「午前十時の映画祭11」でリドリー・スコット監督、ラッセル・クロウ主演の『グラディエーター』を鑑賞。
未公開シーンを追加した「完全版」は171分あるそうだけど、残念ながら今回上映されたのは最初に公開された時と同じ155分の劇場公開版。
以前感想を書いているので内容について細かくは触れませんが、2001年の劇場公開時以来21年ぶりに映画館のスクリーンで観られて、またちょっと涙ぐんじゃいました。
皇帝に愛された戦士と愛されなかった息子の物語。
ラッセル・クロウの武人ぶりには惚れぼれするし、スペクタクルシーンは最高に盛り上がる。20年以上経っても作品が古びることなく、これからもまたファンを生み続けるでしょう。
大好きな映画ですが、一方で現実の世界で暴君が他国に攻め込んでいる中で観る本作品は別の感慨ももたらす。
去年公開されたリドリー・スコットの監督作品『最後の決闘裁判』は、自作『グラディエーター』をまったく違う角度から捉え直している。
『グラディエーター』の劇中でオリヴァー・リード演じる興行師プロキシモが奴隷剣奴=剣闘士(グラディエーター)たちに言い聞かせる「男らしさ」の正体が『最後の決闘裁判』の中で暴かれる。
男たちの「名誉や栄光」がいかなる犠牲の下に築かれていたのか。
現実の世の中では、マキシマス(ラッセル・クロウ)のような一人の“英雄”が暴君を倒して国を救うことなどない。現実の戦場は美しくもかっこよくもない。ハンス・ジマーの勇ましい音楽も流れない。この映画の中で「民衆」と呼ばれ、「パンとサーカス」に喝采して、どんな殺戮もひと月も経たないうちに忘れてしまう多くの人々、すなわち“私たち”こそが国を動かす。
『グラディエーター』という映画そのものが、最高の面子によって見事な技で作られた「サーカス」なんだよな。
「サーカス」に興じたあと、僕たちは現実を見据えてマキシマスとは違う方法で侵略や悪政と戦わなければならない。剣や槍ではなく、知恵と謙虚さ、慈愛によって。
「偉大なるローマ」とは何か。
独裁者や政治家たちに国が牛耳られて軍隊が他国だけでなく自国の民にまで銃を向ける国とは正反対な、真に「自由」が民の手にある国。
映画『グラディエーター』の主人公マキシマスは、土を耕し国を正しき道へと導こうとする者を象徴している。それは人々の声のことだ。そして人々の声に耳を傾ける為政者の理想像でもある。
民衆の声こそが暴君を倒し、無益な戦いを終わらせる。
今、現実の世界で私たちの正しき声が求められている。
さて、3月末で「午前十時の映画祭11」は作品がすべて上映し終わって、4月1日(金)から「午前十時の映画祭12」が始まります。
「ゴッドファーザー」三部作や「マトリックス」三部作、『8 1/2』『レイジング・ブル』『空の大怪獣ラドン』『蜘蛛巣城』など、計29本(アンコール作品7本)の魅惑的なラインナップで、特にフランシス・コッポラ監督が『ゴッドファーザー PART III』を再編集して去年一部の劇場だけで上映された『ゴッドファーザー<最終章>:マイケル・コルレオーネの最期』はぜひ観たいと思っています。
来月からも楽しみです。できれば上映開始時間をもっと遅くしてもらえると(8:30開始とか早過ぎるって^_^;)ありがたいんですけどね。
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