてん(喫茶店)」で幼いリンが“ウエハー”の乗ったアイスクリームを食べている横で、モガ姿の若かりし日の径子*1が時計屋の若旦那と一緒にいるのが描かれていて、物語の登場人物たちのそれぞれの時間が繋がったようなその描写にもグッとくるものがあった。
アニメ版の片渕監督が、原作の物語をしっかり理解して咀嚼したうえで付け加えたんですね。
映画は好評のため、原作からカットされたリンの場面も新たに制作して全長版を作るかもしれないような話もあって、楽しみです。
…原作漫画の感想のはずが、映画の方の話ばかりしてますが。しばしば映画との比較が入るのはお許しください。
映画ではすずとリンは一度会ったきりだけど、原作ではすずはその後リンのところを再度訪ねているし(ここは映画ではクラウドファンディングの参加者の名前が流れる2つ目のエンドクレジットでちょっと描かれていた)、お花見の時にも偶然出会っている。
病院帰りにリンに会いにいった時に、すずは自分は妊娠していたのではなく環境の変化と栄養不足で月のめぐりが悪いだけ(枠外で“戦時下無月経症”と説明される)だったことを告げる。
そこですずは、世の男の人はみな戦地で命懸けだから、子どもを産むことは女の義務、とリンに言う。
すず「出来のええアトトリを残さんと。それがヨメのギムじゃろう」
リン「男の子が生まれるとは限らんが」
すず「男が生まれるまで産むんじゃろう」
リン「出来がええとも限らんが」
すず「予備に何人か産むんじゃろう」
映画ではあまり強調されていないが、この少々間の抜けた会話からもわかるように、すずは学校で教えられてきたことを素直に信じる典型的な軍国少女で、戦時下に求められる女性の役割というものにも一切疑問を持っていない。
当然「戦争」そのものにも。
ここで、そういうすずと、遊郭で働き結婚も難しいであろうリンの生き方が対比されている。
お国のために子どもを産むことにこだわるすずに対して、リンは「なんかきりがないねぇ…」と呆れてみせる。
リンはすずとは別の価値観を持った女性で、そのあたりも映画よりも原作の方がしっかりと描かれている。
すずに対する“リン”とは、周作がすずに語った「過ぎた事、選ばんかった道」、すなわち失われた他の生き方のことなのだろう。
リンの存在は、径子の娘の晴美と同様に失われてしまったからこそ、すずはことあるごとに彼女たちの人生について想いを馳せる。
すずは彼女たちの容れ物、器になるのだ。
あれほど男の子を産むことが大事だと言っていたすずは、やがて原爆によって母親をなくした見知らぬ少女を引き取ることになる。
その少女は亡くなった晴美を思わせる(アニメ版では少女は径子から晴美の服をもらって着る)。
死んでいった人たちが生きている人たちと繋がっている。
それはきっと、作者のこうのさんの願いでもあるのだろう。“あの人たち”を忘れたくない、と。
映画によってさらに膨らませられた部分もあれば、原作ならではの面白さもある。
すずの兄の要一は原作でも作品のかなり前半に出てくるのみで、すずが呉に嫁入りする前にすでに兵隊にとられて戦争に行っている。
だから、すずや妹のすみにとって彼が怖い存在だった、というのが読んでいてもそれほど伝わらないというか、すみが姉に「“鬼いちゃん”ももう戻ってこないから苛める人はいない」と言って広島に帰ってくることを勧めるのも、あまりピンとこないんですよね。
少年時代の水原もすずに「お兄ちゃんあげようか」と言われて、すずの兄がどれほどみんなに怖れられているか語る。でも要一がそこまで怖い存在には僕には見えなかったから、なんとなく妙な感じで。
すずが、自分はお兄ちゃんが死んでよかったと思っている、と自己嫌悪気味になるほどに要一は面倒な兄だったのだろうか、と。
すずにとって、“鬼いちゃん”とはどういう存在だったのか。
原作の単行本では、お兄ちゃんが南方に行って髭モジャになってそこのワニと結婚して…というすずの空想を「鬼イチャンノ冒険記」というギャグ風の漫画として載せていて、だから昔すずが出会ったあの毛むくじゃらのバケモンは鬼いちゃんだった、ってオチ(?)にもなっていて、可笑しくもやっぱりどこかたまらなく哀しい。
アニメ版でも、すみを見舞ったすずが“鬼いちゃん”のその後についてちょっとだけ話してましたが。
僕は作者のこうのさんの中にあるユーモアのセンスというか、「戦争」という極限状態でありながらもそこに必ず笑いの要素を入れてくることに「今」っぽさを感じるんですね。
それがツラい時代を舞台にした物語の救いになっているし、読者にこれが遠い昔の自分とは無関係なお話ではなくて今と地続きの世界であると思わせてもくれる。
そして、ただ単に笑えるだけじゃなくて、当然ながら戦争の酷さについても触れている。
戦争を題材にしながらこういうアプローチで“日常”を描くのって、そのさじ加減が結構難しいんじゃないだろうか。
戦争を茶化しているわけではない。反戦コメディではない。
ただひたすら“普通の人々”が「戦争」という異常な状況の中で、できうる限り穏やかに生きていこうとする姿を描いているだけだ。
それはそのまま現代を生きる僕たちに重ねられる。
一所懸命なその姿がどこかユーモラスだからこそ、よりいっそう悲しい、というのはある。
現在の僕たちは、昭和20年8月6日に広島に原子爆弾が落とされたことも、その9日後に日本が戦争に負けたことも知っている。
でもあの当時の人々はそんなことは知らなかったし、自分たちがずっと信じてきたものがすべて偽りだったことも知らなかった。
すずは、玉音放送を聴いたその日、これまで彼女が信じてきたものが、正しいと思っていたからこそ堪えてこられたことが、敗戦とともに消えていったのを感じた。
──この国から正義が飛び去ってゆく──
日本の敗戦とともにひるがえる朝鮮の太極旗。
そこにすずのモノローグが被さる。
「暴力で従えとったいう事か」
「じゃけえ暴力に屈するいう事かね」「それがこの国の正体かね」
映画ではこの場面は微妙に台詞が替えられている。
原作では明確にすずは自分が戦争に加担していたこと、自分が気づかなかったこと、目をつぶって見ないフリをしていたこと(物語で描かれていない日本人による侵略行為や朝鮮人差別など)を自覚するが、アニメ版では彼女のリアルな立場から見た婉曲な表現になっている。
だから原作の方がよりヒロインの心情が、作者のメッセージが、読者にダイレクトに伝わるようになっている。
それ以外でも、原作ではともすると観念的、説明的とも捉えられかねない台詞や詩的な表現*2がいくつもあって、映画では非常に繊細に、なるべく自然で平易な言い回しに変えて短くしている。そういう脚色も見事だったと思います。
両者を比較すると、アニメ版の原作に対する大いなる愛を感じます。
なんだか映画のヨイショ記事みたいな文章になってしまってますが、僕には原作と映画がお互いを支えあってより高みへ昇っているように思えるのです。
この原作がなければ当然映画は作られなかったし、映画によって原作がさらに補強されてもいる。
ほんとに理想的な原作と映画の関係ではないでしょうか。
その映画については、すずの幼馴染の水原が訪ねてきた時に、すずの夫の周作がまるで同衾を促すかのように彼らを二人きりにするという展開に「妻がまるで慰安婦扱い」と嫌悪感をもよおしている人がいたんだけど、もちろん現代でも、あの時代だってそんな行為は普通ではないわけで、だからこそあとですずは周作に「夫婦いうてこんなもんですか」と普段見せない表情で怒るのでしょう。
周作はすずの水原への遠慮のない態度から二人の親密さを察して、だからあれは見合いで彼のことをよく知りもせずに嫁入りしたすずにどこか引け目を感じていたからこその行動だし、登場人物たちの言動が常に正しいわけでもないので、「妻を慰安婦扱い」というのはちょっと言いすぎじゃないかなぁ、と思います。
すずは、結婚したからには夫婦は愛しあって妻は夫やその親族に尽くすのが当然、と考えるような古風な男女観、夫婦観の持ち主で(水原の件もそうだけど、惚れっぽい人なのかなぁ、とは思うが)、劇中ではそんなすずと径子が対比されている。
径子はすずと違って恋愛結婚したが夫に病気で先立たれ、夫の親族との折り合いが悪かったので自ら離縁する。
すずとは正反対ともいえる彼女の生き方もまたけっして否定されてはいない。
すずはたまたまああいう生き方を選んだだけなのだ。彼女の人生もまた、径子が言うような「つまらん人生」としては描かれていない。
リンさんの人生がけっしてつまらないものとして描かれてはいないように。
この漫画では、人の人生に上下をつけたり正しいかどうかという判断をしない。
もっとも先に書いたように、すずが水原を好きになる過程が僕にはちょっと釈然としなかったんですけどね。
乱暴者のクラスメイトに鉛筆をもらってキュン、みたいなのって、なんだかなぁ、とは思う。
ツンデレな相手に恋をする、今の流行りみたいな恋愛モノって僕は大嫌いなんで(あと、水原はすずの兄の要一とちょっとキャラがカブってますよね。水原との別れのシーンの直後に要一の遺骨の場面に続くし。あの処理は若干紛らわしくて、僕は最初に観た時はあれは水原の葬儀だと勘違いしていた)。
それに、世の中ではすずのように結婚した相手と相思相愛になれる人ばかりじゃないだろうし。
だから、この作品のすずが男に都合のいい女性として描かれている、と憤りをおぼえる人がいても、それはそれで理解できなくはない。
ただまぁ、この作品の中で別にすずは「理想の女性」として描かれているわけではないし、女性はみんなすずのように生きるべきだ、と言ってるのでもないので、ああいう時代のああいう生き方もあった、というお話だと思って読んでいればいいんじゃないでしょうか。
すずが状況に流されて常に受け身な生き方をしてきたことにはちゃんと意味があって、だからこそ終戦のあの日の彼女の慟哭に繋がるんだろうから。
もしもこの作品の主人公が径子のような自己主張の激しい性格のヒロインだったら、まったく違う物語になっていたでしょう。
鬼いちゃんが毛むくじゃらのバケモンに繋がったり、リンさんがすずの幼い頃に出会った座敷童子と繋がったり、この作品では実に用意周到に伏線が張られている。
すずの子ども時代のエピソードは雑誌には短篇として単発で掲載されていて、「この世界の片隅に」という題名で漫画の連載が始まったのは、すずに見合いの話が来るエピソードから。
子ども時代のエピソードは周作との出会いや水原の代わりに描いた「波のうさぎ」など、のちの展開にもかかわってくるとても重要な要素だから、この短篇の時点ですでに全体の構想があったのでしょう。
この漫画は手法としてもいろいろと斬新なことをやっていて(筆や左手で描いたり)面白いんですが、僕は普段漫画を読まなくて「漫画とはこういうもの」という先入観があまりないので、こうのさんが試みていることはわりとスルッと自然に受け入れられたというか、違和感はなかったです。
そして、彼女の描いた他の漫画も読みたくなりました。
映画を観て感動されたかたにはぜひ原作漫画を手にとっていただきたいし、原作が好きなかたにはぜひ映画も観てもらいたい。
僕も、これからも原作と映画を何度も味わい直したいと思っています。
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