※以下は、2012年に書いた感想です。
監督:宮崎駿、声の出演:高山みなみ、佐久間レイ、山口勝平、戸田恵子、加藤治子ほか、スタジオジブリのアニメーション映画『魔女の宅急便』。1989年作品。
原作は角野栄子の児童書。
魔女の血を引く少女キキ(高山みなみ)は、「魔女は13歳になると家を出て一人前になるために修行する」という掟にしたがって黒猫のジジ(佐久間レイ)とコリコの町に住むことにする。そこでホウキで空を飛べるという自分の特技を使って宅配便の仕事をはじめることに。住みかを世話してくれたパン屋のおかみの“おソノ”さん(戸田恵子)や画家志望の女性ウルスラ(高山みなみ:二役)、おなじ年頃の少年トンボ(山口勝平)などさまざまな人々との出会いとふれあいをとおして、キキは自分の進むべき道や居場所をみつけていく。
以下、ネタバレあり。
公開当時に映画館で観ました。
ただこれまでに何度か書いてるけど、僕は『カリオストロの城』(感想はこちら)から『ラピュタ』(感想はこちら)までの“冒険活劇”だった頃の宮崎アニメが好きなので、13歳の少女が自立するために働きはじめる、という地味なこのお話に当時は物足りなさを感じてしまったのでした。
だから、すっごく好き!という作品ではない。
なのにどういう心境の変化でまた観ようと思ったかというと、カワイイ女の子ががんばるお話が観たくなった…というのもあるけど、ピクサーのアニメーション映画『メリダとおそろしの森』(感想はこちら)がピクサー初の女の子が主人公の作品で「娘と母親の話」ということだったので、この『魔女宅』と観くらべてみたい、と思ったのです。
なんかイヤラシイ理由だけど、でもおなじみ久石譲が作曲した音楽はこれまでよく聴いてて耳になじんでて好きだし、おなじく「少女の通過儀礼」を描いていた『千と千尋』(感想はこちら)を観てふとこの作品を思い浮かべたということもあって、ジブリ・ヒロインのなかでもけっこう人気が高いキキと、同様に意外と男性でも好きな人が多いらしいこの作品(なかには「キキが初恋の女の子」という人もいるようで)をもう一度じっくり観なおしておこうと思って。
キキの人気が高いってのはまぁわかる気がして、「ミスター味っ子」や「名探偵コナン」などで主人公の男の子の声を担当している高山みなみが女の子を演じているというのも、もしかしたらなにか萌えポイントなのかとも思ったり。
キキは映画のなかでこれでもかとパンツを見せまくるけど、宮崎監督がお気に入りらしいおなじみの“かぼちゃパンツ”なんで、下着というよりもそういうコスチュームのように見える。
またナウシカやシータなどと同様に美少女でありながらより喜怒哀楽がハッキリしていて、とにかく彼女のクルクル変わる表情をながめているだけで楽しい。
頭につけた大きな赤いリボンとあの髪型も、ジブリアニメの歴代ヒロイン中で一、二を争うぐらい印象に残るデザインなのではないかと。
宮崎監督は、キキを都会にきてがんばって働いている若い女性たちをイメージして作ったようだ(モデルは制作当時13歳だった鈴木敏夫プロデューサーの娘だという)。
そしてウルスラにはジブリの女性スタッフたちや監督自身がかさねられている。
下宿先の母親代わりでもあるおソノさん、あるいは孫娘のためにパイを焼くのをキキが手伝う老婦人(家政婦のバーサ婆ちゃんも)などと合わせて、これは各世代の女性を描き分けたものだ。
宮崎アニメでは、自堕落だったり打算的な女性、つまり現実には存在するそういったタイプの女性たちは登場しない。
「ルパン三世」では、もともとルパンたちをだまして宝をうばったり裏切り御免の“魔性の女”だった峰不二子を家庭的な女性にしてしまったり、銃や素手で男どもをなぎ倒す女丈夫に変えてしまった。
コワかったり一見イジワルそうに見えるキャラクター(たとえば『千と千尋』の湯婆婆のように)であっても、彼女たちには人生をサヴァイヴしてきた貫禄と活力があり、なによりとても働き者である。
宮崎駿は、どんな立場だろうと、働くにしろ遊ぶにしろ精一杯やる人間が好きなのだろう。
逆に無気力だったり怠け者を描くのは嫌なんだと思う。
そしてそれがこの映画監督、映画作家のある種の表現上の限界でもあるのだが、そもそも宮崎アニメでそんな糞リアリズムにもとづいた人間ドラマを観たいか?というのはある。
「宮崎アニメのヒロインはおしっこもうんちもしない」といわれて、宮崎さんは「そんなにおしっこやうんちばかりしてる女の子が見たいんですか?だったらそのへんにいっぱいいるじゃないか」と答えている。
それはそのとおりなんですが^_^;
宮崎アニメのヒロインが理想化された存在であることはたしかだろう。
しかし、そんなヒロインに引け目を感じたり、「こんな女の子、現実にはいねーよ」とシラケるのは人それぞれだろうけど、そういうヒロインたちにあこがれたり、励まされる人もいるわけで。
この映画がいまもなお人気が高いのは、もちろん主人公キキの可愛くけなげな姿が多くの人々の気持ちをほっこりさせるからだが、それは宮崎監督が生み出したこの「理想の少女像」が作り手や観客に都合がいいだけの作り物めいたヒロインではないこともある。
彼女には、真に「あこがれ」を感じさせる清々しい実在感があるのだ。
キキには生来の育ちのよさが感じられる。
真面目で礼儀正しく、ちょっと軽そうなトンボや浮かれているように見えるその友人たちに最初は反感さえもつ。
「宮崎アニメのヒロインは優等生すぎる」という批判もあるけど、でもキキみたいな性格の子っていますよ。
いつも一所懸命で、つねに失敗を反省しては目標のためにまたがんばる。
人からただで恵んでもらったり、労働量に見合わない報酬を受け取ることを快しとしない。
まわりが見えないときもあるけれど、一方でドジなところや気さくでざっくばらんなところもあったりして、なにしろキュートだからやっぱり惹かれるのだ。
キキの両親はものすごい金持ちではないが(日本人から見たら広い家に住んでて悠々自適なまぎれもない金持ちだが)、落ち着いた生活を送っている。
ちょっとウディ・アレンのような風貌のお父さん、魔女だがユーモアもある優しげなお母さん。ふたりとも善良でほんわかした性格っぽくて、特別厳格な感じはしない。
だからしっかりとしつけられてはいるのだろうが、キキはもともと聞き分けのよい子なのだ。
そのキャラクターは、高畑勲が演出、宮崎駿がスタッフとして参加した「赤毛のアン」の主人公、アン・シャーリーをちょっと思わせもする(『魔女宅』の作画監督の近藤喜文はアンのキャラクターデザインも担当している)。
『魔女宅』の作品自体に「世界名作劇場」の香りもちょっとしたし。
もしかしたら意識したところがあったのかもしれない(もっとも、宮崎さんはアンが大嫌いだったというが)。
『赤毛のアン グリーンゲーブルズへの道』(2010) 声の出演:山田栄子
www.youtube.com
少女時代のアンはもっとお転婆だし彼女とキキが育った環境もそれぞれ違うけれど、たとえばアンの人格形成にはキリスト教の信仰が強く影響していて、さまざまな人々との出会いによって人生経験をかさねても彼女の価値観の根底は揺るがない。
そういう生真面目さをキキにも感じるのだ。
まぁ、彼女は魔女だからキリスト教とは正反対の立場にいるはずですが。
けっして羽目をはずさないキキの姿にはちょっともどかしさも感じて「ひとりぐらい不良中年が登場してもよかったのに」と思わなくもないが、彼女が人生の裏街道について知るのは、もうちょっと先でいいのかもしれない。
僕はいまならなんとなく、フィギュアスケートの浅田真央ちゃんを連想したりするんだけど(^o^)
なので、自分は彼女のようにはがんばれないかもしれないし、トップアスリートの苦労もわからないけれど、でも彼女の姿から元気ややる気をもらえることはある。
今回この『魔女宅』を鑑賞しながら、僕はそのような目でこの13歳のヒロインを見ていた。
さて最初に観たときに僕が物足りなさを感じたように、この映画は魔女が主人公であるにもかかわらず、たとえばキキが魔法を使って悪者と戦う、あるいは「ハリー・ポッター」シリーズの“クィディッチ”のように、魔法の試合でほかの魔女たちと対戦する、といったような展開はない。
そもそも敵も悪役も登場しないから。
キキは別に誰とも戦わない。
これはこの手の作品ではかなりめずらしく、ディズニーのおとぎ話やいわゆる「魔法少女モノ」の系譜からも外れている。
ようするに、ここでの“魔法”とは特技や才能といった程度のもので、天からの授かり物ではあっても現実にはありえない奇跡を起こすようなものではない。
ホウキで空を飛べることは、ちょっとめずらしい乗り物を操縦できる技術ぐらいの感覚であつかわれる。
作品で描かれるのも空想的な物語ではなくて、ごく日常的なエピソード。
ニシンのパイのくだりでは、孫娘はおばあちゃん(加藤治子*1)が手間をかけて彼女のために作ってくれたパイに、届けたキキの前で「あたし、このパイ嫌いなのよね」と言い放つ。
おばあちゃんの真心にまったく感謝の気持ちのないこの孫娘にキキは唖然とするが、こういうことはよくある。
この孫娘も、祖母がこれから先もずっと自分を見守ってくれるわけではないことがわかったとき、その心遣いがどれほどありがたいものだったか気づくだろう。
宮崎監督は、この孫娘や車に乗ってはしゃいでいるトンボの友人たちを「いまどきの若者」の象徴のように描いているけれど、この映画が作られてもう20年以上経っている。
あの頃の「いまどきの若者たち」もみな、現在では子をもつ親になっていたりする。
そして、「近ごろの若者」に対して「これだからゆとりは…」などと口にしているのだろう。
そんなわけで、映画ではキキが町で宅配便の仕事をはじめて、いろいろと思うようにいかずに悩んだり、落ちこんで力が発揮できなくなったりする様子が描かれる。
そんなとき、キキは年上の女性ウルスラに相談する。
ウルスラの声をアテているのも高山みなみなので、まるで未来のキキが現在のキキにアドヴァイスしているようにも見える。
ウルスラの絵はどこかシャガールの絵を思わせて幻想的で、青が多く使われているので落ち着いた雰囲気もある。
かつてスランプに陥ったウルスラも「誰かの真似をやめてから私らしい絵を描けるようになった」という。
宮崎監督は若い頃、漫画家を目指して手塚治虫の絵を真似ていたが挫折し、アニメーションの世界に進んだ。
その経験が、ウルスラの姿を借りて彼女の口から語られている。
彼女の絵のなかに自分が描かれていることを知ったキキは、心をこめて描いてくれたウルスラの優しさと励ましで元気をとりもどす。
誰にでも相談相手は必要で、きっとウルスラもキキとおなじぐらいの歳の頃には、そうやって誰かに助けてもらったのだ。
そしてキキが手渡した“ギフト(届け物)”が、今度は彼女自身に手渡される。
先日の老婦人から手作りのケーキをプレゼントされて感激するキキだったが、その直後にトンボの身に危機がおとずれる。
ここでは飛行船の事故という派手な事件が起こるのだが、これまでずっと日常的なエピソードがつづいただけに、ちょっとした違和感がある。
この「非日常的」なイヴェントは、なにを描いているのだろうか。
少女の成長モノとなんのかかわりがあるのか。
おそらくこれは観客に対するサーヴィスだろうし、なにより事件らしい事件もおこらないまま終わるのは監督自身がガマンできなかったんじゃないかと思うんだけど。
派手とはいっても、機関銃の掃射をかいくぐって空を飛ぶナウシカのような緊迫感や『ラピュタ』の救出シーンのような迫力とスピード感にくらべると、どうしても小粒なのは否めない。
なんか中途半端だ。
公開当時、映画館で観ていた僕はそう思った。
でも、これはさっき書いたように、アスリートが観客の前で見せるパフォーマンスのようなものだと思えば納得できなくもない。
キキがデッキブラシにまたがってグッと力を込める場面。
一瞬、静寂が映画全体を包む。
まるで浅田真央ちゃんが演技の前に集中するように(^.^)
これまでがんばって毎日魔女の“修行”をしてきたキキは、ここでその成果を見せるのだ。
固唾をのんで見守る町の人々は、“競技”を観ている「観客」である。
悪戦苦闘しながらも、キキは“技”をキメるために飛ぶ。
この、キキ=浅田真央というたとえはなかなか気に入ったんで、今後もいいつづけていこうと思いますが。
無事トンボを救出してみんなから喝采を浴びたとき、キキは最初おとずれたときにはよそよそしく感じられた町の人たちからほんとうに自分がうけ入れられた実感をもつのだ。
人から必要とされたとき、彼女は自分の力をとりもどすことができた。
いまではこの映画のクライマックスにふさわしいシーンだったと思います。
ほんとに何年かぶりに観た『魔女の宅急便』には、少年時代に映画館で観たとき以上にジ~ンときたのでした。
あのときには「地味だなぁ」と思ったエピソードのかずかずが、今回はとても胸に沁みた。
はじめて降り立った町での勝手がわからない戸惑い、失敗や不調、人の親切のありがたみ…。
ウルスラみたいな男前のお姉さんっているよなー、とか。
その後の僕が経験したいくつもの光景がここにあった。
なんかこういう作品をしみじみと観ちゃうようになったのって、歳食ったせいかな。かんけーねぇか。
キキの魔法の力はもどったが、これまでいつもそばにいて話し相手になってくれていたジジは、いまではもうただのネコになって家族もできて自分の生活に忙しい。
ヌイグルミや着せ替え人形、ペットたちといつでも会話できた時期は去り、少女もまた大人になっていく。
はじめは無神経な奴だと思っていたトンボともすっかり仲良くなって、彼の友人たちとも親しく付き合うようになる。
優しい大人たちに大切に育てられてきたキキは、まわりの人たちにもそのように接することができる。
いつもがんばり屋さんのキキという存在そのものが、僕ら観客への宮崎監督からのギフトだったのかもしれない。
「おちこんだりもするけれど、私、この町が好きです。」
遠く離れて暮らす両親に手紙で元気良くそういえるキキは、強い女の子だ。
自分もそうありたいと思う(男ですが)。
大人になっても、奇跡は起こるだろうか。