映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

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『丹下左膳余話 百万両の壺』『河内山宗俊』デジタル復元版


日活110周年記念特集上映「Nikkatsu World Selection」で、山中貞雄監督 (1909-1938) の『丹下左膳余話 百万両の壺』と『河内山宗俊』を鑑賞。

山中貞雄といえば、若くして亡くなった悲劇の天才映画監督として古い日本映画にまったく詳しくない僕なんかでも知っていたぐらい有名ですが、90年代に友人がCSで放送された同監督の現存する作品3本をヴィデオテープに録画してくれました。


ただ、その後、諸事情から持ち物を大量に処分せねばならなくなったため、残念ながら結局観ないままそのヴィデオテープも手放すことになったのでした。

今回、映画会社の日活の何本かの作品がデジタルで復元されて劇場で上映されていて、その中に山中貞雄監督の映画が2本含まれていたので観にいってきました。

丹下左膳余話 百万両の壺 デジタル復元・最長版 (1935年作品)

大河内傳次郎、喜代三、宗春太郎、花井蘭子、山本礼三郎、深水藤子、高勢実乗、鳥羽陽之助、清川荘司沢村国太郎ほか出演。

原作は林不忘の時代小説。

矢場に居候しながら用心棒を務める丹下左膳大河内傳次郎)と女将のお藤(喜代三)は、店の客で刺殺された男の息子・安吉(宗春太郎)を引き取ることに。安吉はとある壷を金魚鉢として大事に持ち歩いていたが、実はこの壷には百万両の隠し場所が塗り込められていた。(映画.comのあらすじを一部変更)


丹下左膳余話 百万両の壺』は2004年に豊川悦司主演でリメイクされてますが僕は観ていなくて、そもそも丹下左膳の映画自体をちゃんと観たことがなかったんですが、大河内傳次郎の左膳は有名だからそのヴィジュアルは知っていたし、パロディにされることも多いのもいつの頃からか知ってはいた。

『百万両の壺』を全篇通して観たことはなかったと思うんだけど、左膳が安吉(よく“ちょび安”と表記されてるし、映画の冒頭の字幕でも“ちょい安”と書かれていたけれど、劇中では左膳は安吉のことを「安坊」と呼んでいる)に「目をつぶっていな」と言って安吉の父親を殺した相手を斬る場面には見覚えがあった。

この『丹下左膳余話 百万両の壺(丹下左膳餘話 百萬両の壺)』は本来シリアスで虚無的な剣士である丹下左膳をユーモラスに描いた番外編という扱いなのだそうで、映画もコメディ仕立てになっています。

映像と音声が修復されて、おそらくは従来のヴァージョンよりもかなり見やすく聴き取りやすくなっているのだろうから(また、戦後にカットされたチャンバラシーンが可能な限り復元されている)、現時点で最良の状態で劇場で観られたことはとても嬉しかった。

戦前の映画だから出演者は知らない俳優ばかりだけれど、喜代三演じるお藤が女将をやっている矢場で働く女性・お久を演じている深水藤子さんって、1986年公開の林海像監督の『夢みるように眠りたい』で伝説の女優として登場した老女優を演じてらっしゃったんですね(その次の『二十世紀少年読本』にも出演)。

大昔だと思ってた時代が、そうやってどこかで自分が生きている時代と繋がる。

若い頃の深水藤子さんって河合優実さんに似てるなぁ、なんて思いながら観てましたが。

で、映画の方ですが…いやぁ、面白かった。

かつてこの映画を録画してくれた友人も「とても面白かった」と言ってたもんなぁ。

丹下左膳はお藤の店で用心棒として居候しているんだけど、彼女の尻に敷かれていてしょっちゅう口喧嘩している。

安吉が父親を殺されて行く場所がなくなると、お藤は「子どもは嫌い」とか言いながらも結局は置いてやることになる。このあたりの繰り返しのギャグが微笑ましいんだけど、一方で左膳はいざという時には刀で人も殺すし、恨みを買って自分も命を狙われる危険のある存在で、映画ではその恐ろしさをちょっとだけ見せるんですね。


山中監督の時代劇は「人情喜劇」「髷をつけた現代劇」と呼ばれたそうだけど、でも『丹下左膳』や『河内山宗俊』の主人公は根は優しくて情に厚い人物ではあるが、カタギではない。

完全な善玉でもなければ悪玉でもない、時にかっこよくもあれば人間として欠点も垣間見える、リアルな人物造形になっている。演じる大河内傳次郎河原崎長十郎の存在感、台詞廻し等で観る者にそのあたりの魅力がしっかりと伝わる。

今観てもこの2本の映画が面白いのは、ただの勧善懲悪なわかりやすいTV時代劇みたいな内容ではなくて、人間同士の行き違いや狡さ、そして純粋さなど、微妙な感情の綾(あや)が描かれているから。

恐ろしい形相の片目片腕の用心棒が子どものために右往左往して、どこか可愛く見えてくる可笑しさ。

お藤役の喜代三(新橋喜代三)さんは劇中で歌を唄ってみせるけど、イイ声だなぁ、と思ってたら、やっぱり元芸者さんだったんだな。女性のお笑い芸人がモノマネでやりそうな鼻にかかったような「昔の日本映画の女優の声」なんだけど、それはもともと歌手だからで、その声に当時の歌など知らない僕も聴き惚れてしまう。

この喜代三さんの演技がお見事で、彼女がツッコミ役となっての左膳役の大河内傳次郎とのまるで漫才のような言葉の応酬が愉快だし、全然貫禄負けしていないばかりか、優しさと世慣れた感じとがないまぜとなった女丈夫ぶりが素敵。美人だし。

安吉役の宗春太郎は続く『河内山宗俊』でもちょっとだけ出ていたし、1943年の阪東妻三郎主演版『無法松の一生』では阪妻演じる松五郎が息子のように可愛がる敏雄の学友の一人を演じていたんですね。1961年に亡くなっているんだなぁ。

ei-gataro.hatenablog.jp


百万両の壺をそうとは知らずに屑屋に二束三文で売ってしまい、慌てて江戸中を探し回るうちに矢場のお久ちゃんに夢中になってしまう、この映画最大のコメディリリーフでもある柳生源三郎役の沢村国太郎長門裕之津川雅彦の父親で、『七人の侍』(感想はこちら)や『用心棒』(感想はこちら)等の加東大介の兄でもある。長門裕之さんは先ほどの『無法松の一生』で幼少期の敏雄を演じていた。

また加東大介は、『河内山宗俊』に「市川莚司」名義で出演している。

狭い世界だなぁ^_^;

まぁ、大河内傳次郎阪東妻三郎もサイレント期の時代劇スターだったわけで、いろいろとあの当時の人脈が繋がってるんだろうけど。

屑屋役の高勢実乗*1と鳥羽陽之助の「極楽コンビ」(この二人は『河内山宗俊』にも刀の小柄(こづか)を巡ってやりとりするユーモラスな侍役で出ている)が戦前に流行らせたという「あーのね、おっさん。わしゃかなわんよ」というギャグは、確か長谷川町子の漫画で登場人物が真似してるのを読んだなぁ。


今からもう90年近くも前の映画をこうやって映画館の大きなスクリーンで大勢の人たちと一緒に楽しんでいる不思議。映画は本当に時を超えるんだと実感する。

戦前の多くの日本映画がすでに失われている中で、奇跡的に残ったこの作品を見られることの喜び。

戦争さえなかったら、山中貞雄監督はもっと長生きしてたくさんの傑作を残してくれただろうに、本当に残念ですね。

残されたたった3本の映画(今回、1937年の『人情紙風船』は上映されていませんが)を観ながら、失われた才能を惜しみ、それを奪った戦争を憎む。

河内山宗俊 デジタル復元 (1936年作品)

河原崎長十郎中村翫右衛門原節子市川扇升、山岸しづ江、市川莚司加東大介)、坂東調右衛門ほか出演。

原作は河竹黙阿弥の「天衣紛上野初花」。

居酒屋に居候する河内山宗俊河原崎長十郎)と、やくざの森田屋の用心棒・金子市之丞(中村翫右衛門)。その日暮らしの生活を送る彼らにとって、甘酒屋の娘・お浪(おなみ:原節子)は心の慰めだった。ある日、お浪が不良の弟・広太郎(ひろたろう:市川扇升)の借金のために身売りすることを知った宗俊と市之丞は、彼女を救うべく手を組むが──。(映画.comのあらすじに一部加筆)


この映画は35ミリの原版の劣化が激しかったため16ミリフィルム版をもとに復元したそうで、そのため『百万両の壺』よりも画質は粗く、また特に音声が聴き取りにくいところもある。これは『百万両の壺』もそうだったけど音声が音源ごとに分けられていないので、たとえば登場人物の台詞と音楽が重なっている場面などでの音声の復元やバランスの調整がとても難しかったようで。

それでも音声はかなりクリアで、従来の昔の映画がそうだったようにバックに「サーッ」という雑音はほとんど入ってないし「ブツッブツッ」という音声が途切れるノイズもなかったので、復元作業にたずさわられたかたがたのご尽力には本当に感謝。

www.nikkatsu.com


この映画をご覧になった皆さん仰ってますが、15歳の原節子が実に可憐で。


高めの声で可愛らしく、弟の広太郎の身勝手な行動にもずっと耐えているんだけど、弟のせいで借金を抱えることになり身売りさせられることになって、ついにその弟をひっぱたいたあとの上目遣いの顔の静かな迫力。

『百万両の壺』がコメディタッチだったのに対して、こちらはもうちょっとシリアスな作品ではあるんだけれど、先ほどの極楽コンビの二人も出演しているようにユーモラスな場面もあるし、最初は甘酒屋の女の子の弟を巡るたわいないお話かと思っていると、だんだんのっぴきならない展開になっていく、というもので、僕はこの映画の原作である歌舞伎の演目も知らないので、映画の終盤でなんで急に主人公の宗俊がヅラ丸出しのスキンヘッドになって武家の屋敷に乗り込んでいったのかわからず、若干困惑。


原作の設定を知らないから、そもそも宗俊が何者なのかもよくわかんなくて。

最初は賭場を仕切ってる人なのかと思ったけどどうもそうじゃないようだし、飲み屋のおかみと結婚しているみたいだけどカタギではなさそうだし、なんの仕事をしてる人なんだか皆目わからない。

だから、彼が偉い坊さんとして武家屋敷に出向いていった時には、実は高貴な生まれ(水戸黄門とか暴れん坊将軍的な)だったのだろうか、とか思ってしまったのだった。

結局、宗俊の行動は、広太郎によって盗まれ売られてしまい、巡り巡って再び持ち主のもとに戻った刀の小柄のことで金をせしめるためだったようなんだけど、そのあたりはもう何をやってるんだか観ててもよくわかんなくて、これまでは狭い世界でのお話だったのが主人公が突然僧侶に化けて芝居を打つという飛躍に戸惑いを覚えた。

1本の映画の途中でジャンルがどんどん変わっていく感じ。物語が急展開して、やがて悲劇的な最後を迎える。

広太郎は小柄の件だけでなく、幼馴染で今は郭で遊女として働く三千歳(衣笠淳子)と心中を図って彼女だけが死に、一人だけ家に戻ってきて結果的に自分の姉を身売りさせることになる。

ひっぱたかれるぐらいじゃ済まない面倒を次々と起こしているわけで、なんでこんな奴のために宗俊や市之丞が命を投げ出さなきゃならないのか納得がいかない。

ただ、最初に宗俊が広太郎のことを見誤ったことがすべての原因でもあって、ろくでもない奴だった広太郎を「直(なお)さん」などと呼んで気に入ったり、彼が名前を偽っていることにも気づかず、そのせいで話がこじれた挙げ句に自らの命もなげうつことになる、というのは、よくよく考えてみれば実に間抜けだ。

でも映画を観ている間はそう思わずに済んでいるのは、主演の河原崎長十郎と市之丞役の中村翫右衛門の演技に思わず見入っちゃうからなんですね。


宗俊役の河原崎長十郎*2のちょっと白竜を思わせる薄めの顔立ちは一見すると表情の変化に乏しいんだけど、その彼の口から出てくる流れるような江戸弁が耳に心地よい。

中村翫右衛門もそうだけど、台詞廻しやその身体の動きにわざとらしさがないんですよね。

歌舞伎俳優って、僕は映画やTVドラマで大仰な“顔相撲”をするアノ人だとかアノ人(どちらも最近いろいろと問題になったかたがたですが)なんかを連想するんだけど、この映画の河原崎長十郎中村翫右衛門もとても映画的でイイ芝居をする。

本当に巧い歌舞伎俳優は映画での演技も巧いんだな、って思った。

この二人は『人情紙風船』にも出ているので、いつかそちらもあらためて劇場で観たい。

宗俊と市之丞は清純なお浪に今で言うところの「尊さ」を感じていて、彼女のために一肌脱ぐ。広太郎もお浪の弟だからこそ、彼らは助ける。

この映画を観ていて、普段は冗談を言ったり優しいところもあるような人間たちが、急に怖くなる瞬間を見事に描き出しているなぁ、と思いました。

甘酒屋の少女が、弟のせいで借金を背負わされて売られていく世界。

それが当たり前のように、そういうものだというふうに語られ、描かれる。

だいたい心中で死んでしまった三千歳だって、どんな理由で借金を負うことになったのかもわからない。

現代だって、ホストが客の女の子を風俗店に斡旋したり、自分の責任ではない借金を背負わされた女性が売春を強要されたりしている。ここで描かれている非情な社会と実はそんなに変わらないのかもしれない。

人情モノ、みたいな感覚で観ていた映画が、急に裏社会の恐ろしさを見せつけてきたような、なんとも言えない不快感があった。

汚い世の中をよく知っているからこそ、そして自分たちだってけっして清廉潔白でも聖人君子などでもないことを自覚しているからこそ、宗俊と市之丞はお浪のような存在を大切にしたいと思ったんだろう。たとえ命を捨ててでも。

売られていった少女が果たしてその後助かったのかどうかもわからないまま、主人公とその仲間が死んでしまっておしまい、というなかなかにして斬新な作劇でしたが、二人の歌舞伎俳優の演技を堪能できたことと、若かりし日の原節子さんの初々しさに触れられたことが何よりの収穫でした。


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*1:80年代にNHKで放送された1940年公開の『エノケン孫悟空』を観たけど、あれにも出ていたんですね。

*2:彼の長男の河原崎長一郎さんは、僕は80年代に放送されていた青島幸男主演のTVドラマ「意地悪ばあさん」でおなじみでした。