吉田大八監督、宮沢りえ、池松壮亮、小林聡美、大島優子、田辺誠一、近藤芳正、平祐奈、石橋蓮司出演の『紙の月』。2014年作品。PG12。
原作は角田光代の同名小説。
The Velvet Underground & Nico - Femme Fatale
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1994年。銀行の契約社員の梨花(宮沢りえ)は大口の顧客である平林(石橋蓮司)との契約をまとめるが、既婚者でありながら平林の孫で大学生の光太(池松壮亮)と関係を持つ。そして、光太に借金があることを知った彼女は顧客の金に手をつけてしまう。やがて梨花の横領はエスカレートしていく。
ストーリーのネタバレがありますので(あらすじの時点ですでにカマしてますが)、ご注意ください。
『桐島、部活やめるってよ』(感想はこちら)の吉田大八監督の新作ですが、昨年の劇場公開時に観逃してそのままになっていました。
『桐島』がよかっただけに、その次の作品ということで逆にちょっと身構えてしまったから、というのもある。
で、DVDでようやく鑑賞したわけですが。
原作は未読です。
ただ、映画版の前にNHKで放映されたTVドラマ版はチラッとだけ観ていて、そちらでは主人公の梨花役は原田知世でした。
大金を横領するヒロイン役に原田知世、というキャスティングが意外だったこともあって覗いてみたんですが、途中で興味を失って結局最後まで観ませんでした。
だからどんなお話なのかはよく知らずに映画を観た。
大筋ではTVドラマ版も映画版も似たような設定、ストーリーではあるけれど、こまごまとしたところがずいぶんと異なっていて映画版は登場人物の人数がかなり絞られているし、何よりもオリジナルのキャラクターがいる。
これが小林聡美演じる先輩行員と大島優子演じる同僚という、映画の中ではかなり重要なキャラたちなので、彼女たちが原作にはいない、と鑑賞後に知って驚いた。
そうすると、ほとんど別の作品になってるということじゃないか。
僕が覚えているTVドラマ版と映画版の相違は、梨花と夫の関係でした。
TVドラマ版の梨花の夫(光石研)はあからさまに妻を見下していて、事あるごとに自分が経済的に彼女を養っていることを強調し、自立を目指す妻がいかに社会的に無力であるかを皮肉めいた言葉と態度で示し続ける、典型的なモラハラ男である。
梨花が次第に夫婦生活でストレスを溜めて若い男との情事に走る理由がわかり易く描かれている。
一方、映画版で田辺誠一が演じる夫はそこまで極端に嫌な男ではなく、確かに妻からペアで腕時計をプレゼントされたばかりなのにまるでそれを拒むかのようにわざわざ別の高価な時計をプレゼントし返したり、上海への転勤が決まると妻の都合など考えもせずに彼女が当然ついてくるものと思い込むような無神経なところはあるが、それでもその言動は決定的に問題がある人物というふうには描かれていない。
それゆえに、映画版の梨花がどうしてあのような行動を取ったのか不明瞭、という批判もある。
わずか1万円の立て替え(それだって許されないことだが)から200万の横領という“ぶっとび”方も、納得するのはなかなか難しい。
それは観ていてずっと気になるところで、そもそもの動機がよくわからない。今の生活に不満があってやった、という単純なことではないように思える。それは一種の「謎」としてこの映画全体を覆っている。
冒頭から時折挟まれる女子校時代の回想が彼女の行動原理についての種明かしにはなっているが、自分のではない「人の金」で「自由」を得ようとする彼女の心性は最後まで理解し難く、ずっと異質な存在として映る。
中学生時代の梨花を演じる平祐奈(平愛梨の妹)は、りえさんと同じ場所に付けボクロしてます。
このため、梨花が浮気を越えて本格的に若い男を囲い始め、他人の金を自分の欲望のために使いだしてそのクズ大学生とはしゃぎ続ける姿が延々映しだされると、場面の浮かれぶりとは相反して観ているこちらは嫌悪感しか抱けず、かなりイラつかされた。
彼女の「自由」を求める方法が根本的に間違っているのだから、溜飲の下げようがない。
おそらくは、罪を犯した女性が最後に警察に突き出されておしまい、みたいな勧善懲悪な結末にはならないだろうから、この苛立ちをどう解消してくれるのだろう、とそのことばかり考えていた。
僕が個人的にこの映画に嫌ァ〜なものを感じてしまったのは、この根底の部分で理解できないヒロインと、もう一つは彼女が勤める銀行での描写がなんともリアルだったから。
いや、銀行で働いたことはないですが。
でもあそこでの同僚や先輩、上司たちとのやりとりというのは、銀行以外の職場でも日常的に繰り広げられているものではないか。
同僚の相川が忠告する「みんな、そ知らぬふりをして互いに服装や振る舞いをチェックしあっている」という言葉なんかも、あぁ怖ぇ(>_<)と思ってしまうがその通りだ。
大島優子のあのちょっと軽めにふるまってるけど決定的なミスは犯さずなんでも要領よくこなしてしまうしたたかな女子とか、勤続25年で優秀な人材にもかかわらず上司からないがしろにされるヴェテラン行員など、どれも見覚えのあるタイプの人たちだ。
その中で、まだ経験が浅いからということもあるが常にどこか張りつめていて余裕がない生真面目な梨花の様子を観ているだけで、胃が痛くなりそう。
あれではストレスだって溜まるだろう。
しかし、なぜそうまでして頑張って働かなければならないのだろう。
夫婦には子どもはおらず、夫もそれなりに稼いでいて経済的に困っているわけではない。妻がその気なら夫には子作りの意思もある。何が不満だったのか。
専業主婦だった彼女が再び仕事を始めた理由は、映画ではハッキリしない。
大島優子演じる相川から「どうして銀行だったんですか?」と尋ねられて「張り紙を見て、できるかなと思って」みたいなこと言ってるけど、答えになっていない。銀行員ってそんな簡単になれるもんなのか。*1
ハッキリ言えるのは、梨花は今の自分が「自由ではない」と思っていること。
人に善行を施して「喜び」を感じることに飢えていた、ということ。それだけはわかる。
もっとも彼女の中の「善行」というのは、あくまでも“自分が満たされた気分になるためのもの”でしかないが。
彼女の「喜び」、彼女の「自由」は、自ら築き上げてきた信用を切り崩し、人々の信頼を裏切り続けることで得た偽りのものだった。
原作を読んでいないしTVドラマ版もちゃんと観ていないのでそれらとの比較はこれ以上できないけれど、映画版は小林聡美が演じる隅という先輩行員が探偵役になって梨花の悪事を暴いていくという展開になっていて、視聴者のこちらは追われる梨花と追う隅の二つの立場に分裂して観ることになる。ここは大いに映画的な興奮がありました。
隅はいわゆる「お局様」的なポジションのキャラだが、ありがちな漫画的に誇張された憎まれ役ではなくて、彼女がわかり易い形で横暴な振る舞いをすることはない。
むしろ近藤芳正演じる次長から暗に退職を勧める理不尽な異動を命じられても怒りを露わにせず、「行くべきところに行くだけ」と恬淡とした態度で臨むような女性で、梨花とは対極的な立ち位置でありながら「真面目」という点では共通する部分もあり、梨花の理解し難い行動についてその心の中を想像してみようとする、いわば観客側の人物。
また、大島演じる相川も単なる今風のおねぇちゃん、といったような表面的な描き方ではなくて、そのあまりにあっさりとした退場のしかたも含めて小気味良さすら感じてしまう、意図的にではなく梨花を犯罪へと誘導していく文字通りの小悪魔的な魅力を発散している。
大島優子が思ってた以上に演技が達者なのにはちょっとビックリしたんですが。
相川の場合は、梨花の内面を代弁してみせるキャラクターとしての役割を果たしている。「みんなやってること」。彼女もまた隅同様に梨花のある一部分を共有しているのだ。
この二人の映画版オリジナルのキャラクターたちの投入によって見事なアンサンブルが成立して、おかげで僕のように梨花に共感するのが難しい人間でも映画への興味が失せることがない。
さて、これは宮沢りえさんご本人を侮辱しているわけではなのでくれぐれも誤解しないでいただきたいんですが、この映画を観ていてどうしても感じずにはいられなかったのが、「あぁ、リハウスの白鳥麗子が、『ぶっとびー』とか『ゲロゲロ〜』とか言ってたあの女の子が、大学生と付き合うくたびれた顔の40代女性になったんだなぁ」という感慨というか、時の流れの残酷さのようなものだった。
まだ激痩せする前の、ムチムチしていた頃の10代の“りえちゃん”をリアルタイムで知っている世代は少なからずそのような感情を抱くのではないだろうか。
もちろん、この20年以上の間にさまざまな経験を経て変化した彼女には女優としての実力や人としての強さと魅力が増していて、そこに新たな美しさを見出すことはできる。
それでも僕はこの映画の中のやつれた顔のりえさんを見ていて、いたたまれない気持ちになったのだった。
いつの頃からだろう、宮沢りえという女優に痛みや儚さを感じるようになったのは。
とんねるずの番組で乳首指差して「お豆どーこだ♪」とか言ってた頃の彼女には、まだそんなものは感じなかった。
それはちょうど、漫才師でありながら怖さの塊にも感じられていたかつてのビートたけし(北野武)に、やがて手負いの動物のような「傷ついた者」の哀しみを感じるようになったのに似ている。
何か「守ってあげなければ」と思わせる風情というか。
「りえ」も「たけし」も80年代はトバしていた。
今、二人の顔から滲み出てくる「疲れ」のようなものは(実際の彼らがほんとに疲れているかどうかはともかく)、人生の勲章であり、それゆえ愛おしさのような感情さえ湧いてくる。
だって、あの宮沢りえがタモリの「ヨルタモリ」で和服姿のバーのママ役があんなに似合う女性になるなんて、かつては誰も想像もしなかったでしょう。
健康的な肢体はやがて痩せ細り、頬の丸みも消えてまるでネコのような瞳がひときわ目立つようになった。
この『紙の月』でもしばしば梨花=宮沢りえの、まるで彼岸を見つめるような眼差しが映しだされるが、それはもう、言葉では形容し難いような「目」なのだ。
それは「今」の彼女が獲得した、見る者を一瞬凍りつかせるような魔力を秘めた「目」だ。
この映画の梨花というヒロインを宮沢りえに演じさせようとした吉田監督は、「よくわかってる人」だと思う。
バブルの時代に世に出てきた宮沢りえが、バブルもはじけた1994年を舞台にした映画で20代の青年に貢ぎまくる40代のヒロインを演じるということ。
宮沢りえよりも年上の原田知世には、彼女のような「痛ましさ」はないのだ。
原田知世は40代後半にして今なお少女のような透明感を残している稀有な女優の一人だが、宮沢りえが池松壮亮演じる大学生の前で見せるその少女っぽさと彼女の外見には隔たりがある。そこが観ていて堪らなく辛かった。
だからこの映画には、宮沢りえだからこそ出し得た凄みがある。
梨花という女性にまったく感情移入できないのに僕がこの映画に見入ってしまったのは、演じる宮沢りえの「顔」が何よりも雄弁にすべてを語っていたからだ。
どうしていきなり若い男との情事に走ったのか。
途中で思いとどまっていれば取り返しのつかないところまで行く前になんとかなったかもしれないのに、どうして彼女は「走り」続けたのか。
宮沢りえの「顔」を見れば、説明は要らない。
銀行の二階の窓をぶち割った梨花は、どうやってそこから地上に飛び降りたのか。
億単位の金を横領した女が警察に捕まらずにどうやってタイまで高飛びできたのか。
だからこれは、現実的にありえるかどうか、というようなことではなくて、すべては彼女のあの“疾走”ありきなのだ。
現実には「ありえないこと」をスクリーンの中で実現させてしまうのが「映画」なのだから。
光太と一夜を明かしたその帰りに、電車から降りた彼女は空に浮かんだ月を見る。
その月は指で擦ると消えた。ニセモノの月だ。
私の人生はすべてニセモノ。
これもまた強引に宮沢りえに引き寄せれば、これは「女優」という人生そのもののことではないか。
ニセモノの書類を自分で作り、ニセモノの保険で人を騙し、紙切れにすぎない金を手に入れてそれを使う。
「映画」や「演劇」は作り物のニセモノだらけだ。それで成り立っている。
無論、女優という職業は詐欺師や横領犯とは違う。
何よりも、こうやって「映画」という形あるもので僕たち観客を楽しませてくれる。
しかし、「映画」というものもまたスクリーンの中の幻である以上、どこか哀しみを伴うものでもある。
僕たちは幻を見ている。
ちょうど石橋蓮司演じる平林老人が梨花の「楽しまれてはいかがですか」という勧誘の言葉に心動かされたように、僕たちもまた「幻」を見て泣いたり笑ったり楽しんでいる。それは彼女がやってることと何が違うのだろう。
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*1:原作では、結婚前にカード会社に勤めていたのでその流れで、みたいな理由のようだが。