映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

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『暗殺の森』4K修復版


ベルナルド・ベルトルッチ監督、ジャン=ルイ・トランティニャンステファニア・サンドレッリドミニク・サンダ、ガストーネ・モスキン、ピエール・クレマンティ(リーノ)、イヴォンヌ・サンソン(ジュリアの母)、ホセ・クアーリョ(イタロ)、ミリー(マルチェッロの母)、エンツォ・タラシオ(クアドリ教授)ほか出演の『暗殺の森4K修復版。1970年作品。日本公開72年。4K修復版2022年。

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1938年、第二次大戦前夜のローマ。哲学講師でファシストのマルチェッロ(ジャン=ルイ・トランティニャン)は、パリに亡命したクアドリ教授(エンツォ・タラシオ)の身辺調査を依頼される。クアドリは大学時代の恩師であり、反ファシズム運動の精神的支柱だった。マルチェッロは婚約者ジュリア(ステファニア・サンドレッリ)と共にパリに赴き、クアドリと彼の魅力的な若妻アンナ(ドミニク・サンダ)に接近する。だが、組織からクアドリを暗殺せよという新たな指令が下った。(「午前十時の映画祭13」公式サイトより引用)


先々週にジャン=ルイ・トランティニャン主演の『男と女』を観て、続けてこちらも「午前十時の映画祭13」で鑑賞。

ベルナルド・ベルトルッチ監督の作品は88年に『ラストエンペラー』、91年に『シェルタリング・スカイ』、94年に『リトル・ブッダ』を、これも90年代にリヴァイヴァル上映されていた『暗殺のオペラ』を劇場で観ましたが(『1900年』はTV放送されたものを録画して、また『ラスト・タンゴ・イン・パリ』はレンタルヴィデオで視聴)、それ以降はTV放送やDVDなどで『ラストエンペラー』を観返した以外は同監督の新作映画を映画館や映像ソフトなどで観ることはなかったし、旧作をあらためて観てみるということもしなかった。

だから何かもう、30年前ぐらいに作品を観たことがある監督、という認識だった。僕が好きな種類の映画を撮る監督さんではなかった。

それが今回「午前十時の映画祭」でこの映画が上映されることを知って、きっと自分には難しいタイプの映画だろう、と予測はしていたんだけれど、でもせっかくの機会だから劇場に足を運びました。

『暗殺のオペラ』と邦題は似てるけど、原作者も内容もまったく繋がりのない作品で(ファシズム政権下の時代を描いているという共通点はあるが)、出演者も異なる。

暗殺の森』が日本では1972年に初公開されたのに対して、『暗殺のオペラ』は『暗殺の森』と同じく1970年の作品にもかかわらず、日本で初公開されたのは1979年なんですね。

映画を観ても物語が理解できなかったら困るので(その可能性は高かったから)前もってWikipediaなどであらすじを読んでおいたんですが、実際、映画を観てみると『男と女』でもそうだったように不思議な編集のされ方で、劇中で時間が行ったり来たりするし、状況や人物について細かく説明もされないので、おそらく事前にストーリーを知っていなかったらポカ~ンとしてしまったと思う。

70年代とかあるいは60年あたりでもそうだけど、あの頃の時代ってこういう感じのパッと観てわかりづらい編集をする映画って多かったんでしょうかね。皆さん、ちゃんと意味がわかって観ていたんだろうか。

あの当時の若い観客たちが、難解だったり、あるいは『ベニスに死す』のような娯楽的要素が希薄な映画をこぞって観て出演者の男優や女優に萌えたりしていたのかと考えると、なんか映画というのものの需要のされ方が今とは違ってたのかな、などと思う。

でも、時代的には映画は斜陽だったんだから、リアルタイムであの時代を知らない僕などにはその辺よくわかんないんですが。

この『暗殺の森』も有名な作品だし、往年の映画ファンに高く評価されてもいるから観たんだけど、先に申し上げておくと、ある程度予想していた通り、娯楽映画的な面白さはなかったし、僕にはどこがそんなに高く評価されているのかもわかりませんでした。

トランティニャン演じる主人公・マルチェッロの服装や帽子をかぶった姿、そして反ファシズムの運動家を潰すための組織の建物の内部の様子やその撮り方が『未来世紀ブラジル』を思わせるものだったり、少年時代のマルチェッロが同じ学校の生徒たちに寄ってたかってズボンを脱がされたり、運転手をしていた青年・リーノ(ピエール・クレマンティ)に性的な乱暴をされそうになる場面の、まるで自分の方から彼を誘うような素振りを見せるマルチェッロの様子など、前述の『ベニスに死す』を思わせる要素があって、僕がイメージする「70年代の洋画の気持ち悪さ」が面白いといえば面白かったんですが。

4Kで修復はされているけれど、フィルムの粒子など、やはり昔の映画にはどこかに不穏な雰囲気を感じさせるものがあって、怖いんですよね。

ラストエンペラー』でも美しい映像、色が印象的だったヴィットリオ・ストラーロの撮影も、時折キャメラが極端に傾いでいたり、マルチェッロの父親が入っている精神病院の白い石造りの建物の威圧感、光源の使い方、エロティックな表現などとともに、70年代的な映像の粗さが閉塞的な時代感を引き立てる。


こういう部分が高く評価されている理由でもあるのかな。

お話自体はあらすじとして読んでみればけっして難解ではないし、「ファシズム」というものを扱ったむしろ非常にわかりやすい一種の寓話的な物語なんだけど、主人公であるマルチェッロの人物像、彼をどのように感じて解釈するかで人によってこの映画の見方も変わってくるのかもしれない。

僕は、マルチェッロの「普通」になろうとしてまわりに合わせているが、本当の自分というものがない、あるいは自分自身で掴めていないまま殺人にも抵抗を感じず、またはそういう不都合なものからは極力目を逸らしたままで生き続ける男の姿に、少し前に観た『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』でディカプリオが演じた主人公を連想しました。

マルチェッロと『キラーズ~』の主人公・アーネストは見た目の雰囲気や性格も異なるけれど、彼らの考える「正しさ」の基準がおかしいというか、「自分」の強い信念を貫き通すことよりも、マルチェッロならばファシズムをただ盲目的に信じて唯々諾々とそれに追従する、アーネストならばロバート・デ・ニーロ演じる叔父のような権威に逆らわず、やはり殺人にかかわることにも抵抗を覚えないなど、「人」として何か重要なものが欠けた人物たちであるということで共通している。

『男と女』で僕が感じた、トランティニャンの端正ではあるが没個性的なルックスがこの映画でも効いていて、『ゴッドファーザー』のアル・パチーノみたいなスーツに帽子の出で立ちには、機械的業務的に人を殺せてしまいそうな(自分では直接手を下さないが)恐ろしさが漂っていた。


写真が飾られていたムッソリーニのようなコワモテのマチズモとは違う、ナチスの高官だったアイヒマン的な怖さ。でも、ファシズムを支えたのは、そういう官僚的な人物たちでもあった。

そういえば、マルチェッロを見張る組織の男、マンガニエッロを演じているガストーネ・モスキンに見覚えがあると思っていたら、『ゴッドファーザー PART II』でデ・ニーロ演じる若きヴィトにリトル・イタリーで撃ち殺されるマフィアのドン・ファヌッチ役の人だった。


この人が、いい味出してるんですよね。いつもマルチェッロに付きまとっていて、敵なのか味方なのかもよくわからない。でも、最後には優柔不断、というか肝腎な時に何もしようとしなかったマルチェッロを見限る。

日本ではこの映画でドミニク・サンダの人気が高まったということだけど、そして中盤に登場する彼女は確かに魅惑的ではあったけれど、出番でいえばマルチェッロの妻・ジュリア役のステファニア・サンドレッリの方が長いし、彼女の美貌も忘れ難い。


いかにもイタリアの若い女性、といった感じの肉々しい身体と、夫にガシガシ迫ってくるし、ドミニク・サンダ演じるアンナとも打ち解けてちょっと百合っぽいことしたり、その辺の若干昔の洋ピンを思わせるような暑苦しさが観ていて楽しい。

正直なところ、僕には同性愛的な部分を隠してもいるようなマルチェッロや彼の「殺人」にまつわるトラウマも、ジュリアが年の離れた男性からレイプされたあと6年も付き合っていたことなど、登場人物たちの過去の傷が真に胸に迫ってくるようなことはなかったし、殺したと思っていたリーノが実は生きていた、という“オチ”にもあざとさしか感じられなかった。

世の中がファシズム一辺倒になっているから自分もその「普通」に染まろうとしたが、やがてその価値観、世間の流行が変わって逆にファシストが糾弾されるようになると、その自分の焦りや苛立ちを、かつては自分がファシストになるための仲介までしてくれた盲目の友人・イタロ(ホセ・クアーリョ)にぶつけて彼を見捨てる。

ファシズムというのはホモセクシュアルを弾圧したのでマルチェッロは自分の性的指向を深く奥に隠していたわけだけれど、リーノとの一件というのはそのような彼自身の重要なアイデンティティを抑えつける結果となった。

けれども、その殺したはずのリーノは生きており、年老いてもなお同性を誘惑している彼の姿を見て、マルチェッロは我に返った。

非常に滑稽な結末だし、個人的に恨みもなかった恩師であるクアドリ教授(エンツォ・タラシオ)、恨みどころか魅せられてさえもいたアンナまでも見殺しにした彼は、「ファシズム」という張りぼての正体を体現してもいる。

老いた母親(ミリー)と彼女の日本人らしき態度の大きな運転手*1との関係をあえて破壊するマルチェッロは、子どもの時から中身が成長していなかった。人間としての中身が成長していない者が権力や暴力の後ろ盾を得ると、なんでもできてしまう。バカだから、それが当たり前だと信じて疑わない。

この映画を観ていると、ファシズムやナチズムを支えたのが官僚的な冷たい盲従とともに、民衆の「多数派につけば自分に有利になる」という浅はかで無責任な態度であることがよくわかる。

「どうしてこんなに高く評価されているのかわからない」と書いたけれど、それでもここで描かれていることは今現在僕たちを覆っている「有害な男らしさ」についてだし、だからこの映画を今観ることには70年代当時以上に意味があるかもしれない。


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*1:なんでここでいきなり日本人が出てくるのかよくわかりませんでしたが(日本語で“木”という意味、みたいな会話もある)、劇中でドイツとイタリアがいかに民族的に近いか、ということを強調するような台詞があったから、三国同盟繋がりだろうか。日本人への人種差別的な描写であろうことはわかりましたが。