映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

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「午前十時の映画祭」で「ゴッドファーザー」三部作

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「午前十時の映画祭12」でフランシス・フォード・コッポラ監督の「ゴッドファーザー」三部作の4Kリマスター版を1作目と2作目は一週間ずつ、3作目の『<最終章>』のみ二週間の上映で三週続けてシリーズ通して鑑賞。

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ゴッドファーザー」三部作の感想は以前書いていますが、2019年の「午前十時の映画祭10」で上映されたのは1作目のみで、僕は続篇の『PART II』をスクリーンで観たことがなかったし、2020年に3作目の『PART III』に監督のコッポラが再編集を施して『ゴッドファーザー<最終章>:マイケル・コルレオーネの最期』として仕上げていて、そちらは僕は未見だったので、今回そのヴァージョンが上映されると知ってどうしてもこの機会に劇場で観ておきたかった。*1

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週替わりで1作目と2作目を続けて観たことで、いずれも見どころはたくさんあるんだけど、僕はあらためてマイケルの兄フレドが印象に残りました。

1作目ではフレドはヴィトが銃撃された時にも慌ててピストルを落として反撃できず、撃たれた父親を手当てするわけでも助けを呼ぶでもなく、座り込んで「パパ!」と泣くだけの本当に役立たずなんだけど、続篇の『PART II』ではドンになった弟マイケルに劣等感を持って、彼を見返そうと、あるいはファミリーのみんなから一目置かれたくて、それを逆に敵に見透かされて利用されてしまう。

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人がよいが、それは人の心の裏を読めないということで、どこまでもマフィア稼業に向かない男であることがわかる。マイケルからも「フレドは…弱い」と言われてしまうし^_^;

1作目ではラスヴェガスでモー・グリーンのもとでカジノの仕事を学ぼうとするが、体のいい舎弟扱いされていてマイケルから「ファミリーの敵の肩を持つな」と言われてしまう。

2作目では冒頭で非イタリア系の妻からバカにされて自分のコミュニティも見下される。「ぶん殴るぞ」と凄んでも「できもしないくせに」と鼻で笑われる。どこまでも情けない。

でも、妻のケイから揶揄気味に「あなたはけっして負けない」と言われたマイケルとは対象的なフレドが描かれることで、とても味わい深い人間ドラマになっている。2作目において、ようやくフレドはこのドラマの中で重要な登場人物になる。

フレド役のジョン・カザールは1978年にわずか42歳で亡くなっているけれど、アル・パチーノロバート・デ・ニーロは、彼が生前その演技力を充分に評価されなかった、と語っている。

僕は実は恥ずかしながら、ジョン・カザールさんが出演した映画を「ゴッドファーザー」シリーズ以外で観ていないんですよね。

コッポラ監督の『カンバセーション…盗聴…』も、それから『PART II』後にアル・パチーノと再共演した『狼たちの午後』も有名だからタイトルは知ってるんですが、未鑑賞で。

今度、この「午前十時の映画祭12」で彼が出演したマイケル・チミノ監督の『ディア・ハンター』をやるから、ぜひ観たいと思っていますが。

そういえば、リドリー・スコット監督の『ハウス・オブ・グッチ』(感想はこちら)でジャレッド・レトがフレドに寄せたような役を演じていて(同作でアル・パチーノとは親子役)、フレドのダメな感じをよく再現していると思ったので僕はパロディとして面白かったんだけど(この役でレトはお見事ラジー賞受賞w)、フレドに思い入れがあるかたやジョン・カザールさんのファンの人にとってはイラッとくるかもしれませんね。

フレドの「弱さ」こそが僕は人間っぽくて嫌いになれないんですが。ジョン・カザールのあの小心そうな表情や演技がフレドを憎めない人物にしている。

マイケルは「パパは強かった」と語るように、今は亡き父ヴィトの幻影に囚われている。そのマイケルに嫉妬して、最後にはその弟に粛清されてしまう兄フレド。

これこそまさに「有害な男らしさ」以外の何物でもないだろう。

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これまでは、「ゴッドファーザー」のマフィアの姿はどこか「かっこいい」とか、マイケルの憂鬱は「男の哀愁」のように捉えられてもきたのだが、『PART III』改め『<最終章>:マイケル・コルレオーネの最期』では、その「強さ」を求めてきたはずの男は病気と兄殺しの罪の意識に苦しみ、最後には最愛の者を失うことになる。

だいたい、黒人の映画スターが黒人のコメディアンをひっぱたいたら大ニュースになってしまうような時代に、助走つけて妻を殴るマイケルはまともな男には見えないだろう。フレドの妻はイタリア人を野蛮だと罵るが、この映画だけ観てるとそう思えてきてしまう。イタリア人に限らず、あの当時は現在よりも頻繁に人が人を男女問わず殴っていた。

マイケルは、一度は「もういいんだ。まだ兄弟だ」と自らフレドを許すようなことを言っていたのに、フレドがハイマン・ロスと繋がっている検察側の人物を知っていたことがわかってからは態度が一変、部下のアル*2には「ママが生きているうちはフレドは無事だ」と告げる。つまりママが死んだらフレドを始末する、と。

このあたりのマイケルの心境の変化が僕にはよくわからなかったんだけど、それは復讐とかけじめというだけでなく、フレドを生かしておくといつまた敵に利用されるかわからない、本人が自分が言ったりやったりしていることにあまりに無自覚で賢いとは言えない男なだけに、その存在自体がファミリーにとって危険だと判断したのかもしれない。

フレドはマイケルの長男アンソニーに釣りの時に唱えるとよく魚がかかるというおまじないを教えたりして、よき伯父であり、もしも彼がマフィアの家に生まれずにごく一般的な家庭で生まれ育っていたら、妻に虚勢を張ることも弟に殺されることもなく平凡な人生を送ったのではないかと悔やまれる。

少々謎だったのが、マイケルの妹コニーは3作目ではフレドの死を「水難事故」だと言っていたけれど、彼女がかつて夫のカルロを殺した兄マイケル(マイケルはケイの前でそれを頑なに否定していたが)を疑わないのは妙じゃないだろうか。マイケルならやるだろうと考えて当然だと思うんですが。

コニーはマイケルに「フレドを許してあげて。一人では何もできないのよ」と言うが、彼女はマイケルとフレドの間の事情を具体的にどれだけ知っていたのだろう。マイケルが妹に話すとは思えないが。

それとも、コニーはマイケルがフレドを殺したと確信しながら、自らもマフィアの一族の一人だという自覚を持ったということだろうか。3作目でのコニーは、まるで参謀のようにマイケルを支え、甥(長兄ソニーの息子)のヴィンセントにジョーイ・ザザ殺害を許可する。この登場人物たちの変貌ぶりにも驚かされる。

『PART II』のラストで、まだ父ヴィトが生きていた頃のマイケルの回想シーンがあって、そこでは1作目で殺されたソニーやカルロ、そして父の代からの古参の仲間テシオの姿もある。それからフレドも。

ヴィトの姿は映し出されないが、それがかえって“父”の存在の大きさを際立たせている。

日本軍による攻撃と日米開戦を期に、自ら志願して海軍に入隊したために「大学に行ってバカになったのか」とソニーに罵られて、皆が父を祝うために外に出ていったあと一人でテーブルについているマイケルの姿が、ラストで髪に白いものが混じって目尻にも皺が刻まれた“現在”の彼に重なる。カルロもテシオも、そしてフレドもそのマイケルの手によって殺された。マイケルは一体、何を「守った」のだろうか。

彼は人々から多くを奪い、その代わり多くを手に入れたはずだが、物憂げな初老のマイケルの表情には、もはや取り戻すことができない多くのものへの後悔がにじむ。マイケルが手にしたものは、彼が望んでいたものではなかった。

1作目で、マーロン・ブランド演じるヴィトはマイケルに、これからコルレオーネ家は日の当たる世界に出ていかなければならない、と言う。コルレオーネ議員、コルレオーネ市長…「僕はなるよ」と誓うマイケル。

『PART II』では、ロバート・デ・ニーロ演じる若き日のヴィトのパートが挟まれるけれど、それは単に息子と父のエピソードが交互に描かれているのではなくて、父ヴィトのパートでは同じく若き日のクレメンザやテシオらとの出会い、隣人の老婦人を助けたりと、その人生の転機となった出来事に笑いを交えて、さらにドン・ファヌッチの殺害、ドン・チッチオへの復讐などを英雄的行為として描いたりして、ある種の伝説だとか神話のような形で映像化している。

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もしくは、あれはマイケルの目から見た、憧れであり目標であり称えるべき存在として美化、理想化された“父”の生きた「古きよき時代」なんだよな。

でも、マイケルはその理想化された“父”がかつていた場所には、けっして到達できない。実は、そんな場所は現実にはないのかもしれないのだから。

ゴッドファーザー・サーガ」とは、そういう物語だった。

ちなみに、今回ようやく『PART II』を劇場のスクリーンで初めて観ることができたので、嬉しかったついでにちょっとだけツッコんでおくと、ギーリー(ギアリー)議員が陥れられてフレドの店で馴染みの娼婦が殺された場面で、「元気だったんだ…」と泣き崩れるギーリーの横で死んでいるはずの裸の血だらけの女性の腹部が動いていた。生きてるやん!w

あの当時は撮影した映像をその場でプレイバックして確認することができなかったから、こういうミスが見過ごされてしまったんだろうなぁ。さすがにスクリーンだと目立ってしまって気になってしょうがなかった。

それから、ファヌッチがヴィトにアパートの玄関で射殺される場面で、胸を撃たれたファヌッチがスーツの上着を掻きむしるようにはだけるんだけど、その時に内側の胸にも銃創や血糊がついてなきゃおかしいのに、シャツが真っ白なままなんだよね(そのあと、ヴィトのショットとのカットバック後にはすでに胸に血糊がついている)。そこは前もって仕込んでおいてほしかった。そうしたら、より殺しの場面がリアルに見えただろうから。

以上、これまでに何度か観た作品だからこそ気になった部分でした(^o^)

さて、では最後に初見の『<最終章>』について。



ゴッドファーザー<最終章>:マイケル・コルレオーネの最期

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結論から申し上げますが、1週間前に『PART II』を劇場で観終わったあとの、思わず静かに溜め息を洩らしそうになるような感動はなかったです。

ハッキリ言ってしまうと、僕は再編集版である今回の<最終章>よりも初公開版の『ゴッドファーザー PART III』の方が好きですね。

アル・パチーノダイアン・キートンは「以前のヴァージョンよりもよくなった」と褒めているし、同様にこちらの方を高く評価しているかたがたも大勢いらっしゃるから、これはもう感じ方の違いとしか言い様がないですが、個人的には再編集版は失敗だったと思う。

オリジナル版では冒頭で『PART II』でマイケルたちの住処だったタホ湖の邸宅が朽ちて廃屋になっている様子が映し出されていて、それが諸行無常を思わせて好きだったんですが、<最終章>ではその映像はカットされていて、いきなりギルディ大司教の相談を受けるマイケルのシーンから始まる。この時点でガッカリ。

そして、ラストではケイとのダンスの回想もカットされて、メアリーとだけになっている。さらに、年老いたマイケルが椅子からずり落ちて地面に倒れ込むショットがカットされていて、マイケルがサングラスをかけると画面がフェードアウトして、“シチリアでは「永遠の喜び」は「永遠の命」を意味する。シチリア人はそれをけっして忘れない。”というような内容の字幕が出る(うろ覚えなので、間違えてたらゴメンナサイ)。

おそらくは『PART II』のラストで椅子に腰掛けてたそがれるマイケルの姿とちょうど重なるように仕上げたんだろうけど、そして、わざわざ「マイケル・コルレオーネの最期(原題:The Death of Michael Corleone)」と題しながらもあえて彼の直接的な死の描写を削除したのは、愛する娘を失ったマイケルは生きながらにして死屍と化したことを意味しているのかもしれない。

意図は理解できるし、「マイケルの死」をより深みのあるものとして描くことになったのは評価できるかもしれませんが、なんですかね、僕は最初のヴァージョンを初めて劇場で観た時のような感動を覚えることはなかったのです。

『PART III』でのマイケルの崩れるように倒れ伏してこと切れる姿は、1作目の父ヴィトの最期と対比されていたと思うんですよ。二人の死に方は見た目は似ているが、まったく違う。

幼い孫のアンソニーと楽しげに遊びながら息を引き取ったヴィトと、後悔と孤独の中で寂しく死んだマイケル。

<最終章>では、彼の心に去来するのは在りし日のメアリーただ一人だけだった、というふうになっていたけれど、それって、結局は死ぬまでマイケルは自分の心の中に閉じこもったままだった、ということでもありますよね。彼は自分が大切な存在を失ったそのわけをちゃんと理解して受け入れることのないままだった、ってことでしょう。

アンソニーが演奏して唄うコルレオーネ村に伝わる歌(「ゴッドファーザーのテーマ」)を聴きながら、マイケルは最初の妻アポロニアを思い出して涙するんだけど、のちにシチリアのマイケルの故郷を訪れたケイに彼は「いつも君のことを想っていた」と言う。ケイに「でも(他の女性と)結婚した」と返されると、マイケルは悪びれもせず「でも、ずっと想っていた」と答える。

ケイにしてみれば「オマエ、何言ってんだ?」って話だけど、マイケルはそうやって自分の過去を美化し続けるんだよね。人殺しを続けたことをケイに問い詰められても「家族を守るためだった」と正当化する。そして「君にはわかってもらえなかったが」と続ける。ケイが自分を理解してくれなかったから我々はうまくいかなかったのだ、と彼女に責任転嫁までしている。病気で弱っても、彼は昔とちっとも変わっていない。


クライマックスの「インモビリアーレ」の関係者や大司教の抹殺を指示したのがマイケルなのか、それとも彼の跡を継いで新しいドンになったヴィンセントなのかよくわからなかったんですが(普通に考えればヴィンセントだと思うのだが、マイケルはルケージたちを「真のマフィア」などと呼んで嫌悪していたし、かつて護衛だったカロに殺し屋のモスカ親子に殺害されたドン・トマシーノ*3の仇討ちを許可したのも彼だ)、部下に命じて散々人を殺しておいて、「家族を守るためだった」などと言い張るのは無理があるだろう。

なんでもかんでも時事ネタに絡めるのもなんだけど、でも、今年のアカデミー賞の授賞式でプレゼンターをひっぱたいたウィル・スミスの「妻を守るためにやった」という言い訳と変わらない。前提が間違ってるんだよね。

彼らは、「妻や家族を守るため」と言いながら、本当は「自分」の意地やプライドのためにやったのだ。

もしも、マイケルがヴィトの跡を継いでいなければ、フレドは彼に殺されることはなかっただろうし、あれほどの血も流されずに済んだかもしれない(短気なソニーはどの道、敵の組織に殺されていたかもしれないが)。巻き添えを食らってメアリーが殺されることもなかっただろう。

「家族を守る」などと言いながら、マイケルは“ファミリー”の多くを死に至らしめたし、他人の命も奪った。

すべてが自業自得としか言い様がないし、我が家を要塞化して武装し、邪魔な者たちを力ずくで排除しようとしてきたマイケルのやり方は、まるでプーチン率いるロシア軍みたいだ。

それはけっして美しくもなければ強くもない。

だから、『PART III』でのマイケルのあの無様な死に様は、僕は必要だったんじゃないかと思うんですよ。<最終章>のラストのように、爺さんに愛娘の想い出の中に勝手に引きこもられてもね…。

今回、三部作を何週間にも渡って続けて劇場で鑑賞できたのは嬉しかったし、あらためてこの「ゴッドファーザー・サーガ」の面白さを堪能しましたが、1作目と2作目だけだとマフィアはまだどこか美しくかっこいいままなんですよね。『PART II』でデ・ニーロ演じる若きヴィトがそうだったように。

それを、3作目では覆すんですね。マイケルは、かっこ悪く死んでいく。

だから3作目は前2作ほど人気がないんだけど、でも、この3作目(しつこいけれど、僕は最初のヴァージョン推し)を観ることで、何か夢から覚めるような、現実を突きつけられるような気持ちにもなる。

今回、初めて『PART III』を観た時みたいなノスタルジーに耽るようなことはなくて、むしろ「お前たちがこれまで観てきた“美しい物語”は全部“幻”なんだ」と言われたような、そんな心持ちがしたんですよね。

前2作に出ていたようなキャラの立ったイタリアのおっさんたちがほとんど登場せず、またあまりに古めかしいヴィンセントとメアリーの“禁断の恋”もひどく安っぽく感じられもして、何度観ても好きな前2作と異なり、観れば観るほど色褪せていく3作目。

前2作のような、いつまでも耳に残る劇中曲がなかったのもその理由の一つでしょう。ラストに流れるマスカーニの“歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より間奏曲”は美しかったけれど、それ以外で使われていたのは前2作の時に作られた曲ばかりで(ニーノ・ロータはすでに79年に死去していたし)、音楽の力がいかに映画に貢献していたか皮肉にも証明することになってしまった。

マイケルの娘メアリー役が当初の予定通りウィノナ・ライダーだったら果たしてどうだっただろう、と夢想せずにはいられないけれど(ウィノナ・ライダーはその後、コッポラが監督した『ドラキュラ』でヒロインのミナ・ハーカーを演じた)、メアリーのキャラクターはいかにもお人形然としていて描き込みがほとんどなかったので、誰が演じても彼女を魅力的に見せるのは難しかったでしょう。


メアリーがあまり賢そうに見えないのが残念だった。ヴィンセントが彼女に冷たいそぶりを見せたのは「パパのせいね」って、従兄妹同士なんだからそりゃ恋愛関係を結ぶのは無理だろう。なぜ彼女がカズ(従兄)に執着するのかわからなかった。

もともとシナリオにはもっと場面があったのをソフィア・コッポラの演技の実力に合わせて削ったのか、それとも最初からシナリオにメアリーはほとんど描かれていなかったのかはわかりませんが。

でも、せめてソフィア・コッポラが顔がちょっと似ているレディー・ガガ並みの演技力だったら、観客もヴィンセントとの恋路やメアリーの死にもっと入り込めたと思うんだがな。

メアリーを失ったマイケルと、実の娘であるソフィアをボロカスに言われて(ラジー賞も受賞)彼女の心に深い傷を残したコッポラが皮肉にも重なって見える。

そして、もしもトム・ヘイゲン役のロバート・デュヴァルが出てくれていたら、前2作と並ぶぐらい映画として見応えのあるものになったかもしれないと思うと、本当に惜しくてしかたない。もっともっと素晴らしい完結篇になったかもしれないんだから。

…それでも、この映画はサーガを締めくくるために必要な1本なんでしょう。

驚くべきことに、1990年の公開当時、マイケル役のアル・パチーノはまだ40代の終わりか50歳ぐらいだったんだよね。メイクアップの効果もあってもっと年取って見えるけど、それでもあの貫禄。

アル・パチーノって、90年代ぐらいって説教したり暑苦しい芝居をする人っていうイメージがあって(今もそうですが^_^;)、それは72~74年の『ゴッドファーザー』の1作目と2作目の頃の彼の演技の雰囲気とは異なっているので、『PART II』のマイケルと『PART III』の彼とではまるで別人に見える。

1作目と2作目のマイケルも、ここぞというところでは大声張り上げてたけど、普段はむしろ感情を抑えていて何を考えているのかわからないところが不気味だったし、だからこそ、すべてを自分の思い通りにしようとする彼の自己本位ぶりが怖かったんですよね。

『PART III』では眠そうにしてるかギョロ目をひん剥いて怒鳴ってばかりいて、*4もはやアル・パチーノの顔芸を見せる映画になっていた。『PART II』は74年で『PART III』は90年。16年でこんなに変わるもんなんだな。あの当時は16年ってずいぶん長く感じたけれど、でも、『PART III』が作られた1990年からすでに32年経っている。『PART II』と『PART III』の間よりもはるかに長い。そういうことを考えながら観ていると、初公開時とはまったく違う感慨はある。


左からジェームズ・カーンソニー)、ダイアン・キートン(ケイ)、ロバート・デュヴァル(トム)、アル・パチーノ(マイケル)、ロバート・デ・ニーロ(若き日のヴィト)、タリア・シャイア(コニー)、手前がフランシス・フォード・コッポラ監督

映画『ゴッドファーザー』の影響を受けて数多くのマフィア映画、ギャング映画、それからヤクザ映画が作られたけど(って、そのほとんどを僕は観ていませんが)、本家「ゴッドファーザー」シリーズのように何十年にも渡って観続けられて記憶され続けているシリーズはない。ほんとに稀有な三部作だな、とも思う。

これからも、ぜひまた映画館で上映してほしいです。


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*1:現在、年齢制限は1作目がG、『PART II』はPG12、『<最終章>』はR15+指定になっている。…いや、1作目や2作目の方がヴァイオレンス激しかったでしょ。なんで?^_^;

*2:リチャード・ブライト演じるアル・ネリは、マイケルの側近として1作目からずっと出ていて、シリーズ中で最後まで裏切ることも死ぬこともなかったきわめて珍しい人物でもある。1作目ではドン・バルジーニを、2作目ではフレドを、3作目ではギルディ大司教を暗殺する。シリーズを通して実はかなりの大仕事をやっている。

*3:ドン・トマシーノは若き日のヴィトのドン・チッチオへの復讐に協力して足を撃たれて(『PART II』)その後は車椅子生活になり、『PART III』ではマイケル殺害の巻き添えを食って殺される。コルレオーネ家にとっては何代にも渡る大恩人だが、ご本人はとことん報われない人だった。

*4:そういえば、『PART III』の前に出たウォーレン・ベイティ監督・主演のアメコミ実写化映画『ディック・トレイシー』でも、パチーノはいかにもな暗黒街のボス“ビッグ・ボーイ”を演じて目玉をギョロつかせていた。