2013年1月11日に日本テレビの金曜ロードSHOW!でスタジオジブリの『コクリコ坂から』が地上波初放映、また夏には宮崎駿監督と高畑勲監督の新作(『風立ちぬ』の感想はこちら。『かぐや姫の物語』の感想はこちら)も劇場公開されるということなので、それにあわせてこれまでに書いた宮崎駿監督作品、高畑勲監督作品およびそれ以外のジブリ作品の感想を順次UPしていこうと思います。公開年はバラバラです。
まずは、宮崎駿監督のアニメーション映画『天空の城ラピュタ』。1986年作品。
声の出演:田中真弓、横沢啓子、初井言榮、寺田農、永井一郎*1ほか。
1985年に設立されたスタジオジブリの第一作目。
19世紀末のヨーロッパのどこか。みなしごの少年パズーは親方の下について炭鉱で働いていたが、ある夜、空から少女が降ってきた。少女の名はシータといい、黒メガネの男たちや海賊ドーラ一家に追われていた。亡き父が見たという天空に浮かぶ伝説の城「ラピュタ」をみつけることを夢みるパズーとシータの冒険がいまはじまる。
ネタバレ、というほどのものはありません。
僕にとってこの映画は確実に「生涯のベスト10」入りする、もしかしたらベスト5に入るかもしれない作品。
といっても、みなさんそれぞれジブリや宮崎駿作品には思い入れがあるだろうし、僕は僕で自分の好みで語るので異論があるかたもいらっしゃるかもしれません。
80年代に宮崎アニメに出会った1人の元少年の記録だと思って読んでいただければ。
『ラピュタ』の劇場公開時に同時上映されたのは、TVアニメの「名探偵ホームズ」のなかの「ミセス・ハドソン人質事件」と「ドーバー海峡の大空中戦」。
これまた僕は大好きな作品でTV放映でも観てたけど、宮崎さんがかかわったエピソードはどれも粒よりで、とにかく“宮崎アニメ”のエッセンスが詰まっている。
ときどき無性に観たくなります。
OP「空からこぼれたSTORY」 ED「テームズ河のDANCE」 歌:ダ・カーポ
www.dailymotion.com
1984年の『ナウシカ』(感想はこちら)と86年の『ラピュタ』では『ホームズ』が同時上映、88年の『トトロ』(感想はこちら)では高畑勲監督の『火垂るの墓』(感想はこちら)との2本立て。
僕は“宮崎アニメ”というのはそういうヴォリューム満点のものだと思っていたから、『トトロ』の翌年に作られて1本立てで上映時間も100分ちょっとだった『魔女の宅急便』(感想はこちら)に「あれ?」とちょっと物足りなさを感じたのでした(90年代以降は、95年の近藤喜文監督による『耳をすませば』→感想はこちらが宮崎監督の短篇『On Your Mark』と2本立てで公開されている。また宮崎駿以外の監督によるジブリ作品では、2002年の『猫の恩返し』→感想はこちらと『ギブリーズ episode2』がある)。
でも『魔女宅』は、上映後に劇場で拍手がおきてちょっと感激したことをおぼえてます。
『ラピュタ』は近所に住んでる友だちと観に行きました。
映画がはじまる前に席に座って2人でしゃべっていると、となりに座っていた若い男が「うるさいなぁ」と不機嫌そうにつぶやいたので、「すみません…」といって黙ったんだけど、予告篇が終わって「ホームズ」がはじまると、なんとその男はダ・カーポが歌う主題歌を一緒になって肩を揺らしながら歌いだしたのだった。
「街に流れてる~時計台の鐘の音~♪」
いまなら「うるさいのはお前じゃ!!!」と胸ぐら掴んでやりたいとこだけど(気が小さいので多分ムリだが…)、少年だった当時の僕らはただ呆然と横目でそれを見ているしかなかった。クスクス笑いながら。
そして『ラピュタ』がはじまって親方のおかみさん(声:鷲尾真知子)がしゃべると、今度は前の方の席で別の奴らが「サクラさんだぁ!」と盛り上がってたりして。
いやぁキモいですね。
まぁ、映画観終わった頃にはそんなことも忘れてたけど。
映画館を出て空を見上げると、まだ明るい空のむこうにラピュタがあるような気がした。
ここ最近「ジブリアニメ」を観るたびに文句をいってるような気がするけど、でも僕は別にジブリの悪口いうために映画館に行ってるわけじゃありません。
文句いうのには理由があって、それは僕のなかにはジブリ、というよりも“宮崎アニメ”というのはこういうもの、という強い固定観念があるから。
それをあらわす代表的な作品がこの『ラピュタ』なのです。
僕はこの映画に不満はまったくない。
文句のつけようがない。
ひとつ不満をあげるとすれば、いまでも代表的な“ジブリめし”として「おいしそう」と話題にされるパズーのお弁当のパンにのせた目玉焼き。
パズーとシータはうまそうにその目玉焼きを食べるんだけど、目玉焼きだけ食っちゃったらパンが残るだろ!いっしょに食えよ、と当時も思った。それぐらいかな(^o^)
ドーラの息子たちのロリコンぶりがハンパないとか、カタカナ三文字の呪文で崩壊してしまうお城なんて危なっかしくてたまらんだろう*2、といったツッコミはひとまずおいといて。
『トトロ』までは、僕にとって宮崎アニメというのはほとんど「パーフェクト」な作品だったのだ。
「愉しきかな、血湧き肉踊る漫画映画」というのは、この映画が公開されたときの惹句だけど、その86年当時でさえ、そういうかつての東映動画の劇場用長篇漫画映画のような痛快娯楽活劇はすでに作られなくなっていた。
ネットとかでよくこのキャッチコピーや『ラピュタ』で使われる古風な言い廻し(「悪漢に追われてるんだ!」「そりゃあ、豪儀だなぁ」など)を「古~」「作られた時代を感じさせる」「こっぱずかしい」などといってる人がいるけど、この映画が作られた当時でも十分古めかしかったんだよ。
そんなことはわかってて意識的に使ってるの!
『ラピュタ』は作られた当時でさえ「懐かしい作り」のアニメ映画だったんである。
この作品は宮崎駿がそれまで培ってきたものをすべてつぎ込んだ、集大成のような映画といえるだろう。
もちろん宮崎監督はその後も新作を作りつづけているけど、僕はこの『ラピュタ』でいったん“宮崎アニメ”は完了した、と考えている。
たとえば、『ラピュタ』以降“宮崎アニメ”から消えたものとして、「悪役」があげられる。
この映画に登場した政府の特務機関に所属するムスカ大佐(声:寺田農)は、宮崎監督の演出によるTVアニメ「未来少年コナン」や『ルパン三世カリオストロの城』(感想はこちら)の悪役たちに連なるキャラクターで、“宮崎アニメ最後の悪役”である。
これ以降、宮崎アニメで最後に倒される「悪役」は登場しない。
「勧善懲悪はやめた」というようなことをいっているように、宮崎監督は悪人が倒されて大団円、という冒険活劇を作らなくなる。
そのことを高く評価する人もいるし、良いとか悪いとか簡単にはいえないけれど、とりあえず事実としておさえておこう。
ただ僕は、宮崎監督があたらしい作品を生み出していく過程で捨てた「勧善懲悪」とか「典型的な悪役」といった昔ながらの「漫画映画」的な要素はエンターテインメント作品の基本だと考えているので、「勧善懲悪」だから劣っているなどとは思わない。
「未来少年コナン」について宮崎監督は「悪役が倒されてガッツポーズをするような主人公にはしたくない」と語っていて、それはほかの作品でも貫かれている。
『ラピュタ』はどこかアップグレードされた「コナン」(僕にとって“コナン”といえば名探偵のことでもシュワちゃんのことでもなく、未来少年のことだ。あと“名探偵”といえばもちろんホームズ)のようだし、囚われのお姫さまを助ける、というのは『カリオストロ』とも共通している。
「未来少年コナン」(1978) 声の出演:小原乃梨子 信沢三恵子 吉田理保子
www.nicovideo.jp
もともと一つだった一族の末裔であるシータとムスカの二人は、『カリオストロ』の「光と影」、公爵家の令嬢クラリスとカリオストロ伯爵の関係の焼き直しといえる。
ようするに使い古されたストーリーの再利用、再々利用といったことになるんだけど、重要なのはそこで「なにが語られ(描かれ)たか」ではなくて「どのように語られ(描かれ)たか」だ。
テーマやメッセージ性で宮崎アニメに感動するわけではない。すくなくとも僕はそうじゃない。
宮崎監督の画力、ユーモアのセンス、活劇の痛快さで感動するのだ。
オーソドックスとかベタとかいろいろいわれるけど、『ラピュタ』ほどエンターテインメント作品として完成された映画って(アニメにかぎらず実写でも)ほかにどれだけあるだろう。
僕は冗談ではなく、これは黒澤明の『七人の侍』(感想はこちら)に匹敵する作品だと思っている。
かつて宮崎駿は黒澤明と対談しているけど、このふたりはどこか似ている。
もともと娯楽作品を撮ってきて、そのクオリティの高さが海外でも評価されてやがて「芸術的」と見なされるようになったことも。
宮崎監督の『カリオストロ』『ナウシカ』『ラピュタ』は、黒澤監督が脂ののり切っていた頃に撮った『七人~』や『用心棒』(感想はこちら)『天国と地獄』などを思わせる。
黒澤監督が晩年は馬力が必要な活劇から離れてより趣味的な作品を撮ったように、宮崎監督もまた年を重ねるにしたがって興味の対象が移っていって、映画の視点も少年(~80年代)から中年(90年代)、そして老人の目線(2000年代~)へと次第に変わってきた。
孫娘を見つめるようなまなざしでちっちゃな女の子を描いた『ポニョ』の次にはたしてどんな映画が作られるのか興味深い(最新作『風立ちぬ』の感想はこちら)。
さて『ラピュタ』だが、くりかえしになるけどこれはじつによく出来た物語だ。
空中海賊たちが飛行船を襲う冒頭から一気に作品に引き込まれる。
パズーのところに落ちてきたシータは先祖から伝わる不思議なペンダントをしていて、それがたびたび彼女の命を救う。
そのペンダント“飛行石”をねらうドーラ一家は悪役然として出てくるが、やがてパズーの申し出で軍隊からシータを助け出してともにラピュタへ向かう。
よどみないストーリー運びで無駄なシーンも説明不足な部分もない。
これを脚本ではなくて絵コンテによって作っていった、というのがスゴい。
「まんが日本昔ばなし」でおなじみの常田富士男が声をアテるポムじいさんをはじめ、ほんのわずかな出番のキャラクターたちにも愛着がわく(声の出演者のなかにはすでに亡くなられたかたも何名かいらっしゃいますが)。
『ナウシカ』にも出てきた核兵器並みの破壊力をもつビーム兵器の登場など、「80年代」を感じさせるガジェット。
この「世界を滅ぼす最終兵器」もまた、これ以降の宮崎アニメからは姿を消した。
また、この作品では声優ではない初井言榮や寺田農が主要キャラの声をアテていて、とても印象に残る。
初井言榮が演じるドーラの独特のアクセントによる「40秒で仕度しな」はいまでも真似されてるし、同様に名言(?)が多い寺田農演じるムスカも「見ろ!人がゴミのようだ!」「目が、目がぁ!」など、無数にパロられている。
僕は、声優以外の人の使い方についてはジブリはこの時期が一番よかったと思う。
次の『トトロ』の糸井重里の起用も効果的だった。
Wikipediaによると、どうやら当初は主人公のパズーを声優以外からえらぶことも考えていたようだ。
けっきょくプロの声優で少年役に定評のある田中真弓がえらばれたが、それで大正解だったと思う。
シータの声を演じているのは「Theかぼちゃワイン」のLサイズのヒロインやエスパー魔美、大山のぶ代版「ドラえもん」のドラミちゃんの声などの横沢啓子。
『紅の豚』まではヒロインは声優が務めていたが(『豚』では歌姫の方を加藤登紀子が演じているが)、『もののけ姫』以降は声優以外の女優や子役が演じている。
最近のジブリ作品の声のキャスティングについては「???」と思うものが多い。
『もののけ姫』(感想はこちら)や『千と千尋の神隠し』(感想はこちら)での俳優の大量起用に、いったいどんな意義があるのか僕にはわからなかった。
西村雅彦や内藤剛志を声優として使うことに、はたして本職の声優を起用する以上の効果があったんだろうか。
『ポニョ』(感想はこちら)の所ジョージも、彼の声と演じたキャラクターが合っていない気がした。
あのキャラクターはもっと渋い声でちゃんと舞台劇的な演技が出来る、たとえば鹿賀丈史のような人がふさわしかったんじゃないだろうか。
田中裕子や上條恒彦、美輪明宏のように声優でなくても声の演技が巧みな人もいるのだが。
「いかにも声優、といった演技をしない人をあえてキャスティングする」というやり方は、どうやら従来の物語の枠組みでは満足できなくなったらしい宮崎駿が行き着いた方法なのかもしれないし、晩年の黒澤明がプロの俳優以外の演技の素人を使って(奇しくも彼もまた所ジョージを起用している)不思議な効果を出そうとしたことに通ずるものがあるのかもしれない。
黒澤明の『影武者』や『乱』は時代劇だが活劇ではなくて、諸行無常を描いたジジィのボヤきみたいな映画だった。
たしかに映像は美しいし嫌いじゃない。
ただ、やはり僕が本当に観たい黒澤映画は『七人~』のようなワクワクさせてくれる活劇なのだ。
年齢的にもそれは難しかったことは承知しつつも、物足りなさを感じてしまったことは否めない。
それは宮崎駿の近作にもいえることで、アニメーションとしての「動き」の描写は衰えていないから見ごたえはあるが、かつて『ラピュタ』や『カリオストロ』にあったワクワク感はそこにはもうない。
それと、またいずれどこかで語る機会があるかもしれないけど、『もののけ』以降のこの10年ほどで宮崎駿はなぜか「グニョグニョ、ベタベタ」したものへの偏愛を強めていて、これが僕にはとても異様に感じられる。
たしかに不定形の物体というのはアニメーションであつかうのにはおあつらえ向きだ。
でも、『もののけ』以前にもそういう描写がなかったわけじゃないけど(特に『ナウシカ』の原作漫画では顕著)、たとえば映画版『ナウシカ』での王蟲の触手や巨神兵、『ラピュタ』ではロボット兵の千切れた腕から見える中身など、その描写はごく一部にかぎられていた。
その抑制をとっぱらって作品中に作り手の“リビドー”の発露のような「グニョグニョ、ベタベタ」を無節操に暴走させるここ最近の宮崎作品には、なにか幼児の粘土遊びのような、もっといってしまうと痴呆老人の糞尿遊びのような、どこか退行した精神状態を感じてしまうんである。
『もののけ姫』以降の宮崎作品はひたすら壊れている。
一種の「子どもがえり」なのかもしれない。
もはやただ普通に人々が喜ぶ作品を作ることには飽き足らなくなってしまったのか。
いずれにしても、それらはもう僕がかつて心ときめかせた血湧き肉踊る漫画映画ではない。
宮崎駿はよりアニミズム(精霊崇拝。アニメーションの語源)の世界に近づいたのかもしれないが、「勧善懲悪」とともに単純明快な浪漫(ロマン)を描くのもやめたようだ。
『ラピュタ』は僕が宮崎駿の「痛快冒険活劇」を楽しめた最後の作品である。
これこそ「ウェルメイド」な映画というものだろう。
パズーの一途さとシータの気丈さ。ラピュタや飛行戦艦の威容。
ロボット兵のおそろしさとシータへのけなげな忠誠心。
ドーラたちの「気持ちのいい連中」ぶり。
この映画はいつ観ても新鮮で、そして懐かしい。
公開当時、この映画の「ドラマ編」というLPレコードをもっていた。
映画の音声が全部入っているもので、なるほどヴィデオが気軽に観られるようになる前はそうやって音声を聴いて映画を追体験していたんだな。
知り合いの女の子がオルガンでこの映画の主題歌「君をのせて」(歌:井上あずみ)を弾いていたっけ。
ラストで肩にキツネリスを乗せた園丁ロボットとともに遠ざかっていくラピュタには、なにか大切な存在が去っていくような切なさを感じたのだった。
それは「少年期」の喪失への怖れや寂しさとでもいった感情だった。
この映画を観るたびに、少年時代に見上げた晴れ渡った青空、夏休みに通った公営プールやその帰りに食べたカキ氷、キャンプやクラスの大好きだった女の子のことなど、なんだかそういうかずかずの想い出がとりとめもなくグワァ~っと頭のなかを駆け巡る。
「ラピュタは滅びぬ。何度でもよみがえるさ」というムスカの言葉は正しかったのか、それとも間違っていたのか。
世の中には二度ともどってこないものがある。
この映画こそがかけがえのない「宝」だったのだ。
※タイガーモス号の老技師(じっちゃん)役の槐柳二さんのご冥福をお祈りいたします。17.9.29
※ポム爺さん役の常田富士男さんのご冥福をお祈りいたします。18.7.18
※ちびのマッジ役のTARAKOさんのご冥福をお祈りいたします。24.3.4
※ムスカ役の寺田農さんのご冥福をお祈りいたします。24.3.14
関連記事
ムスカの野望~『ラピュタ』のこととか
『となりのトトロ』
『風の谷のナウシカ』
またね!「未来少年コナン」
『名探偵ホームズ』
『君たちはどう生きるか』