映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

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すずさんの罪 『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』

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片渕須直監督、のん主演のアニメーション映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が現在公開中ですね。

2016年公開の『この世界の片隅に』で原作漫画からカットされていた場面を“復活”させて、30分以上長くなった新ヴァージョン。

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感想は↑に書いた通りですし、2016年に書いたもの↓もあります。 

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以降は、映画をすでに鑑賞されていることを前提に書いていきます。内容にも触れますのでご了承ください。

 

今回は、これまでの感想ではあえて書かなかった、それでも何度観ても拭えない疑問について。

前もってお断わりしておくと、僕は映画版『この世界の片隅に』をこれまで自分が映画館で観たどの映画よりも多く観ていて、大好きな作品です。強い思い入れもあるし、特別な作品なんです。

だから、この映画や原作漫画のことを批判したいわけではないし、主人公の“すずさん”を本気で責め立てたいのでも、この作品を愛するファンのかたがたに難癖をつけたいのでもありません。

この作品をもっとよく理解したいからこそ、考えたいのです。

2016年版の鑑賞時から心に引っかかっていたことの一つが、すずの義姉・径子の娘・晴美の死について。

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敵機の攻撃で重傷を負った義父・円太郎が入院している病院からの帰り、空襲警報が鳴ったために防空壕に避難したすずと晴美は、その直後に立ち寄った道端の大穴にあった不発弾の時限爆弾の爆発に巻き込まれる。

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すずは晴美と手を繋いでいた右手首を失い、晴美は命を落とす。

とても痛ましい場面で、いつ観ても胸が潰れるような思いがするんですが、戦争が終わってから隣組刈谷さんと海水を取りにいく場面で、刈谷さんは広島で被爆して避難してきた17歳の息子に気づかないまま見殺しにしてしまったことを告げたあと、すずに「あんたも目の前で晴美さんを…」と言う。映画では、すずはそれに「残念です」と答える。

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原作では、すずは「…はい」と一言答えたあとに、自分は晴美の死に泣く資格はない気がする、「晴美さんとは一緒に笑うた記憶しかない。じゃけえ、笑うたびに思い出します」と言う。

ここは映画版は大意は同じとはいえ、すずはかなりニュアンスの異なる台詞を言っているんですね。晴美さんはよく笑っていたから、晴美さんのことは笑うて思い出してあげよう思います、と。 

晴美の死の直前の描写も映画版の方がより詳細で、漫画版では防空壕から出て下関行きの汽車の切符を手に入れるために並んでいた径子と合流するために歩いている途中でいきなり不発弾の爆発に見舞われる。

一方、映画版では晴美が船を見たがったために、ふたりは海の見える道にわざわざ寄り道をしている。

その時、通りがかった消防団から時限爆弾に気をつけるよう注意されるもよく聞き取れず、また以前に隣保館での講習でやはり時限爆弾の危険について学んでいたのをすっかり忘れていて、すずは自分の右手と晴美を失うことになる。

すずの不注意によって晴美を死なせてしまったことが強調されている。

映画版のすずには「晴美を殺したのは自分」という強い自覚があるのが当然だと思う。

なのに「残念です」「笑うて思い出してあげよう思います」は、ないのではないか。

晴美が二度と笑えなくなったのは一体誰のせいなのか。

もちろん、晴美を直接「殺した」のはアメリカ軍の爆弾だが、すずが「ちいとだけ、ちいとだけ」とねだる晴美を説得して爆弾で大きく破壊された穴に不用意に近づかなければ、幼い義理の姪が死を免れた可能性はあった。

「泣く資格がない」(この台詞は映画版にはないが)どころか、すずは晴美を死に追いやったという大きな罪を背負ったのだ。

径子はのちに、すずに「晴美が死んだんをあんたのせいにして悪かった」と詫びるが、彼女の糾弾は間違ってはいない。「あんたがついておりながら」「人殺し」というのは事実なのだから。

「うちはボ~ッとしとるけえ」では済まないのだ。

敗戦を知った8月15日のすずのあの涙の中には、晴美への申し訳なさや悔しさも含まれていたのだろうから(径子が晴美の名を呼びながら泣き崩れる姿が映されるが、すずこそ一生涯懸けて「晴美さん、ごめんなさい」と詫び続けなければならないはずでしょう)。

だから、すずが晴美の死をまるで他人事のように「残念です」の一言で済ませてしまうことに僕は納得がいかなかった。そこは黙ったままか、原作通り「…はい」でよいだろう、と。

そりゃ、自分が同じ立場だったらちゃんと責任持って晴美を守れた自信なんかないですが。

だけど、自分のせいでひとつの命が失われたことをすずがどう考えているのか、僕にはよく理解できないのだ。彼女の言動(独白も含めて)は、すごくズレているところがある。

映画版では、ところどころですずの「無神経さ」とそのことへの無自覚ぶりが原作よりも際立っている。 

原作でも映画でも、すずは自分が亡くなった人たちの──原作では「器」、映画では「容れ物」──になるのだ、と言っている。それはリンさんの茶碗だったりテルさんの紅入れだったり、劇中に登場したいくつものモノたちと呼応してもいるのだが、すずが“容れたもの”は笑顔や楽しかった思い出だけではないだろう。晴美の死を「笑顔」で誤魔化してはならない。

この映画はしばしば「反戦映画ではない」と評されたりするし、“たまたま”戦争の時代を生きることになった主人公を描いただけ、と受けとめる人もいるかもしれない。

今回、終戦の一ヵ月後に広島や呉を襲った枕崎台風の場面が追加されている。戦争だけが大変なのではない、人々の生活はこれからも続くのだ、と言いたいのだろうし、確かにその通りではあるのだが、だからといって「戦争」は台風などの天災と同じではない。晴美の命を奪ったものは「避けられた」のだ。*1

そしてこの場面では、「もうひと月も前に終わったのに」「大いばりで」「ほんまに迷惑な神風じゃ!」という北條家の人々のやりとりで「戦争」が大いに皮肉られている。

「神風」などないのだ。そんなものをあてにして他所の国と殺し合いをして大勢の人命を犠牲にしたことの愚かさ、そこをこそ僕たちは忘れずにいるべきだろう。 

国のために男の子を産まねば、とリンさんに力説していたすずは、本当の命の尊さに気づいていなかった。自分の「居場所」を確保するために“子ども”を利用していただけだ。

戦争が、戦争を黙って受け入れた者たちが、大勢の“晴美さん”を殺した。すずもまたその一人だ。彼女は終戦の日に、自分の身体は他所の国から奪った米や大豆のようなものでできているのだ、と思い至って泣くが、彼女たちが奪ったのは外国の食料だけではない。

すずへの僕の批判はあの当時の「普通の人々」への批判であり、それは今を生きる僕にも跳ね返ってくるものだ。

すずさんは、あの時代を生きた人々、そして読者や観客一人ひとり、市井の人々を象徴する主人公でもある。その“人”としての至らなさや不完全さも含めて。水兵になった幼馴染の水原が彼女のことを「普通」だと何度も繰り返すのも、すずが「普通の私たち」のことでもあるからだろう。「容れ物」になる、と言っているのはそういうことだ。

“すず”という架空の登場人物が、まるで生きているようにあの時代の日常や喜び、悲しみ、苦しみを僕たちに伝えてくれる。この作品に触れた僕たちも、これからは大切なことを伝える「容れ物」になれるだろう。

この世界の片隅に」という作品は、僕たちにいろんなことを考えさせてくれる。

これからも僕は繰り返しこの映画を観て、原作を読み返すでしょう。そのたびに気づかされたり教えられることがあるのだろうと思います。 


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*1:自然災害の犠牲者や被害者はしょうがない、と言っているわけではないので、そのあたりは誤解なきよう。だが、災害の発生そのものを防ぐことはできないが、戦争は防げるのだ。そこを混同してはならない。