監督・脚本:チョン・ジュリ、出演:ペ・ドゥナ、キム・セロン、ソン・セビョクの『私の少女』。
2014年作品。日本公開2015年。
ソウルから海辺の小さな村の派出所に左遷された警察官のヨンナム(ペ・ドゥナ)は、村で実の母親に置き去りにされ一緒に暮らす継父ヨンハ(ソン・セビョク)と義理の祖母から虐待を受けている少女ドヒ(キム・セロン)と出会う。彼女は学校でもイジメに遭っていた。ある雨の日、ヨンナムの家に暴力を振るう父親からドヒが逃げてくる。ヨンナムの再三の警告にもかかわらず、ヨンハはドヒへの暴力をやめようとしない。やがてドヒの祖母が“事故死”する。ドヒはこの日も父親と祖母に追いかけられて逃げていたと言うが…。
韓国映画は『サニー 永遠の仲間たち』(感想はこちら)以来ご無沙汰だったんですが、久しぶりに鑑賞。
劇場公開時に映画館で観られなかったので、DVD借りてきました。
僕はペ・ドゥナの出演作品を観るのは2013年のウォシャウスキー姉弟の『クラウド アトラス』(感想はこちら)以来2年ぶり、主演映画は是枝裕和監督の『空気人形』(感想はこちら)以来5年ぶり。
また、少女ドヒを演じるキム・セロンを見るのは2011年の『アジョシ』(感想はこちら)以来。
あの小さな女の子がこんな娘さんに成長して、と。
監督は女性ということで、性的マイノリティだったり虐待というものが女性監督の目でどのように見つめられて描かれるのか興味があった。
初監督作品ということですが、限られた空間、登場人物たちが織りなす物語を通じてリアルな社会問題を扱いながらもサスペンスフルな展開もあって、じっと見入ってしまった。
エンドクレジットで流れる主題歌もいい。
暴力や虐待というとヤン・イクチュン監督・主演の『息もできない』(感想はこちら)をちょっと思い浮かべたりもするけれど、「韓国映画」といえばもはや名物のようなヴァイオレンスや残酷描写はさほどキツくはないです。
ただ、映画の終盤で(注:ネタバレします)『オールド・ボーイ』のような「…マジか」というショッキングな場面があるので(しかも演じているのがまだあどけなさの残る10代半ばの少女)、やはり一筋縄ではいかないのであった。
それでは、以降ネタバレがありますので未見のかたはご注意を。
映画は、ペ・ドゥナ演じるヨンナムが住民の数が極めて少ない港町に赴任してくるところから始まる。
ソウルから来た彼女は、どうやらそこの派出所の所長になったようだ。
勤めているのはヨンナム以外は男性ばかりで、20代ぐらいの若手もいるが中には50代ぐらいのヴェテランも。
映画の中でいちいち1人ずつ紹介されないので、それぞれの名前もわからない。
若くして人を指揮するヨンナムはいわゆる“キャリア”ということなんだろうけど、日本で女性警官がこのような立場になることがあるのかどうか僕にはわからないので、なんとも不思議な感じ。
しかもこのような僻地にトバされたということは彼女には何か事情があるようだが、詳しくは語られない。
この「いちいち全部説明しない」というのが、映画としては実に真っ当な作りながら僕にはちょっと新鮮だったんですよね。
最近、説明過多な作品ばかり観ていたので。
もちろん、これも気をつけないと逆に説明不足になって観客がストーリーを追ったり登場人物に感情移入する妨げになってしまう恐れがあるんだけど、この映画はそのあたりのバランスがよく計算されていて、ヨンナムとドヒの二人のヒロインが互いのことを知っていく過程で観客もまた彼女たちに関する情報を徐々に得ていくことになる。
仕事はちゃんとこなしているが、いつもどこか疲れた表情で目がうつろなヨンナム。
彼女はいつもペットボトルから透明の液体をコップに注いで飲んでいる。
映画の冒頭で車から荷物を運ぶ時に大量のペットボトルを人に触らせずに自分で運ぶのだが、そのせいで手伝いにきた村のおばさんたちに「ソウルから来たからってバカにしてるのよ」と言われてしまう。
僕は映画の途中まではてっきり彼女が飲んでいるのはミネラルウォーターだと思っていた。
まるでヨンナムは透明な水で自らの身体の中の穢れを洗い落とそうとしているように見えたのだ。
ところが、コンビニで買ってきた何本もの酒を瓶からペットボトルに移しかえている場面があって「?」と。
風呂に入っている時にも飲んでいてドヒがそれをねだると「子どものくせに」と言ったり、その後ソウルから元恋人らしき女性が会いにきてヨンナムに「諸悪の源は酒よ」「お酒はダメ」と言うことからも、家の中でヨンナムが絶えず飲んでいたのは酒だったことがわかる。
こうして、ヨンナムがソウルで同性愛と酒がらみでトラブルを起こしたらしい、ということまでは判明するが、それ以上彼女の過去については語られることはなく、一体何があったのか肝腎なことはわからないまま。
その元恋人はヨンナムとヨリを戻してともにオーストラリアに移り住むことを望んでいたが、ヨンナムは拒否する。
しかし彼女と別れ際にしたキスをドヒの継父ヨンハに見られたことで、のちにあらぬ容疑をかけられることになる。
一方、中学生の少女ドヒの方は、家庭にも学校にもどこにも味方がいなくて居場所がないが、ヨンナムの前だけでは本来の明るさを取り戻すことができる。
誰もいない防波堤の上でダンスして、出された食事をうまそうに食べ、モノマネをしてヨンナムを笑わせるドヒはどこにでもいるような普通の女の子だ。
しかし、実の母親に捨てられて血の繋がらない父親と祖母から日常的に虐待を受け続けてきたドヒは心が不安定で、ヨンナムに同性の恋人らしき人がいると知って身を寄せていたヨンナムの家で彼女の留守中に暴れて自分の身体を傷つけもする。
長かった髪を切ったドヒは、いよいよヨンナムに似てくる。彼女たちはまるで姉妹のようだ。
そこには可愛らしさよりも何か言いようのない、少女の救いを求める叫びを聴くような痛みを感じた。
ドヒの継父のヨンハも常に飲酒しているし、その母親もまた酒を飲んだまま自動三輪を運転したりしている。
この祖母のキャラがなかなか強烈。
ドヒに「このクソアマ」と怒鳴り散らして追いかけていって暴行を加える。
もう絵に描いたような「ババア」で(頭にはパーマをあてていて、こめかみには膏薬かなんかが貼ってあるし)、彼女が自動三輪を操ってドヒを追いかけていくロングショットは酷い場面なのにコントめいていて思わず笑ってしまった。
その後、このババアが自動三輪ごと海に落ちて死んでいる姿に、悲惨な場面にもかかわらずまたしても僕は噴いてしまったのだった。
このなんとも表現のしようのない黒いユーモアにはちょっと惹かれるものがあった。いや、思いっきり人が死んでるんだが。
このババアを筆頭に劇中に登場するおばちゃんたちは主要な登場人物というわけではないのに誰もがなかなかいいキャラをしていて、年寄りとおっさんやおばさんしかいない村の閉塞感を彼女たちが一手に体現している。
派出所の警官たちとのカラオケしながらのヨンナムの歓迎会や、何かにつけて彼女のことをからかうように笑う様子とか、あぁ、いるいる、こーゆーババアたち、っていうなんともいえないリアリティ。
外国人労働者たちを見下して(「何食ったらあんなに顔が黒くなるんだろうね」)人間以下の扱いをする。
こういう世界って、日本だって他人事じゃないと思うんですが。
付き合う村人の数が限られているので人間関係ががんじがらめになっている窮屈さ。
ヨンナムの先輩が彼女に語ったように、少しでも目立ったことをするといろいろと噂されて爪弾きにされる恐ろしさ。
しかし、ヨンナムは気丈にふるまっているというよりも、どこかですべてを諦めているかのように何事にもうろたえずに自らの信念を貫いていく。
この、ペ・ドゥナが演じる弱々しくはないがけっしてガムシャラにパワフルなわけでもない、等身大の女性の姿に世の中のすべての女性が抱える痛みを感じもした。
いや、僕はおっさんですが。
ヨンナムとドヒが一緒にお風呂に入る場面があるけれど、そこには「百合映画」的なエロティシズムよりも、ヨンナムがこの虐待児童を見つめて感じるどうしようもない悲しみと怒りを共有することになる。
もしも目の前で女の子が暴力を振るわれていたら、自分はどうするだろう。
そんな女の子を助けて、彼女が自分を頼って家を訪ねてきたら?
そしてその痩せた背中に無数の傷あとがあったら?
ヨンナムはいつもは落ち着いていて努めて冷静にふるまっているので、そんな彼女がちょっと言葉を荒らげると緊張が走る。
酔っ払ってドヒに暴力を振るうヨンハを組み伏せるが、派手な大立ち回りを見せることも拳銃を撃つこともない。
その姿はただの一人の女性だ。
彼女が抱える痛みは誰もがそれぞれ持っているそれと同質のものだ。
ヨンナムの過去がハッキリとは描かれないために、逆に彼女は特定の「誰か」ではなく観客一人ひとりと同化する存在になる。
彼女を通して観客は傷つけられてきた少女ドヒを見る。
そういう映画であれば、ドヒを虐待し続けるヨンハを極悪人として最後に裁くことによって溜飲を下げられるように描くこともできるのだが、この映画ではそのような「勧善懲悪」の“ヴィラン”ではなく、彼を一人の生身の人間として描く。
自分の母親が死ねばその亡骸の前でひざまずき息子としての悲しみの表情を見せるし、何よりも映画の観客を居心地悪くさせるのは、彼が最後に逮捕されるのが娘によって捏造された犯罪によるものだということだ。
まぁ、彼に同情する人はいないでしょうが。
父親からの暴力から守るために学校が夏休みの間だけドヒを引き取ることにしたヨンナムだったが、所詮は他人同士だし、いつまでも一緒に暮らすわけにはいかない。
だから夏休みが終われば新しい制服や衣服を買ってやってドヒの懇願も無視して無理矢理家に帰すのだが、相変わらず父親は娘に暴力を振るい、またしてもドヒはヨンナムの元に舞い戻る。
しかし、ヨンハが警察にヨンナムは同性愛者で娘に性的虐待を加えている、と告げたために彼女は同僚たちによって逮捕されることに。
ここも非常に恐ろしさを感じるところだ。
子どもが一言そう言えば、誰もが性犯罪者の容疑者になりうる。
ドヒは純粋にヨンナムを慕っているのだが、彼女はまだ幼く警察でのソーシャルワーカーの質問に対する答えがヨンナムを危機に陥れることを察知できないので、一緒に風呂に入ったことやヨンナムがドヒの裸の身体に触れたことを正直に認めてしまう。
善意でしたことがすべて悪い方に転がっていく不条理と恐怖。
ここがこの映画を観ていて一番ハラハラさせられたところで、これまでにも韓国映画ではたとえば『母なる証明』(感想はこちら)のようにドォ~ンと落ち込む映画を観ているので、このまま救いのない終わり方だったらたまらんな、と思って観ていたんですが、継父の虚偽の告発によってまるで母のような存在であるヨンナムが逮捕されたことを知ったドヒは、ある異常な行動に出る。
当然ながら撮影時には若年者が演じていることにしっかり配慮していたのだろうし、カットも割ってあるのでもしかしたら代役を使ったのかもしれないが、中学生の少女が父親の身体に触れてやがてその下半身に手を伸ばすところはさすがにちょっとヒイてしまった。
いやぁ、恐ろしいなぁ、韓国映画。
結局、ドヒの継父は自分の娘に対する性的虐待で逮捕され、ヨンナムは釈放される。
ドヒに別れを告げて部下の運転する車で村をあとにするヨンナムだったが、思い返してドヒがかつて踊っていたあの防波堤に向かう。
そこには海を見つめて一人たたずむドヒの姿があった。
振り向いたドヒに「一緒に暮らす?」と言うヨンナム。
ドヒの瞳から涙がこぼれる。
ドヒを演じるキム・セロンはちょっと酒井若菜か安藤サクラに似ていて、僕は彼女の出演作を観るのはこれが2本目だけど、いつもツラい境遇の少女を演じていて不憫でならない。
彼女のか細い身体には、世のすべての子どもたちの哀しみが宿っているようで痛々しくてたまらない。
この映画には主演のペ・ドゥナを始め、いくつかの世代の女性が登場する。
美しい2人のヒロイン(と、ヨンナムの元カノ)に対して田舎の中年や年配の女性が軒並み粗野な不美人として描かれているのはなかなか不公平だけど、1980年生まれの女性監督チョン・ジュリはそこに何を込めたのだろうか。
同性愛であることを咎められ、容易く冤罪の被害者にもなるような社会。
逃げ場がない環境で周囲から虐待を受ける子ども。
過疎化が進んで働き手がなく、唯一の村の担い手は酒びたりの暴力男。
外国人労働者たちは薄給でこき使われて逃げられないように監視されている。
この地獄のような世界。
僕にはこれは外国の話に思えませんでした。
地方の人けのない静謐な海辺の美しさ。
景色はこんなに綺麗なのに、どうして人間はこんなに醜く哀しいのだろう。
かつて観たいくつもの映画のように、僕はあの風景の中で軽やかに踊るキム・セロンの姿とその涙をけっして忘れないだろう。
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