今月30日に金曜ロードSHOW!で宮崎駿監督のジブリアニメ『天空の城ラピュタ』が放送されるので、なんとなくそれに絡めて。
映画の感想じゃなくて思いついたことをとりとめもなく書いていくだけですから、ご了承ください。
以前書いた感想はこちら↓です。
この映画に登場する“ムスカ大佐”は宮崎アニメ最後の「悪役」。
彼は“ラピュタ”の王族の末裔であり、「ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ」という名前を持っている。
ムスカは、やはり「リュシータ・トゥエル・ウル・ラピュタ」という秘密の名を持つシータと、ラピュタの位置を示す飛行石でできた彼女のペンダントを狙っている。
ムスカとシータの関係が『ルパン三世カリオストロの城』(感想はこちら)のカリオストロ伯爵とヒロインのクラリス・ド・カリオストロのそれのヴァリエーションであることは以前の感想に書きました。
要するに昔ながらの悪漢とお姫様なわけで、子どもの頃はムスカのようなわかりやすい「ザ・悪者」は現実には存在しないと思っていた。あれはフィクションの中だけにいるキャラクターなのだ、と。
ところが、どうもああいう他者を見下し自らの欲望を満たすために平気で人を使い捨てる奴は実在するんだ、ってことがだんだんわかってきたんだよね。
いるでしょう、ああいう人間は。
まぁ、ムスカのモデルは宮崎監督自身なんだろうけど。「見ろ、まるで人がゴミのようだ。死ね~~!!」ってw
ムスカは声を演じた寺田農さんの好演もあって大いにキャラが立ってるから(独特の言い廻しの台詞がいちいち記憶に残るし)昔からファンも多いですが、「未来少年コナン」のレプカや先述のカリオストロ伯爵同様に自己本位的で独裁者気質の男で、現実にああいう奴がいて権力を握ったらたまったものではないわけで。
黒眼鏡の男たちの扱いもそうだけど、自分に忠実な手下でさえもただの道具としか見ていない。
大佐という階級でありながら、モウロ将軍(声:永井一郎)に「これは私の機関の仕事です。閣下は兵隊を必要な時に動かしてくださればよい」などと生意気な口もきく。
ムスカがそれまでどのような環境で生きてきたのか、どうやってあそこまでの地位に上り詰めたのか劇中では語られないし、結構苦労人なんじゃないかと同情めいた目で見る人もいらっしゃるようだけど、アニメキャラとしてはもちろん抜群に魅力的ではあるものの、やはりこの男の性根は腐りきっている。
囚われのシータにラピュタがかつて恐るべき科学力を誇る帝国だったことを語り、「そんなものがまだ空中を彷徨っているとしたら、平和にとってどれだけ危険なことか君にもわかるだろう」などと心にもないことを言って彼女を懐柔しようとする。
無論、シータはそんな言葉に騙されはしないが。あんな乱暴に彼女を連れ去った男を信用などできるわけがないだろう。
ムスカが「平和」のことなんか微塵も考えていないのはそれまでの彼の言動でわかるし、その後もシータにピストルを向けてパズーを脅すなど、卑劣さは相変わらず。
飛行石の閃光で目をやられて最期を迎えるまで、自分の行ないを改めることもない。
ラピュタ到着のあと、城で略奪を繰り広げる兵士たちを見て「バカどもにはちょうどいい目くらましだ」と呟くように、彼が欲しいのは世界がひれ伏す強力な兵器だ。
そして、シータに「当分二人っきりでここで暮らすんだからな」 などと、児童福祉法的にも完全アウトな言葉を吐く。
彼は将軍たちの前で自分を「ラピュタ王」と称していたし、だから同じようにラピュタ人の血を引くシータ=リュシータ王女を娶る気だったのだろう。そして子孫も残すつもりだったに違いない。
最高に気持ち悪い奴だ。ムスカの姿にはキモオタの理想が込められている。当然ながら、その野望は少年と少女の力で潰えるのだが。
宮崎駿はこの映画以降、悪役が最後に倒されるような勧善懲悪の物語を描かなくなるが、僕は「勧善懲悪=悪がしっかり断罪される物語」は必要なんじゃないかと思う。
ムスカのような人間は現実にいる。そして現実では彼のような者は必ずしも罰せられず、悪事を働き続けのさばっている。
せめてフィクションの中でぐらいそういう悪人が退治されなくては、納得がいかないではないか。
悪い奴らにも事情があって…みたいな中途半端な話ばかりやってるうちに、現実の世界では「悪」がはびこり放題になってしまった。
“フィクション”だからこそ目を背けたくなるほどの悪事を描くことも可能だし、その「悪」のおおもとをこれまた思いっきり残酷に刈り取ることもできる。
悪いことは悪いんだ、とハッキリ語る作品があっていい。
ムスカは身勝手な人間のカリカチュアだ。彼の欲望は現実の男たちの醜さの象徴ともいえる。
もちろん、その姿は映画では美化されている。が、その中身は傲慢さに溢れている。
この国の政界を見渡せば、ムスカ同様に見た目はスッキリしているが弱い立場の者を踏みつけて平然としている心が荒廃したクズどもが何人もいるだろう。
現実に奴らをコテンパンにすることはできなくても、映画の中でならできる。
「なぁなぁ」のまま悪が裁かれないのはおかしい。だから物語の中ではしっかり裁いてもらいたい。それが現実に向けた一つのメッセージにもなる。
「正しさ」は時に変わるし抑圧にもなりかねないから慎重に描かれなければならないが、「悪」ははるかに特定しやすい。これは絶対にダメだ、ということはある。
『ラピュタ』のように以前は荒唐無稽なファンタジーだと思っていた作品が今観ると妙なリアリティを感じさせることはあって、1927年公開のドイツのSF映画『メトロポリス』もまたそういう1本。
そこで描かれる“階級社会”はもはや絵空事ではない。
『ラピュタ』と直接関係はないけれど、『メトロポリス』でスクリーンに映し出された近未来の巨大都市の景観は「未来少年コナン」のインダストリアを思わせるし、さらに強引にこじつけると、アメコミ「スーパーマン」の舞台となる街の名は同じく“メトロポリス”で、かつて宮崎監督がアニメ版の「スーパーマン」の一場面をTV版「ルパン三世」の最終回「さらば愛しきルパンよ」で完コピしてみせたことは有名。そのロボット“ラムダ”のデザインは『ラピュタ』のロボット兵に流用されている。
「さらば愛しきルパンよ」もまた軍事ロボットを巡る結構きな臭い話で、自衛隊が出動して新宿で戦車が大勢の民間人がいる中で発砲したりしていた。
『ラピュタ』も「コナン」も「ルパン」もあくまでも娯楽作品で別にそれ以上でも以下でもないんだけれど、それらをもはや無邪気に楽しんでもいられないほどに現実の世の中は物騒になってきたということ。
ムスカは、「石が欲しいならあげます。私たちをほっといて…」と泣くシータに「君はラピュタを宝島か何かのように考えているのかね」と問う。
亡き父が探し求めた、そしてその遺志を受け継いだパズーが夢見た天空の城ラピュタは、ファンタスティックな夢の国ではなくて古代の超軍事国家だった。現実が夢を越えていった。
映画の最後にパズーとシータたちを残して空に飛び去っていくラピュタは、少年期の終わり、夢を見ることを許された時期の終焉も意味していた。だからこそ、僕たち観客はあのラストにたまらない切なさを覚えるのだ。
※ムスカ役の寺田農さんのご冥福をお祈りいたします。24.3.14
- アーティスト: サントラ,久石譲,杉並児童合唱団,井上杏美
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