「午前十時の映画祭10」でフランシス・フォード・コッポラ監督、アル・パチーノ、マーロン・ブランドほか出演の『ゴッドファーザー』を鑑賞。1972年作品。
内容のネタバレを含みますので、まだご覧になっていないかたはご注意ください。
すでに以前、三部作の感想をまとめてざっと書いていますが、僕は映画館のスクリーンでこの1作目を観るのは初めてなのでとても楽しみにしていました。
あいにく今回は72年のこの1作目のみの上映でPART IIは上映されないのが残念だし、「午前十時の映画祭」は今年で終了ということで、往年の名作を劇場で気軽に楽しめる貴重な機会が失われてしまうのも大変惜しいですが、ともかく好きな映画がレストアされた映像と音響で堪能できて嬉しかったです。
さて、以前の感想にも書きましたが、ここで描かれる老“ゴッドファーザー”ヴィト・コルレオーネ(マーロン・ブランド)やその息子マイケル(アル・パチーノ)をはじめとする「男の生き方」というのはあくまでもマフィアとかギャングのそれであって、ヤクザ映画も流行った70年代の初公開当時ならばともかく、現在この映画で描かれる男たちの価値観や男女観を観客の僕がそのまま素朴に受け入れたり憧れることは難しい。
だから、これは古典悲劇とか歴史劇のような形をとって、その中で「家族」や「親子」を描いたものとして捉えています。
声の衰えからくる不安を口にして助けを求める名付け子の歌手ジョニーに「メソメソするんじゃない、女じゃあるまいし」 と言い捨てるヴィト、妻のケイ(ダイアン・キートン)からの追及に「仕事に口を出すな」と答えるマイケル。生きた時代は違っても父から子へ受け継がれるその価値観。
まぁ、“マフィア”というのは普通のまっとうな仕事じゃないから、口の出しようもないんだけど。
それにしても、これまでガンガン人を殺しているマイケル(ほとんどは部下にやらせているのだが)のことをそれでも信じようとするケイの気持ちが僕にはわからないし、PART IIである理由からふたりは別れることになるが(その後、それぞれ別の人生を歩んだあとの彼らについてはPART IIIで描かれる)、そもそも父親がマフィアのドンであるマイケルとどうして結婚する気になったのかも理解できない。彼の家の様子を見れば堅気ではないことは一目瞭然なのに。
「優秀な息子」マイケルは兄弟の中で父からもっとも愛され、その期待に応えようとし続けるが、やがて妻に恐れられ去られる。またPART IIIでは、息子アンソニーからもその生き方を否定されて距離を置かれていた。
この1作目では戦争から帰った真面目な青年のマイケルが冷酷なマフィアのドンになってゆくまでが描かれていて、老いてぶざまな姿を見せるPART IIIと比べて1作目や2作目の方が格段に人気があるのは、もちろん作品の出来そのもののせいもあるけれど、この2本が観客の悪徳への憧れを満足させてくれるからでもあるでしょう。ピカレスク・ロマンの側面を持っている。
たとえば、若きダース・ベイダーの物語を描いたスター・ウォーズのエピソード1~3を、ジョージ・ルーカスはこの「ゴッドファーザー」三部作のように撮るべきだったのではないか。
若い頃のアル・パチーノは皺のないその顔(明らかに80年代以降の彼とは異なる顔立ちをしている)と一見すると眠そうにも見えるまぶた、静かな狂気を孕んだ三白眼がとても印象に残るし、彼が演じるマイケルは比較的地味めの前半と髪をポマードで撫でつけてヴィトの代わりにドンの座についた後半とではずいぶんと雰囲気が変わっていて、その変貌ぶりも見どころの一つ。
この映画について「まとまりがない」とか「退屈」だのと批判をしていた人たちがいて、確かに病院でヴィトを敵対するファミリーの刺客から守ったマイケルはまだただ父親を愛する三男に過ぎないが、そこから長兄ソニーの死を経て身を隠していたシチリアから帰ってからは以前とはまるで別人のようになっていて、父の跡を継ぐことに抵抗がなくなり“ビジネス”に邪魔な者を殺すことにもなんの躊躇もなくなっている。
そこは僕も前から違和感があったけど、「優秀」だからこそ順応も早かったのだろうし、いつの間にかその世界に染まっている、というのは結構リアルなんじゃないかとも思う。
むしろ、これだけ連続TVドラマにできそうなほどヴォリュームのある要素をよく三時間以内にまとめたよなぁ、と感心する。
長尺にもかかわらず展開には澱みがなく、クライマックスはたたみかけるようなテンポで駆け抜けて、妹コニーの夫カルロ殺しで〆る。一見地味な殺人だが、身内までも手にかけたうえ妻には堂々と「殺してない」と嘘をつくマイケルの怖ろしさを観客に感じさせて、ケイの不安げな顔で終わる見事な幕引き。
まとまりがないどころか、とても効率的で素晴らしい構成と編集ですよ。
ちょっと前に観たセルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(感想はこちら)もそうだったように、劇場での初公開版からカットされていた場面やショットを加えた「ディレクターズ・カット版」というのがこれまでにさまざまな映画で作られているし、コッポラの『地獄の黙示録』にもいくつかのヴァージョンがあるけれど、この「ゴッドファーザー」シリーズは場面を時系列順に並べ替えて映画で未使用だったシーンを加えたTV放映用のものはあるものの、最終的に決定版となっているのは最初に公開されたもので、それらには余計な手は加えられていない。加える必要も削る必要もないから。*1
「名作」と呼ばれている作品が肌に合わなくて期待していたのに楽しめなかった、ということは僕もたまにあるし、映画の評価なんて人それぞれなので「名作」を批判したからといって必ずしもその人の評価が間違っているとも言い切れないんだけど、──これはなんだか選民思想的な物言いだし自分自身にも思いっきり跳ね返ってくるんであまり言いたくないですが──観る側の方にも作品の良さを理解する能力や素養があるかどうかも問題だな、とは思う。
マフィアを美化して描いていることに抵抗を覚えて倫理的に許せないからこの映画が嫌い、という人もいるようだけど、ヤクザ映画やマフィア・ギャング映画というのは劇中のならず者たちの姿に自分を重ねて日常の憂さを晴らす「娯楽」で、主人公になった気分で暴力の快感や悲壮感に酔うのがこの手の作品の目的でもあるのだから、それを根こそぎ否定してしまったら映画というものはずいぶんつまらなくなってしまう。そこんとこはある程度「そういうもの」として割り切って観ないとしょうがないでしょう。
ギャングを美化云々は似たようなことを僕も『ワンス・アポン~』の感想で書いたんですが、僕があの映画にノれなかった一番の理由は単純に映画として「面白くなかったから」で。
『ゴッドファーザー』は実話の映画化作品というわけじゃないし(一部実在の人物をモデルにしているところはあるが)、さっきから言ってるように「古典悲劇」とか「歴史劇」のように観るのが相応しいんじゃないだろうか。
お殿様とか王様を描いた古典的な物語に「下っ端や一般の人々が描かれていない」と文句をつけてもしかたがないのと同じで。
僕はマフィアのような生き方に憧れがあるわけじゃないし、ヴィトが唱える非常に旧弊な家族観や「男らしさ」にはまったく共感を覚えないしマイケルのことも嫌いだけれど、でも映画の素晴らしさにはなんの疑問もない。そういうことだってあるでしょう。
この『ゴッドファーザー』第1部はその後作られた他のいくつもの三部作の1作目と同様にこれ1本だけで単独の作品として成り立っていますが、でもやっぱりこれだけだとかっこよすぎるんですよね。
続くPART IIでマイケルは若き日の父ヴィトと比較されて、やがて妻ケイの愛を失う。さらには実の兄のフレドまでも自らの手で…。「偉大なる父ヴィト」のような人生は遠退いていくばかりだ。
その続篇あっての、この第1作目だと思うんですよ。予想通りまた観たくなってきちゃったなぁ、PART II。
※ソニー役のジェームズ・カーンさんのご冥福をお祈りいたします。22.7.6
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