映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

※2019年の“はてなダイアリー”終了に伴い、2018年9月にブログを移行しました。

「幕が上がる」

今回は珍しく小説の感想を。

先日映画版を観た、劇作家・演出家の平田オリザによる青春小説「幕が上がる」。

文庫本で読みました。

幕が上がる (講談社文庫)

幕が上がる (講談社文庫)

上級生たちが引退した演劇部で高橋さおりは新しい部長に選ばれる。そして新学期、副顧問に迎えた吉岡先生の指導の下、演劇部のメンバーは北関東ブロック大会を目標に掲げて稽古に励む。高校演劇の強豪校からの転入生・中西さんも加わって、次第にそれまでは難しかった県大会出場も夢ではなくなっていく。


ももクロ主演の映画の感想はこちらをどうぞ


本の感想とともに、ところどころで映画版との比較もします。

すみません、ちょっと長いです。

当然ながらストーリーについても述べますので、小説を未読、また映画を未見のかたはご注意くださいませ。


平田オリザさんの初めての小説ということですが、主人公・高橋さおりの一人称で書かれていて、感触としてはなんだか女の子のブログでも読んでいるみたいでした。小説を読むのが苦手な僕でもわりとスラスラ読めたのは、そういう理由も大きいと思います。

この作品については、いつも記事を拝読しているかたのレヴューによって映画よりもまず原作の方を先に知ったんですよね。

ただし本を買ったのは映画を観たあとだったので、結局「映画→原作」という順序でしたが。

でもそれがよかったと思います。

原作を先に読んでしまうと、その印象が強くて特に長篇だとどうしても2時間ぐらいに収められた映画の方がダイジェストっぽく感じられてしまいがちなので。

映画のあとに原作を読んだ方が作品に広がりが感じられて、僕はよりハマれることが多いのです。


この小説は「高校演劇」、そこで毎年行なわれる「大会」を描いています。

僕は高校時代に演劇部に所属していたので、ここで言及されている地区大会や県大会、ブロック大会に全国大会、といったものも知ってました。だから、これまで小説でほとんど扱われたことがなかった高校生の演劇大会がどのように描かれるんだろう、と興味を持ったのでした。

もっとも僕自身は県大会出場の経験すらなくて、3年の春頃に引退した直後に残った同学年の子たちや後輩たちが地区大会を勝ち残って県大会に進出することが決まって、「俺はいらない子だったんだな…」と独りヘコんだりしたクチなんですが(まぁ、OB風吹かせて観にいきましたけど)。

この「幕が上がる」の中でさおりが「弱小」と自嘲を込めて言っている演劇部は、僕なんかに言わせれば全然弱小じゃないです。

作品の冒頭では3年生たちが引退したために部員の人数が廃部になるギリギリの5人になってしまうけど、それでも彼女たちには明らかに潜在的な才能がある。

彼女たちに教える吉岡先生は何度も「そう簡単に演技は巧くならない」「演技の巧い子が2〜3人いれば勝てる」と言う。

だから、勝てる見込みがある子たちがどうやったらより確実に勝てるのか、という物語なのですね。

ちなみに映画版の舞台は静岡で高校の名前は「県立富士ヶ丘高校」だけど、原作小説では舞台は北関東(多分、群馬)。学校名は出てこない。*1


さてこの作品、確かに「小説」ではあるんだけど、読んでるとまるで平田オリザさんの演劇における「演出論」「演技論」のようにも思えてくる。

映画版では「弱小」だった演劇部がどのようにして県大会まで上りつめるのか、いかにして他の高校に「勝った」のかは実のところよくわからないんです。

なんとなく観てるうちに、先生にハッパかけられてみんなが一致団結して地区大会も見事通過、みたいな展開になっていくんだけど、小説の方ではこれがかなり詳しくその過程が描かれている。

僕が「女の子のブログみたい」と感じたのもこれがいかにもな山あり谷ありの物語然としたお話ではなくて、さおりが経験する演劇漬けの毎日をまるで日記のように記述しているから。

全国大会出場を目指して(といっても、3年に進級したさおりたちは翌年行なわれる全国大会の決勝には出られないのだが)芝居の稽古や学内の公演、合宿などを通してさおりと中西さんの友情、そして部員たちの絆が深まっていく様子が描かれていく。

そこが「青春小説」の所以でもあるんだけど、こと「演劇」に関しては熱血とか汗とか涙とか、そういう精神論的なボンヤリしたものではなくて、「こうやったから勝ち進めた」というそのプロセスが記されている。

高校演劇の県大会やブロック大会の常連校はなぜいつも勝ち残れて、ダメなところはなぜいつもダメなのか。

俳優はどのように演じれば「巧く見える」のか。またいい芝居を作るためにはどんなふうに台本を書き、どのように役者を演出すべきなのか。その方法論が具体的にさおりの目を通して語られていく。

もちろんこれは高校生を主人公にした青春物のフィクションだから、高校演劇で勝つためのハウツー本ではないんだけど、さおりたち演劇部の副顧問となる吉岡先生はほとんど平田オリザさんの分身といってもいい。

他にモデルはいるのかもしれないし、女性である吉岡先生の細かいキャラ付けに関してはともかく、演劇についての彼女の持論はほぼ平田さんの主張していることと同じと考えていいんじゃないだろうか。

さおりは、中西さんとの会話の中で「静かな演劇」について読者に紹介したりもする。その「静かな演劇」の代表格が平田オリザその人。

また、登場する高校生たちも、これまで平田さんが講師として教えてきた学生さんたちがモデルなんだそうです。

吉岡先生は「高校演劇」をただ思春期の美しい想い出に終わらせるようなことはなくて、まるで人生を懸けた挑戦のように臨むことを部員たちに要求する。

ただ闇雲に意味もわからず稽古を繰り返したからといって、大会で勝てるわけではない。勝つためにはちゃんとした理論とその応用が必要。

思えば、僕なんかも「演劇」のことをなんとなく漠然と「芸術活動」だと思っていたわけだけど、そして紛れもなくそうではあるんだけれど、どんな芸術にもまず基礎があるように、なんの訓練も受けていない高校生が舞台でただ思いのままに演じてみたって、演出家ヅラしてただ「気持ち」で感覚的に役者に指示を出したって、それが「優れた作品」を生みだしたり観客の心を掴むことには繋がらない。

巧くなるためには、まずは巧い人の真似をしなければならない。

さおりは吉岡先生に感化されて、無意識のうちに彼女の喋り方や演出方法を真似るようになっていく。そしてその効果はテキ面で、合同の合宿で他校の部員たちにも尊敬の眼差しで見られることになる。

だからここで描かれている「演劇」というのはどちらかといえばスポーツに近くて、こうやったらこういう効果がある、というふうに、そこには綿密な計算とそれを実践する技術力が必要なのだ。

またスポーツの場合、監督(顧問)が選手たちに細かく指示を出すのは別に普通でなんの不思議もない。

僕個人は「勝ち負け」にこだわる価値観が苦手なんで(要は負け犬ってことですが…)スポーツにもギャンブルにもまったく興味を持てないんですが、でも「演劇」での勝ち負け、ってのは、ようするにその芝居が観客にちゃんと届いて評価され、作り手の努力が報われるかどうか、ということを意味しているんだろう。

自己満足ではなく、しっかりと相手(=観客)に“作品”を伝えられるかどうか。

会ったばかりの生徒の名前をしっかり覚えている吉岡先生。それはまさしく演出家の姿である。

演劇というのは人と人とのコミュニケーションがまず根底にある。*2

人に対する興味。基本にそれがないと芝居は観客に届かない。

逆にいえば、部員とか劇団員などの煩雑な人間関係を巧くさばいたり、観客の反応を意のままに操ることに快感を覚えるようなタイプの人でなければ演出家など務まらないんだろう。

演劇部員たちは宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」を基にしてさおりが書いた台本の中で、星たちになぞらえられる。

彼女たち芝居の出演者を指揮するさおりは、まるで“星たちのコンダクター”だ。

宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」は昔から高校演劇では定番のテキストで、ストレートに原作通り、またはさまざまなアレンジを施されて各校で上演されている。

平田オリザも「銀河鉄道の夜」を舞台化している。


ところで、劇中で吉岡先生はブロック大会に向けたカリキュラムを組み、部員たちにテキストを配り、課題を出す。

まるで演劇の講習みたいなのだ。部活の内容にかなり口を出している。

僕がいた演劇部では、吉岡先生のように学生演劇の経験者だった顧問の先生(平田オリザさんとほぼ同世代)が演技についてアドヴァイスをくれたり時に個別で指導してくれることもあったけれど、基本的には生徒主体で部活を運営していくやり方をとっていて、顧問が吉岡先生のように大会に向けて部員たちに何から何まで細かく指示することはありませんでした。

これは目的が「大会で勝つため」なのか、それとも「生徒たちの自主性を第一に重んじる」ことなのか、の違いかもしれない。

高校の演劇部はプロの演劇人の育成機関じゃないんだから、部員たちがやりたいようにやらせてやればいいじゃないか、というのも一理あるし、僕はそういう環境にいたので、一見自由ながらも吉岡先生を頂点として統率のとれた集団である「幕が上がる」のさおりたちの姿にはカルチャーショックを受けたのです。

そもそも「巧い役者が2〜3人いれば“勝てる”」という発想自体が僕にはなかったから、目から鱗でした。

でもそれこそ全国大会まで行くような学校というのは、ほとんどが吉岡先生のような考え方、やり方だったんでしょうね。

大会の会場で、県大の常連の男子校演劇部の顧問や副顧問が部員たちに激しい叱責を浴びせているスパルタ場面をよく見たし、それはほとんど体育会系のノリで、仲良しクラブ的な和やかな雰囲気など皆無だった。*3

さおりたちもまた、受験を間近に控えて貴重な時間を高校演劇に捧げることを選択する。大学に進学したり演劇の道に進んだりと、部員たち一人ひとりにそれぞれの目標がある。だけど今はブロック大会に向けて頑張る。それぐらいの覚悟で臨んだということ。

高校生の彼女たち(男の子もいますが)の頑張りぶりに、読んでて恥ずかしくて消え入りそうな気分でした(^_^A

高校時代、僕はこんなふうに精一杯頑張らなかったし、情けないことだけど今まで生きてきた中でも彼女たちほど努力した経験はない。


映画版では、さおりが台本に行き詰って白昼夢まで見る場面をかなりコミカルに描いているんだけど、原作では参考のためにさまざまな本を読んでみるがどれもピンとこなくて、吉岡先生から「“銀河鉄道の夜”自体が骨格がしっかりしたドラマティックな物語なのだから、あとは登場人物に自分たちのとりたてて劇的ではない日常をかぶせていったらどうか」とアドヴァイスを受けて、ひとまず仮の台本を書き上げる。

台本の第一稿が上がってもそれで終わりではなく、さおりはさらなる生みの苦しみを味わう。吉岡先生は劇作家・北村想の「想稿・銀河鉄道の夜」まで持ちだしてくる。

お芝居の台本なんてそんなすぐには書けないし、たとえ最後まで書けてもそれをちゃんと上演できるものにするにはさらなる研磨が必要になる。

ここでもさおりの苦闘とともに、彼女たち演劇部が実際にどのような芝居を作っているのか具体的に語られている。

そのあたりが映画版では大幅に割愛されているので、さおりたちが作ったのがどんなお芝居なのか、それがなぜ地区大会の審査を通過できたのかもわからないのだ。

吉岡先生のシゴキも、映画では蜷川幸雄ばりに灰皿を投げる、というさおりの妄想シーンでマンガっぽく処理されてるけど、原作での吉岡先生はもっと部員たちに容赦ない。厳しいというのはこういうことだ、といった感じ。

といっても、エキセントリックに怒鳴ったりするのではなくて、あくまでも彼女の経験に基づきすべて理詰めで教える。この台本のどこに問題があるのか、台本書きに行き詰ったらどうやって打開すればいいのか。

“答えは稽古場に転がっている”。

このような原作のロジカルな部分は映画版の方ではほとんど取り入れられておらず、ももクロのメンバーや若い女優たちが演じる演劇部員たちの初々しさなど、青春物という“情緒”の方に重きを置いている。それはそれで僕は好きなんですが。

映画化に際しての脚色もなかなか面白くて、たとえば原作から一番キャラが変わっているのは転入生の中西さんだと思うんだけど、ちょっとクールビューティな中西さんは原作では最初から高校を卒業したら演劇の道に進むつもりでいる(3年生での転校の本当の理由はよくわからないんですが)。

映画版ではおそらく演じるももクロ有安杏果のキャラに合わせて、演劇の名門校でのプレッシャーに耐えかねて転校したことになっている。有安杏果は「さ行」の発音が苦手なので「滑舌悪いじゃないですか、私」という台詞もあって、その時のさおりと中西さんが心を通じ合わせる駅のシーンは映画版ならではの見せ場になっている。

原作の中西さんのキャラは、映画版のオリジナルキャラである卒業後に東京の劇団に入った杉田先輩に受け継がれている。この先輩との再会場面は原作でさおりが劇団員の長島さんと会う場面から取られていて、こうやって複数のキャラが一人のキャラに統合されたり、その逆パターンだったりして、僕は映画版は映画版でなかなか巧く処理しているなぁ、と思いました。

ガルルが映画版では平仮名表記の“がるる”になってるのがちょっと不思議だったけど。なんか“るるぶ”みたいw

原作ではそれなりに重要な登場人物の一人でもある2年生の“わび助”*4が、映画では完全に存在そのものを抹消されてるのがお気の毒。まぁ、余計な男子&恋愛要素はいらない、って判断だったんでしょう。


また原作には創作の喜びについても綴られていて、さおりが合宿の時のエチュードで味わう、自分が書いた台本、台詞が部員たちによって声に出して読まれていく時の言い様のない快感は、たとえアマチュアだろうと一度でも創作活動に携わったことがある人ならよくわかるだろうと思う。

1人が「作品」すべてをかっちりと作り上げるのではなくて、部員全員のアイディアや即興演技によってまとめていく、文字通りの「集団創造」。

言うのは容易いけど、こういうやり方って実は結構手間がかかるし、*5執筆担当者がよっぽど神経を研ぎ澄ませて細やかなことも見逃さずにすくい取らないと、すべてが雑然としてとても1本の作品にはまとめられない。当然ながら、そのために部員全員が根気よく協力し合わなければならない。

そういう面倒臭いことを楽しんでやれる人たちだけが、ほんとに「創作活動」に向いているんだろう。

映画版でも吉岡先生(黒木華)の台詞でちょっと触れられていたけど、演劇というのは偶然に頼るのではなく、公演中に同じ演技を何度も繰り返し正確に行なわなければならない。そのために入念な稽古をする。

僕は映画が好きなんですが、映画というのは演劇(というか、平田オリザさんが提唱する、かくあるべき“演劇”*6)とは違って、偶然キャメラに映り込んでしまったものが素晴らしい効果を発揮することもある。

「演劇」は“ライヴ”だけど、「映画」というのはフィルムに写し込まれて一度は死んだ映像を切り貼りして作った“編集”の産物だから。

確かに最初から偶然を期待して映画を撮ってもうまくいく保証はないが、すべてを計算通りに演出したからといって必ずしも魅力的な作品になるとは限らない。

隙だらけ、粗だらけだけど愛おしくて堪らない映画、というのはある。

だから、吉岡先生=平田オリザさんの言葉にはとても説得力があるんだけど、それでも創作物において彼らの考え方が100%正しいとは僕は思わないんですよね。

「演劇」に限っても、「静かな演劇」に相反するようなわざとらしい大仰な演技によるお芝居が面白いことだってままあるので。

最近、生で舞台演劇観てないから偉そうなこと言えませんが(十分言ってますが)。

ただ、けっして天才ではない役者を訓練するテクニックとして、平田さんの方法論は大いに有効でしょうね。

いえ、平田さんが主催されている劇団のかたがたのことではなくて、この小説の中での演劇部員たちと同じく演技力が突出しているわけではなくても、ちゃんと体系だった訓練を経て稽古を積めば明らかに成果はある、ということ。

女子高生が主人公の青春小説という形をとって、ほとんど啓蒙書のようにそのことを説いている。


後半になるに従って、文化祭、地区大会、そして県大会(その前に“ある別れ”も)と、順繰りにほとんど毎日の出来事が記述されていく。

高校演劇の経験者にとっては、分刻みで描写される会場見学や緊張感溢れる本番直前の様子、顧問と部員全員、家族も巻き込んで一丸となって大会に臨む高校生たちの姿が懐かしいだろうし、こういう世界があることを初めて知った人には新鮮でしょう。

さおりたちの高校演劇部は、ただの「運」などではなく、行くべくして県大会に行く。

でも県大会に臨む演劇部にはもう、かつて彼女たちを「ブロック大会までは連れていけると思う」と言っていた吉岡先生の姿はない。

「弱小演劇部」に可能性を示して導いてきてくれた吉岡先生は、自らの可能性に懸けて旅立つ。

県大会、それはさおりたちにとって先生からの巣立ちでもある。

私たちは、舞台の上でなら、どこまででも行ける。

他人が作ったちっぽけな「現実」なんて、私たちの現実じゃない。

終盤のこのくだりを読んでて、映画『桐島、部活やめるってよ』(感想はこちら)を思いだした。*7

『桐島』で、映画部の部長・前田は顧問の先生から半径1メートル以内の「リアル」な世界を舞台にした映画を作るように言われて、反発を覚える。俺にとっての「リアル」はゾンビ映画だ。先生が言ってるような「青春」なんて俺のまわりにはないんだから。

さおりたちが作った芝居「銀河鉄道の夜」は、現実の世界をそのまま写し取った物語ではないけれど、宇宙を旅するジョヴァンニとカンパネルラの物語には演劇部員たちの1年間が詰まっていた。

それこそが彼らにとっての「リアル」だった。

そのことが今の僕にはよくわかる。


さおりは以前、「演劇」という宝物を大切にしない先輩たちに苛立っていた、という(原作では、さおりの先輩たちに対する印象はあまりよくない)。

かつて高校で演劇部にいた僕は、さおりのような演劇に心底打ち込んでいる後輩たちから軽蔑される先輩だった。*8その後輩たちの何人かは高校卒業後東京に行って劇団を立ち上げ、今もプロとして活躍している。

自分が精一杯打ち込めるもの、この先も本気で続けていきたいと願う、…いや、ただ願うだけでなく“祈る”ほどの存在を県大会の本番直前の舞台の袖でようやく意識したさおりは、自分が「どこまででも行ける切符」を持っていることに気づいたのだ。

しかし宇宙は果てしなく、どこまででも行ける切符を持っていてもその端にはけっしてたどり着けない。

人はみんな独りだ。でも宇宙から見ればみんな一緒。でもやっぱり独り。*9

だから不安なんだ。大人になることへの不安。それが私たちの現実。

18歳の少女たちを乗せた銀河鉄道は無限の宇宙に向かって走っていく。

嗚呼、僕は「どこまででも行ける切符」をどこに落としてしまったのだろう。


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*1:このため映画では地理的にいろいろ無理が生じている。茨城でやっている全国大会のボランティアに静岡から高校生2人で行ったり、東京まで部活で合宿に行くとか…結構な距離だし。

*2:だからなのか、僕がいた演劇部のOBやOGには保育士や介護関係の道に進んだ人が多い。

*3:その男子校の演劇部は、顧問も学生たちもどこかひねくれた人たちが多かった。芝居作りが巧いからといって人間として好きになれるかどうかはわからない、といういい例ですな。

*4:なんでこんな呼び名なのか説明が一切ないんですが。細田守監督のアニメーション映画『サマーウォーズ』に同名の登場人物がいるが、関係ねーか。

*5:僕の地元では、そういう創作方法で芝居を作っていく高校演劇の名門女子校があった。

*6:平田さんがお芝居を作る過程は、実写映画よりもむしろすべてを作り手の意図した通りに描く“アニメーション”に近いのではないか、と思う。

*7:『桐島』と『幕が上がる』の映画版はいずれも喜安浩平が脚本を担当。

*8:10年近く前に母校の演劇部の文化祭公演を観にいった時、再会した後輩の一人は僕の顔すら覚えていなかった。当時の部活でのニックネームを告げると「あぁ、やたらとダメ出ししてた人ですね。しんどかったです」と冷たく言われた。10年ぶりぐらいに会ってそれだけか…。

*9:映画版では、ここを中西さんのエピソードと結び付けていた。巧い脚色だと思う。