橋本幸治監督、田中健、沢口靖子、宅麻伸、夏木陽介、小林桂樹出演の『ゴジラ』。
1984年作品。
漁船・第五八幡丸に乗っていた奥村(宅麻伸)は、大黒島近海で地殻変動によりよみがえった怪獣ゴジラに遭遇する。船員たちは巨大化したフナムシにおそわれ、奥村ひとりがヨットで通りがかった新聞記者の牧(田中健)に助け出される。ゴジラ出現を知った首相の三田村(小林桂樹)はパニックをさけるためその事実をふせていたが、ソ連の原潜がゴジラに沈められたため、米ソ両大使と対談する。アメリカとソ連はゴジラ迎撃のため、日本国内での核兵器の使用の許可をもとめる。一方、奥村の恩師・林田教授(夏木陽介)は、奥村の妹・尚子(沢口靖子)とともに生物学的見地からゴジラ対策を進めていた。
以下、ネタバレあり。
ゴジラ生誕30周年記念作品。劇場公開時に観ました。
それまでにもTVで過去の作品は観たことがあったけれど(春休みとか夏休みなんかによくやっていた)、僕がリアルタイムではじめて映画館で観たゴジラ映画。
映画館で蛍光で光る缶バッジもらいました。
監督の橋本幸治(2005年死去)は、珍品として名高い『さよならジュピター』を撮った人。
『ジュピター』は僕もたまに茶化したりなんかしますが(三浦友和の無重力セックスとか)、でもこれもけっして嫌いな作品じゃないんだよな。
和製『2001年宇宙の旅』をやろうとして壮絶に失敗した映画として、文句つけようと思えばいくらでもつけられるけど。
『さよならジュピター』(1984) 原作:小松左京 出演:小野みゆき マーク・パンサー 岡田眞澄 平田昭彦 森繁久彌
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さて、そんな『さよならジュピター』とおなじ年に公開されたこの『ゴジラ』。
1954年(昭和29年)公開の第1作目の直接的な続篇(それまでの作品はなかったことになってる)で、正統派ゴジラ映画として高く評価されている…と長らく思い込んでたんだけど、その後じつはちまたではけっこうボロカスいわれてることを知ってショックをうけたのだった。
75年の『メカゴジラの逆襲』以来9年ぶりの新作、ということで期待に胸ふくらませていた当時のファンたちのなかにはかなりの失望をおぼえた人々もいるようで。
僕自身は当時も今も1作目に次ぐ出来の作品だと信じてうたがいませんが。
本多猪四郎監督による第1作目は、ちょうどスピルバーグの『ジョーズ』のようなモンスターパニック映画であると同時に、一種の反戦映画ともいえる。
終戦からわずか9年後に作られた54年版『ゴジラ』(感想はこちら)は、おなじ年におこったビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって第五福竜丸の船員が被曝した事件がアイディアのきっかけとなっている。
いまさらながら、この「原水爆の恐怖」を着ぐるみ(ぬいぐるみ)製の怪獣映画で表現しようとした発想がスゴい。
現在では考えられないことだが(たとえばいま日本で「原発事故の放射線で巨大化した怪物の映画」をやろうとしたら、企画の段階でボツになるはず)、良くも悪くもおおらかな時代だったということか。
しかし、深刻な事件を見世物にしてみせたいわば「ゲテモノ」であるこの映画は、いまと違って「不謹慎」などととがめられることもなく大ヒットする。
観客の方もまた、作り手たちに負けないぐらいたくましかったということだ。
この映画はまだそこらに戦災の跡があり、空襲の生々しい記憶が残っていた当時の人々に、ふたたび戦争の恐怖を呼び起こさせるリアリティをもっていたのだろう。
子どもにむけられた放射線測定用のガイガーカウンターがガリガリいう描写にはゾッとする。
逃げ場をうしなった母親が幼い子どもに「お父ちゃまのところに行くのよ」という場面など、当時の観客はどんな気持ちで観ていたのだろうか。
一方で、大戸島でゴジラの通過によって村の少年の家が倒壊する様子は、まるで天災のように描かれる。
ゴジラはまさに荒ぶる神のごとき存在である。
そして、そのようなゴジラを描いた映画は、この第1作目以外では84年版だけなのだ(例外的に『ゴジラ対ヘドラ』にゴジラの被害による残酷描写があったし、「怖いゴジラ」は2001年の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』にも登場するが)。
これほど硬派なゴジラ映画はほかにない。
2作目『ゴジラの逆襲』以降、ほかの登場怪獣たちとの対決物になっていく作品たち(これはこれで僕は好きですが)とも、89年の『ゴジラvsビオランテ』以降の「平成ゴジラ」とも2000年以降の作品群とも違う、1作目の精神を正しく受け継いだいまのところ唯一の作品となっている。
ちなみに英題は“The Return of Godzilla”。
復活したゴジラにふさわしいタイトル。
そりゃ『ジュピター』と同様、ツッコミどころはいっぱいありますよ。
なんだよ“スーパーX”ってとか(せめて“轟天”みたいなそれらしい名前にしてくれればよかったのに)、ヒロインの沢口靖子の演技が大○とか、エンディングの歌がなんかヘンとか…。
撮影と宣伝効果を兼ねて作られた“サイボットゴジラ(5メートルのロボット)”も、着ぐるみと顔が違いすぎて小学生だった僕にすら違和感があった。
その後、成長していろいろと特撮のことを知っていくうちに「あんなもの作る金があるなら、もっと特撮に予算かければよかったのに」と思ったりした。
全身像が作られたサイボットは映画では上半身しか映ってなかったし。
また撮影当時の特撮技術の限界で、ミニチュアがどうしてもオモチャっぽく見えてしまうところもある。
「平成ガメラ」シリーズのようにキャメラをあおって人間の目線で撮る方法がもちいられずに“神の視点”、ようするに上から見下ろすように撮影しているショットが多い。
なのでホンモノっぽく見えないのだ。
でもそれらもふくめて僕には愛すべき作品なんですけどね。
あの充血した異常に目つきが悪い面構えの着ぐるみもいろいろいわれてるようだけど、子どもたちの味方だった「昭和ゴジラ」とも、熊や猛禽類をモデルにしたという「平成ゴジラ」とも違う造形で、昭和ゴジラでは次第に消えていった“耳”を復活させたり、足の指の数や背びれの形を初代ゴジラにあらためて似せたのも、この84ゴジラ。
いかにも獰猛そうでなかなかよかったんじゃないか、と。
めったに同意してくれる人がいないんで寂しいんですが。
ゴジラの着ぐるみのスーツアクターは薩摩剣八郎。これまでにもヘドラやガイガンを演じていたが、以降「平成ゴジラ」を演じ続けた。
さて、この映画はとにかく出演者がシブいんである。
過去のゴジラ映画ゆかりの俳優たちも何名か出演しているが、主演の田中健をはじめ、小林桂樹、夏木陽介(この人も過去にゴジラ映画に出てるが)、そのほかにも現在すでに亡くなられている人も多い日本映画界の重鎮たちが顔を見せていて、いわゆる「ゴジラ映画」「怪獣映画」というジャンルにおさまっていない。
その重厚な雰囲気は、東宝の「8.15シリーズ」に近い。
宅麻伸は演技はぎこちないけどフレッシュだし、沢口靖子もその生真面目さが映画のトーンに合っている。
また、ちょっとだけ出てる人たちもキャスティングがなかなかユニークで、ムッシュかまやつがゴジラに持ち上げられた新幹線のなかでなぜかニヤッと笑う不気味な神父を演じている。 *1
佐藤慶が新聞社の編集長を、エモやんこと江本孟紀が田中健の上司のデスク役(男前だなぁ、ウホッ)を、怪獣マニアでのちに『深海獣レイゴー』などを撮った林家しん平が田中健の同僚のカメラマンを演じている。
監督は平田昭彦(『ゴジラ』1作目の芹沢博士)や田崎潤(『海底軍艦』の神宮寺大佐)の出演も希望していたが、かなわなかったそうで。
なんかオッサンばっかで潤いがないけど。
そして的確な演出と編集。
これは今回ひさしぶりに観てみてあらためて感じた。
地味ではあるがじつにオーソドックスに手堅くまとめられていて(さっきあげたようにおかしなところもあるけれど)、あっというまの103分でした。
この映画が84年当時ウケなかったのだとしたら、軽さと速さが「カッコイイ」とされたあの時代に、この映画の作りは鈍重に感じられたからかもしれない。
それでもおなじ年に公開された『ゴーストバスターズ』『グレムリン』とあわせて「3G映画」などと呼ばれたりもして、話題作だったことをおぼえています。
たしかに完全な娯楽作品だった『ゴーストバスターズ』や『グレムリン』にくらべて、この『ゴジラ』は「核」をあつかっているだけにどこか重く暗い。
でも今回観て、僕はいままでになくなにか切実なものをこの映画から感じたのです。
劇中でゴジラは静岡の井浜原発を襲う(石坂浩二が施設の警備員役で出演)。
井浜原発は架空の原子力発電所だが、おなじく静岡の浜岡原発がモデル。
その展開だけで時事的にドキッとする。
どう考えたってそれを至近距離で見ている主人公たちは被曝しているし、ゴジラはその後東京に上陸するので一帯は放射線で汚染されている(おまけに成層圏で核ミサイルが爆発してるし)。
この映画ではそのあたりの恐ろしさがいっさい描かれていないのが残念だが、いまだからこそこれがどれほど深刻な事態なのか、この映画が作られた当時の人々よりもよほど強く僕たちは実感せずにはいられない。
1980年代というのは不思議な時代で、米ソの軍拡競争によって危機的状況にあったにもかかわらず(84年の“世界終末時計”の針は午前0時まで3分前で、これは米ソの水爆実験が成功した1953年の2分前に次ぐ。ちなみに2012年は5分前)どこかスコーンと抜けたような能天気さもあって、原爆漫画「はだしのゲン」のアニメ化作品や『198X年』という第三次世界大戦を描いたアニメ、さいとう・たかをの「サバイバル」のように巨大地震がおこったあとの世界をシリアスに描いた漫画などがある一方で、「北斗の拳」では「199X年、世界は核の炎につつまれた。Youはshock!」などと「核」は軽~くあつかわれてもいた。
そういえば、『ゴジラ』が公開された84年には宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』(感想はこちら)で核兵器のメタファーでもある“巨神兵”が登場、またおなじくアニメで大林宣彦監督の映画『少年ケニヤ』では劇中で原子爆弾が炸裂していた。
あの時代、日本映画や子ども向け番組のなかで「核」はいとも簡単に使用されていた。
まぁ、それ以前のフィクションのなかでの「核」の描かれ方、扱われ方はさらにいいかげんだったわけだが。
当時の人々の意識がどのようなものだったのか、一度じっくり検証してみたいものだ。
核や放射能の恐怖について僕が意識させられたのは86年のチェルノブイリ原子力発電所事故からだが、それでもほんとうに我が身にふりかかることとして考えるようになったのは昨年の東日本大震災のときの福島の原発事故から。
ほとんどの人がそうだったんではないか。
ようするに、僕もふくめてそれまでみんなおどろくほど無知だったのだ。
だから「核」や「原子力」の問題を娯楽作品のなかで軽薄に描くことにもなんの抵抗もなかったというわけ。
90年代以降、東西冷戦の終結とともに「核の恐怖」もどこかフィクショナルなものにさえ感じられるようになっていた僕たちに、冷や水を浴びせかけるようにおこったあの大震災と原発事故。
ゴジラにもともとこめられていた「自然災害」と「核」の怖ろしさ、という2つの要素が現実にいっぺんに押し寄せた瞬間だった。
世のなかが乱れているときにゴジラはあらわれる、と。
ならば、まさにいまこそゴジラは復活してこの国を蹂躙しているのではないか。
「いまどきゴジラ?」と半笑いで馬鹿にしてる人にこそ、この映画を観てもらいたい。
なにやらむずかしい話のようだけど、単純に映画として面白いんですよ。
たとえば現在、あのような大掛かりなミニチュアセットをいくつも撮影所のステージに作って特撮映画を撮ることはきわめてむずかしくなっている。
現在ゴジラをはじめ怪獣映画が作られないのは、需要がない、ということもあるが、手間も金もかかる昔ながらの「特撮」のノウハウが消えつつあるから。
CGの映像に馴れた子どもたちや若い人たちは、昔ながらのミニチュア特撮の良さがわからない。
どんなに手間隙かけたスゴいことをやっていても「チャチい」「ショボい」の一言で終わってしまう。
それと、けっきょく作り手も「安くて済むならそっちをえらぶ」ということ。
いま、CG以前の特撮映画を観ると、ミニチュアがじっさいに火薬で爆破されたり着ぐるみの怪獣に破壊される様子がじつに楽しい。
そこにはCGでは出せない実物感がある。
80年代まではミニチュア特撮というのは基本的にステージのなかで撮るもので、屋外での撮影というのはほとんどなかった。
しかし、ステージのホリゾントの前で照明に照らされて撮影されたミニチュアはやはりどうしても本物には見えず、じつはけっこう大きなスケールで作られているミニチュアも映画のフィルムのなかではやけに小さく見えてしまっていた。
だからこそ、その後「平成ガメラ」シリーズで特技監督の樋口真嗣(84年版ゴジラにも若手でかかわっていた)が見せた、ホンモノの太陽の光と青空のもとで撮ったミニチュアのリアリティに怪獣映画ファンは瞠目したのだ。
とまれ、デジタル以前の伝統的ミニチュア特撮映画としても、本作は非常にストイックに作られている。
派手さがないから「退屈」と感じる人もいるだろう。
そりゃ今回のゴジラはシェーもしないし空も飛ばないし。
それでも僕は、この映画を断固として支持したい。
ところで、この映画にはおなじみ伊福部昭の「ゴジラのテーマ」や「自衛隊マーチ」は使われていない。
それを不満に感じる人もいるみたいだが、これまた僕はだからこそ素晴らしいと思っている。
小六禮次郎によるこの映画の音楽はつねに作品に寄り添っていて、じつに良い。
全体的にちょっと古臭さを感じなくもないが、それでも「自衛隊テーマ」や「スーパーXのテーマ」にはみなぎってくる。
短いのが残念。もっと長く聴いていたい。
首都防衛移動要塞につけられた“スーパーX”というビールか接着剤みたいな間が抜けた名称は残念だったけど、そのおかげで金子信雄の「スーパーXぅ?」っていう、これまたマヌケな台詞が聞けたんだから良しとしよう。
スーパーXの造形が炊飯器か自動掃除機のルンバのようだとか(正面から見ると顔文字みたいだし)悪口は延々つづけられるけど、あの無骨なフォルムは変にアニメアニメしてなくて嫌いじゃない。あのあっけないやられ方も。
ホームレスのオッサンを演じる武田鉄矢が可笑しい。
「アイ・ラブ・トーキョーかぁ?ウェルカム・ゴジラかぁ?」
忍び込んだレストランで高級な酒を口にして「大学生のコンパやってんじゃないんだから」って、なんでホームレスのオッサンが学生のコンパとか知ってんの?
「でっかい顔して歩くんじゃねぇコノヤロウ、田舎モンが!!新宿歩いてりゃ都会モンだって、そう思ってんだろ」「災難と思うな、チャンスと思え」「大男、総身に知恵が回りかね、か」
出番はすくないにもかかわらず、その台詞のひとつひとつが妙に記憶に残る。
三原山の火口に落ちていくゴジラの姿をみつめる夏木陽介の表情。
こういう顔の演技を僕はこれ以外のゴジラ映画で見たことがない。
最初の方で田中健が港でアラレちゃんみたいな眼鏡した女の子としゃべってるシーンとか、とても怪獣映画とは思えない現実感で、もっとあの場面を見ていたかったぐらい。
橋本監督は『さよならジュピター』とこの『ゴジラ』でまるでトンデモ映画監督みたいに思われてるフシがあるけど(この映画のあとプロデューサーに転身)、僕は演出力のあった人なんじゃないかと思う。
たしかに情緒過多な部分はある。
ゴジラの最期のシーンは、音楽も大時代的なメロドラマ調で人によっては失笑してしまうかもしれない。
以前は、一国の首相が首都をメチャクチャに破壊した巨大怪獣が死ぬところを見て涙を流すなんてことがあるだろうか、と思っていたんだけど、今回、僕はあの小林桂樹の涙(Wikipediaによると台本にはない現場でのアドリブだったそうだが)は、単にゴジラに同情して泣いているのではなくて、戦争や災害、人々を苦しめるすべての厄害を「ゴジラ」というキャラクターにこめて葬り去ること、そのことに対する感極まっての涙だったんじゃないかと思えたのだ。
シラケの時代などとっくの昔に終わった。おもいっきり泣けばいいのだ。
それにしても、劇中で小林桂樹が米ソ首脳に向けていう台詞「もしアメリカやソ連にゴジラが現われたら、ためらわずに首都ワシントンやモスクワで核兵器を使う勇気がありますか」には、一抹のむなしさを感じずにはいられない。
だって映画のなかでは平気で使ってるもんな、アメリカは。
やっかい事があれば核ミサイルで吹っ飛ばすのはハリウッド映画じゃ常套手段。
社会科の授業でならった「核は、作らず、もたず、もちこませず」という「非核三原則」も、いつのまにか聞かなくなってしまった。
「もちこませず」っていうのが密約によって最初から破られてたこともわかってしまったし。
核をもちこんでたのはロシアではなく、味方のはずのアメリカだったんだが。
冷戦時代の80年代よりも、世界はもっともっと厳しくなっているのかもしれない。
この映画はいまこそもっと評価されていいと思う。
多くの困難に見舞われているこの国に対する、これはエールのような作品だから。
ゴジラの生誕60周年である2014年(もうすぐこの映画から30年経つのだ。驚愕)、ハリウッドでゴジラが再映画化される。
今年のコミコン(コミック・コンヴェンション)で予告篇が上映されたらしい。
といっても本篇のフッテージではなくて、イメージ映像っぽいが。
かつてローランド・エメリッヒが監督したハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』(1998)は、ファンからはゴジラならぬ「ジラ」と呼ばれて、「あれはゴジラじゃなくて巨大イグアナ」と揶揄されている。
北村龍平監督の『ゴジラ FINAL WARS』では、X星人役の北村一輝に「やっぱりマグロ食ってる奴はダメだな」といわれていた。
今度の映画では東宝版に近いイメージで映像化するんだそうだ。
それはそれで楽しみにしてるけど、それでもアメリカ人にはオリジナル版にあったテーマは描けないと思う。
そんなのバットマンの最新作や『アベンジャーズ』での核兵器の描かれ方を見りゃ、一目瞭然。
彼らに過大な期待は禁物だろう。*2
僕はそう信じている。
※林田教授役の夏木陽介さんのご冥福をお祈りいたします。18.1.14
※特技監督の中野昭慶さんのご冥福をお祈りいたします。22.6.27
※外務大臣役の鈴木瑞穂さんのご冥福をお祈りいたします。23.11.19
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