フランシス・フォード・コッポラ監督、アル・パチーノ主演の「ゴッドファーザー」三部作。
一作目は1972年公開。
第45回アカデミー賞作品賞、主演男優賞(マーロン・ブランド)、脚色賞受賞。
二作目は74年(日本では75年)公開。
第47回アカデミー賞作品賞、助演男優賞(ロバート・デ・ニーロ)、監督賞、脚色賞、美術賞、作曲賞受賞。
三作目は90年(日本では91年)公開。
1945年。シチリアを起源とするマフィア、コルレオーネ一族の物語。ドン・ヴィト・コルレオーネ(マーロン・ブランド)を長とするコルレオーネ・ファミリーはニューヨークの五大ファミリーの一つだが、麻薬を嫌うヴィトの意向によって他のファミリーと微妙な関係にあった。そのヴィトが銃撃されたのをきっかけに三男のマイケル(アル・パチーノ)が彼のあとを継ぎ、身内の死に対する報復を成し遂げる。
三作目の『PART III』のみ劇場で観ました。
以前「午前十時の映画祭」で一作目と二作目がリヴァイヴァル上映されてましたが、残念ながらどちらも観られず。
90年代の年末にTVで深夜にシリーズが続けて放映されていて、夜通しずっと観ていた記憶があります。
それ以来、ヴィデオやDVDで時々観返してる。定期的に観たくなるんですよね。
尾崎紀世彦の歌や珍走団のラッパで有名な「愛のテーマ」の哀愁のメロディも耳に心地良い。
やっぱり音楽の力はかなり大きいと思う。
作品としては『PART II』が一番好きかな。もちろん、一作目も好きですが。
『ゴッドファーザーPART II』
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20世紀初頭にシチリアで親兄弟を殺され単身アメリカに移民してきた少年時代のヴィトが、やがて成長して(青年期のヴィト:ロバート・デ・ニーロ)家族と仲間を得て町の顔役として成り上がっていく姿と、のちに彼のあとを継いだマイケルのキューバ革命の時代の物語を並行して描く。
この三部作の中で二作目が特に評価が高い(人によっては一作目の方を一番に選ぶかもしれませんが)のは、ちょっとジョージ・ルーカスの「スターウォーズ」シリーズに似てたりして。
当然、一作目があるからこその二作目なんだけど。一作目を飛ばして二作目だけを単体で観ると、人物関係などよくわからないところもあるし。
だから一作目と二作目を合わせて1本の映画として考えるといいかもしれない。
それぞれが3時間近くある(『PART II』は200分)大長篇だけど、観始めるといつも止まらなくなってしまう。
たまに出てくるショッキングな殺しの場面は見どころの一つ。ディック・スミスによる特殊メイクも活躍。
といっても、その後、マーティン・スコセッシの『グッドフェローズ』やマイケル・マンの『パブリック・エネミーズ』などを観ても面白いと思えなかったことからも、僕個人はマフィアやギャングを描いたジャンルが好きなんじゃなくて、この「ゴッドファーザー・サーガ」が好きなんだ、ということに気づいた。
それは、これがマフィアのドンとその一族を描いた作品でありながら、親子や兄弟など普遍的な「家族」についての物語でもあったからだと思う。
またコッポラ自身が語っているように、これは古典悲劇の形も取っている。
裏切りや暴力、そして家族愛、それらが織り重なってニーノ・ロータ作曲のメロディとともに一大オペラのごとく目の前を駆け抜けていく。
そこに他の実録物のギャング映画にはない魅力を感じる。
このシリーズがマフィアの実態をリアルに描きだしたものなのかどうかということは、実は僕にとってはあまり重要ではないんですよね。
たとえばこれを中世の貴族の物語、あるいは日本の武家の一族の話として描いても成り立つ。コスチューム・プレイ(歴史劇)として捉えるとわかり易い。
『PART II』でマイケルがケイの流産(実は堕胎)によって失った自分の子が男の子だったかどうかをやたらと気にするのが奇妙だったが*1、マイケルの価値観というのは中世の貴族のそれなのだ。
だから歴史好きだったり大河ドラマの登場人物たちに思い入れを込めて観るようなタイプの人たちには、この三部作は非常に面白いんじゃないでしょうか。
もっとも、結婚したあとのマイケルの様子からは一貫してまるでケイを「子を産む道具」としてしか見ていないような気配があって、正直この男のことを好きにはなれない。
現在はもちろんのこと、映画が公開された70年代だって妻に対するこの扱いは噴飯モノだったんじゃないだろうか。
だからこのシリーズの旧弊で男尊女卑的だったり、マフィア特有の復讐などの野蛮で時代錯誤な価値観については、それらはすべて「歴史劇」だから、と考えることにした。
アル・パチーノの目ヂカラ溢れる熱演で、好きではなくてもこのマイケルとその家族を巡る物語には終始入り込んでしまうんですが。
先代のヴィトから直々にドンに選ばれた優秀な弟マイケルと、彼に使われることにプライドを傷つけられて見返そうとする、人はイイが浅はかでマフィアには向いていない次兄フレド(ジョン・カザール)の関係など、非常に身につまされるものがある。
「弟のくせに命令ばかりしやがって。俺はお前の兄貴だぞ。俺だってみんなに尊敬されたいんだ」というフレドの正直過ぎる告白はなんとも哀しい。
長くてストーリーの詳細について述べる余裕がないので、非常にざっくりした感想になりますがご容赦を。
以降、ネタバレを気にされるかたはご注意ください。
これは要するに、「偉大なる父」の呪縛に囚われた息子の物語である。
マーロン・ブランド演じるヴィトは、映画から彼が退場したあとも後継者のマイケル、そしてファミリーたちに影響を及ぼし続ける。
マイケルは最初、絶対に父の仕事は継がないと決めていたが、ヴィトが撃たれて死の淵を彷徨いファミリーに危機が訪れると、自ら志願して父を襲わせたソロッツォ(アル・レッティエリ)と悪徳警部のマクラスキー(スターリング・ヘイドン)を射殺して父の故郷に身を潜める。
結婚するつもりだったケイと離れている間にちゃっかり現地で妻を娶ったりしている。この辺のマイケルの行動がよくわからない。寂しかったから?
やがてそこにも追っ手が迫ってきてアメリカに帰り、一年後にケイと再会して、前の妻アポロニア(シモネッタ・ステファネッリ)が殺されてまだ間もないのにこれまた結婚を申し込む。そしてポマードで頭を固めてコルレオーネ家のドン、別名“ゴッドファーザー”の名を受け継ぐ。
で、気づくと、もうラスヴェガスでカジノの責任者モー・グリーン(アレックス・ロッコ)にケンカを売ってる。その順応の早さがスゴい。
もちろんその間には何年か時間が経ってるんだろうけど、まるで場面が飛んだのかと思えるほどに以前とは人が変わっている。
見るからにヤンチャそうな長兄のソニー(ジェームズ・カーン)から「大学出のお坊ちゃん」とからかわれるような真面目な青年だった彼が、なぜ人殺しも厭わぬマフィアのドンになったのか。
この「邪魔者は消す」マイケルの冷徹な采配というのが観ていていつも違和感があって、それは戦争に行って人が変わったのか、それとももともと彼はそのような冷酷な性格だったのかはわからない。
ともかく、このシリーズで幾度となくマイケルは父ヴィトと対比されることになる。『PART II』は映画自体がそのような作りになっているし(かつてヴィトに仕えたフランク・ペンタンジェリも「あの頃はよかった」と昔を懐かしがる)、「強かった父」の幻影は常にマイケルに強迫観念のようにつきまとう。
父の時代はすべてがシンプルだった。欲しい物は手に入れ、邪魔者は始末し、弱い者を助ける。警察も政治家も巧く買収すればそれで済んだ。それでなんの問題もなかった。
泣き言を言ってすがる歌手のジョニー・フォンテーン(アル・マルティーノ)には「女みたいにメソメソしやがって、男だろ!」と叱咤する。
ヴィトの妻である“ママ・コルレオーネ”カルメラ(モーガナ・キング)は、けっして夫に逆らわず「男たちの仕事」にも口を挟まなかった。
いつも朗らかで皆の前では唄い、女たちとお喋りをしている。
で、いつのまにか死んじゃう。
ママ・コルレオーネはまるで童話の世界の住人のようだ。
マイケルの時代にはそうはいかない。
父は皆から畏れられ尊敬されていたが、一方のマイケルはWASP(アングロサクソンでプロテスタント系の白人)のギアリー議員(G・D・スプラドリン)から「君たちは好かん」と見下される。
マフィアの実在が知られた今では、警察も司法当局も容赦なくマイケルとファミリーを追及してくる。
同じように「家族を守るため」に奮闘しているにもかかわらず、マイケルは妻から「忌み恐れられ」、その愛を失う。
父ヴィトというのは、まるで神話の中の登場人物か、もっといえば“GODFATHER”の呼び名の通り、“神”のような存在でもある。彼にはいつも威厳がある。
実際にはヴィトの時代にだってマフィアやギャングの世界は汚いことで一杯だったに違いないが(彼に仕えるコワモテのルカ・ブラージを連れていってジョニーのバンドと“話をつけた”り、「馬の首」の一件のように、実はやってることは息子のマイケルと変わらない)、それはちょうど西部劇の中の「フロンティア・スピリット」みたいに伝説として、撮影監督のゴードン・ウィリスによるアンバーの光に包まれた映像の中で美化されている。
マイケルが生きる世界の方が、より現実に近いのだ。
ちなみに、マーロン・ブランドは78年の『スーパーマン』でスーパーマンの父ジョー=エルを演じていたけれど、まさしくそれは“神”のようなキャラクターだった。
「ゴッドファーザー」シリーズの原作者でコッポラとともに脚本も担当したマリオ・プーゾは、『スーパーマン』と『スーパーマンII 冒険篇』(感想はこちら)の脚本も書いている。
あと、『ゴッドファーザー』も『スーパーマン』もマーロン・ブランドは二作目には出てこなかったにもかかわらず*2、主人公にとっては一度は離れようと思い、しかしあとを継ぐ者となる巨大な存在だというのも共通してますね。
ゴッドファーザーとスーパーマンがマリオ・プーゾとマーロン・ブランドを介して繋がる、というのが面白いな。
マイケルの特徴として、父や母が生きている間は決定的な行動は控え、死んだとなったら一気に標的を葬り去ることが挙げられる。
復讐を諌めていたヴィトが亡くなると、マイケルは父への銃撃や兄ソニー殺害の黒幕だったバルジーニ(リチャード・コンテ)をはじめ、タッタリアなど敵対するファミリーを粛清する。
また、母が亡くなると自分を裏切った実の兄フレドを手下のアル(リチャード・ブライト)に命じて殺させる。
フレドが自分を殺そうとなどしていなかったことはわかっているのに。
それは“けじめ”をつけるためだったのか。
組織の掟や自らの異常なまでのプライドの高さ(マイケルはしばしば「許さん」という言葉を口にする)によって、あるいはそれは弱さによる「怯え」のせいだったのかもしれないが。
マイケルは自分をハメたユダヤ系のマフィアでもはや余命いくばくもないハイマン・ロス(リー・ストラスバーグ)を殺すために、これまで彼に仕えてきたロッコ(トム・ロスキー)の命を犠牲にする。
死ぬ必要のない者までが彼の命令一つで死ぬ。
「家族愛」などというが、マイケルや彼の家族のために一体どれだけの血が流されただろうか。
なんという手前勝手な「家族愛」だろう。
『PART II』のラストで、自らの手で兄を殺し、妻だったケイを失ったマイケルの物憂げな顔が映るが、彼が失ったものよりも人々から奪ったものの方がはるかに多いに違いない。
ところで、ケイが自分の意志で彼女とマイケルとの間の子を堕ろしたことについて、たまたま読んだ見ず知らずの人のブログに、マイケルが残酷な性格に変貌したのはケイのせいだ、と書かれていて呆気にとられてしまった。
あえてリンクは張らないけど、あまりに的外れな指摘なので反論したい。
だって、一作目のクライマックスのマフィアの大粛清は(ヴィトのアドヴァイスがあったとはいえ)マイケルの指示によるものだし、ケイが堕胎するはるか以前からすでにマイケルの手は血で染まっているのだ。一体何を言ってるんだろう、この人は。
どうやらこの評者にとっては、マイケルの苦しみを理解せずワガママばかり言って身勝手な行動を取ったケイがすべての元凶、ということのようだ。
しかし、自分たちの住居が直接銃撃されるような環境が子どもたちにとっていいわけがない。
彼女が子どもたちとともにマイケルから離れることを望むのは当然だろう。
何年も前から「ファミリーの仕事を合法化する」と約束していながら、果たされる気配もないのだし。
映画を観ている僕たちにはそれが不可能だろうことはわかっている。なぜならマイケルはマフィアを率いるドンだからだ。
これだけ裏の世界にどっぷりと浸かっていて簡単に足抜けできるはずがない。
だが、ケイはマフィアのドンとしてのマイケルを愛したのではなく、「親父たちの仕事を継ぐ気はない」と言っていた頃の彼を愛していたのだ。
子どもを育てながら我慢を重ねてきたが、しかしついに彼女の堪忍袋の緒は切れた。
女性が自ら望んで堕胎することがどれだけの決意、絶望を伴うものなのか、想像してみればいい。
彼女はお腹の我が子を死と暴力に溢れたコルレオーネ家に産み落としたくなかったのだ。
『PART II』では若き日のヴィトとヴィト亡きあとのマイケルの物語が順繰りに描かれるのだが、これはもちろん二人のドンを対比させるためだ。
当然ながら、彼らの妻も比較対象になる。
先ほど書いたようにヴィトの妻カルメラはほとんど自分の意思を表立って口にすることはなく、いつも黙って夫に従う昔ながらの「良妻」だった。
それに対してダイアン・キートンが演じるケイはこの映画が公開された70年代的な、自分の思いを口にして態度に表わす女性である。
コッポラは意識的にそう描いているはずだ(それでも現在の目から見ればケイの自己主張はまだずいぶんと控えめである)。
かつてのヴィトを頂点とする家族の肖像は一見ノスタルジックに理想化して描かれているが、現実はそうではないということを際立たせるためにあえてそう描いているともいえるわけで、現実の世界でそのような家族像を目指すとマイケルのようになるということだ。
だからそこを勘違いするとくだんの評者のように、マフィアの妻らしからぬ行動を取ったケイを責め立てるようなピントの外れた批判をすることになる。
人が映画を観てどのような感想を書こうとそれは自由だし、僕がそれに対してとやかく言う資格もないのだけれど、それでもあまりに偏った価値観による登場人物に対する悪意ある解釈には異議を唱えたくなる。
このシリーズは、けっして昔ながらの家父長制を礼賛しているわけではない。
むしろ、そんなものは今では通用しないことを描いている。
『ゴッドファーザー』と『ゴッドファーザーPART II』はいずれもアカデミー賞作品賞をはじめ、何部門もの受賞を果たした。
どちらも今もって傑作と謳われているし、確かに見応えがある。
一方で、『PART II』から16年後に作られた『PART III』は残念ながらアカデミー賞の受賞はならず、評価も前二作ほど高くない。
『ゴッドファーザーPART III』
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1979年。長年コルレオーネ・ファミリーのドンとして君臨してきたマイケルは、ファミリーの仕事の完全な合法化を狙い同業者たちと手を切ろうとするが、会合の最中にヘリからの銃撃を受ける。亡き長兄ソニーの遺児ヴィンセント(アンディ・ガルシア)の助けで命拾いしたマイケルだったが、やがて裏切り者や政界の大物、ビジネスで接触したヴァチカン銀行などがかかわるスキャンダルに巻き込まれていく。
マイケルの娘メアリー役は当初ウィノナ・ライダーの予定だったが、彼女が撮影前に急病になってしまったため代役が見つからず、コッポラの娘ソフィア・コッポラが急遽務めることになった。
これがいろいろと物議を醸して、結局彼女はその年のラジー賞を受賞するハメに。
ソフィア・コッポラに罪はないとはいえ、彼女の顔を見てるとソックリなコッポラ親父の顔が浮かんできて、ヴィンセント役のアンディ・ガルシアとのイチャコラがいちいち萎えるのだ。
ウィノナ・ライダーだったら、ニョッキを作りながらのラヴシーンももうちょっと絵になったと思うんだけどな。ラストの悲劇もさらに盛り上がっただろうに。
あとは、マイケルの義兄トム・ヘイゲン役のロバート・デュヴァルがギャラのことで折り合いがつかず出演しなかったのが痛い。
ロバート・デュヴァルは一~二作目の劇中で時代によってヅラを着けてたり外してたりしてるのが可笑しくて、トムはわずか数年の間にストレスでハゲたのかな、なんて思いながら観ていた。
三作目では彼の代わりに息子が登場するけど、やはり三部作のラストを締めるのに、血は繋がらないがマイケルからもっとも信頼され、これまでにずっと重要な役割を果たしてきたトムは絶対に不可欠なキャラクターだっただろう。
彼の不在は本当に残念だった。
それから、前半にブリジット・フォンダが出てくるけど、ヴィンセントと一夜をともにして暴漢に襲われたあとは映画から消えてしまう。
一体なんのために出てきたんだ。なんかただの脱ぎ要員扱いだった。
今回、ヴィンセントたちに殺される敵がコワモテのギャングではなくてヴァチカンの司祭とか銀行の頭取とか政治家とか、何やらあまり迫力のない連中ばかりだったこともこの『PART III』がイマイチだった理由なんじゃなかろうか。
それでも、個人的にはこの『PART III』は唯一映画館で観た、という思い入れもあるし、内容的にも嫌いにはなれないんですよね。
一作目で、殺されてしまったあとに実の父であるヴィトから「あれはドンの器じゃなかった」と言われてしまうソニーだったが、そんな彼の息子であるヴィンセントがマイケルのあとを継いで三代目のドンになるという運命の悪戯。
このあたりなんか、シリーズを通して観ていると結構グッとくるものがある。
『荒野の七人』や『続・夕陽のガンマン』(感想はこちら)のイーライ・ウォラックがマイケルを亡き者にしようとするドン・アルトベロを演じているけど、最後に彼はマイケルやヴィンセントではなく、名づけ子であるコニー(タリア・シャイア)に殺される(コニーがアルトベロに差し出された毒入りのカンノーロ*3を食べても死ななかった理由がよくわからないが)。
マイケルの妹のコニーは前二作ではトラブルメイカーで何かと兄のマイケルの手を煩わせていたが、三作目の彼女はこれまでの冷酷さを失って病気に苦しむマイケルを支え、ヴィンセントに殺しを命じる貫禄のある“女帝”になっている。
キャラクターたちのこの力関係の変化は非常に新鮮だった。
三作目のマイケルは兄フレド殺害の罪の意識に苛まれている。
これまで犯してきた罪のツケがマイケルに襲いかかってくる、ということでは、非常に古典的な因果応報の悲劇である。
このシリーズをものすごくつまらなく要約すると、「間違った価値観に基づき間違った方法で自らの野望を実現しようとした男が破滅する話」といったところだろうか。
家族を守り、家名を守り、かつて父が語ったように裏の世界から合法的な表の世界へ這い出ることを夢見ていた男は、しかしそれまでの罪の深さによって罰せられる。
一作目でヴィトがタッタリアは「小物」でソニー殺しとすべての黒幕はバルジーニだと見抜いたのと、三作目でマイケルがジョーイ・ザザ(ジョー・マンテーニャ)はただのチンピラで黒幕はアルトベロだと気づく、という展開はよく似ている。
三作目は意識的に一作目をなぞっているところがある。
しかし、マイケルは父ヴィトのようにはなれない。
『PART II』でケイからは「そうよ、あなたはけっして負けない」と言われた男は、息子のオペラ歌手デビューという晴れがましい場所で目の前で愛する娘の命を奪われて我を失って泣き崩れる。
孫と遊びながら倒れてそのまま息絶えたヴィトと独り寂しく椅子に腰掛けながらこと切れるマイケルはその最期もよく似ているが、マイケルの心の中からは死ぬまで孤独感が消えず、慚愧の念に堪えなかったに違いない。
ラストはかなり性急な気がしたが、カタストロフというのは突然やってくるものだ。幸せの絶頂からの急転落。
「いい人」になろうとしたけど、遅かった、と。
こうしてついに、マイケル・コルレオーネの死とともにサーガは幕を下ろす。
すべてを手に入れたはずの男はすべてを失って土に還る。
一作目、二作目だけでも十分だけど、三作目を観ることでようやくコルレオーネ家の物語は完結する。
その後もドンになったあとのヴィンセントの物語やレオナルド・ディカプリオがソニーの若い頃を演じる四作目が企画されたりしたようだけど、原作者のマリオ・プーゾの死によって幻に終わった。
僕はそれでよかったんじゃないかと思います。
ちょうど僕にとって「ガンダム」といえばアムロ・レイが主人公の第一作目の“ファーストガンダム”であって、その後の続篇はすべて別物であるように、「ゴッドファーザー」はマイケル・コルレオーネの物語だ。
そして、「偉大なる父」の存在によって生かされ、何人もの人を殺し、そして死んだマイケルは、理想の父親像、理想の家庭像を求めて彷徨する人間の姿そのものなのではないか。
※ソニー役のジェームズ・カーンさんのご冥福をお祈りいたします。22.7.6
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