監督:宮崎駿、音楽:久石譲、声の出演:松田洋治、石田ゆり子、田中裕子、小林薫、美輪明宏、森繁久彌、森光子ほか、スタジオジブリのアニメーション映画『もののけ姫』。1997年作品。
エミシの一族の皇子アシタカ(松田洋治)は村を襲おうとしたタタリ神によって右手に呪いを受け、掟に従い村を出て西に旅立つ。旅の途中で僧侶(小林薫)から聞いた太古の神々が棲むというシシ神の森にむかったアシタカは、そこで大きな山犬に乗った少女サン(石田ゆり子)と出会う。怪我人をエボシ御前(田中裕子)の取り仕切るタタラ御殿に届けたアシタカだったが、その夜エボシの命を狙ってサンが現われる。
“生きろ。”
劇場公開時に映画館で観ました。今回は金曜ロードSHOW!で久しぶりに鑑賞。
以前からジブリ作品の感想で述べてきましたが、実をいうと僕が宮崎駿監督作品の中で唯一「面白くない」と思った映画です。
あれからTVで何度も放映しているのをなんとなく観たりしてきたけれど、集中できなくてどうしても途中でチャンネルを替えてしまっていた。
なので、もしかしたらまともに最初から最後まで観たのは映画館で観た時以来かも。
なぜ「面白くない」と感じたのか。
まず、宮崎監督が長らく描いてきた「漫画映画」的な笑いの要素が一切なかったから。
『ナウシカ』だってなかったじゃないか、といわれるだろうけど、あれはまぁ、SFファンタジーだしね。
そして、『ナウシカ』には明快なカタルシスがあったが、『もののけ姫』ではわかりやすいカタルシスは意図的に避けられている(久石譲の音楽も『ナウシカ』の方がよりメロディアスに感じられる)。
この映画の舞台は日本で、時代は室町あたりらしい。
宮崎駿が描く初めてにして最後の本格時代劇だったわけだけど、他の人はどうか知りませんが、映画館での鑑賞時に僕はこの映画に“センス・オブ・ワンダー”を感じなかったんですね。
なんか延々と人間と“物の怪”たちが殺し合ってる、という印象しか残らなかった。
『ナウシカ』については、いまだに原作漫画を持ち上げてその映像化をしつこくリクエストし続けてる人たちがいるけれど、『もののけ姫』は明らかに原作版「ナウシカ」の映画化であって、また映画版『風の谷のナウシカ』へのアンチテーゼにもなっている。
自然界と人間の仲介者であったナウシカはアシタカとサンに分化され、アシタカは人間の側にとどまる者として、サンは巨大な白い山犬“モロの君”(美輪明宏)に育てられて彼女を「母さん」と慕う、完全に物の怪側のキャラクターになっている。
劇場版『ナウシカ』ではナウシカと敵対していたクシャナは、ここではエボシ御前として描き直されている(エボシ役の田中裕子の声は、クシャナ役だった榊原良子の声とそのトーンや雰囲気などがよく似ている)。
タタラ場を仕切ってシシ神の首を狙うエボシは漫画版のクシャナと同様に単なる「悪役」「侵略者」ではなく、その存在も彼女の主張もけっしてすべてが否定されているわけではない。
『もののけ姫』で人と自然は簡単に和解しないし、主人公もヒロインも世界を救う「救世主」などではない。
80年代に宮崎駿が著した絵物語「シュナの旅」の主人公のキャラクターを踏襲したアシタカは、人間を憎むサンを最後まで説き伏せることができない。
“人間”という生き物自体が持つ罪深さへの言及、自然に対して害悪をもたらすもの、という認識。
しかし、ではそんな人間は忌まわしい滅ぶべき存在なのかといったら、「生きろ。」というキャッチコピーの通り「それでも穢れを背負って生きていくしかないのだ」という結論に至る。
「ナウシカ」の原作漫画でも、あるいは最終作*1『風立ちぬ』でも宮崎駿が言ってることは一貫している。
人間が愚かで穢れているからといって、滅ぶに任せたり世を儚んで自害するわけにはいかない。生きていくしかない。
特に今観ると、さまざまな思惑から諍いを起こし戦いに明け暮れる人間たちの姿が公開当時以上に目に焼きつく。
なんとか森と人間の間を取り持とうと奮戦するアシタカの姿が痛々しい。
心打たれるところもあるんだけれど、一方ではやはりどうしても不満を感じずにはいられないのだ。
「誰も悪くない」という結末を見るためにこの2時間以上を費やしたのか、と思うと虚しさすら漂ってくる。
漫画版「ナウシカ」で土鬼(ドルク)の皇兄ナムリスやトルメキアのヴ王が食えないキャラとして描かれていたように、この『もののけ姫』ではジコ坊(小林薫)という破戒僧が裏であれこれと画策しながら最後まで退治されることもなく、「バカには勝てん」などと知ったようなことをヌカす。
ジコ坊は『ナウシカ』のクロトワをさらに狡猾にして超人的な身体能力を加えたようなキャラだが、なまじ悪知恵が働いて腕も立つだけに始末が悪い。
彼や『ポニョ』のフジモトなど、問題を大きくしておきながら最後まで痛い目に遭うこともなく反省も後悔もしないトリックスター的なキャラクターというのがどうやら宮崎駿はお気に入りのようだが(何しろ自分の分身でもあるのだから)、僕にはそれは「居直り」にしか感じられない。
あと、『ハウルの動く城』のサリマンや『ポニョ』のグランマンマーレ、『風立ちぬ』のカプローニなど、絶対的な力を持ち、けっして倒されることがない神(あるいは悪魔)のような存在というのも、観ていて非常に歯がゆい。
あいつらはなんでそんなに超然としていられるんだ、と。
「神」のようなキャラの一声で映画の幕が下りるというのが、どうにも納得いかなくて。
人間がいかにちっぽけな存在なのかということを表わしているんでしょうかね。
『もののけ姫』を観ると、高畑勲監督の『平成狸合戦ぽんぽこ』を思いだす。
『ぽんぽこ』は自然界からの人間に対する異議申し立てだった。そして、どこか抜けてるタヌキたちをユーモラスに描きつつも人や動物の死を直接的に描いていた。
『もののけ姫』はそのシリアス・ヴァージョンといえる。
作り手が自然界や動物たちの声を代弁して人ならざる者たちに語らせているのは共通しているが、ただし『ぽんぽこ』が滅びゆくタヌキたちの側から描いていたのに対して、『もののけ姫』の主人公は(一応)人間側であるアシタカだ。
アシタカはあくまでも人間として自然界に対して「希望」を持ち続けようとする。
瀕死のアシタカは、「死など怖くない」と言うサンに「生きろ。そなたは美しい」と呟く。
物の本で、この映画を公開当時に観て「大切な1本になった」という10代の人たちの話を読んで、彼らはきっとアシタカから自分が「生きろ」と背中を押されたと感じたんだろうな、と思った。
『もののけ姫』に反応した10代は、自分の中に溜まった何か言いようのない暴力性や性衝動、強い承認欲求、その暴走をこの映画に見たのではないか。*2
だから、彼らにとってこの映画は特別なものになったんでしょう。
ただ、僕は今回観直してもやはり劇場公開時同様にこの映画の物語が頭に入ってこなくて、どんな話だったのか思いだそうとしてもうまくまとめられなかった。
この映画を1300万人が観て、翌年までロングランになったというのが本当に驚き。リピーターも相当いたんだろう。
それだけ多くの人々の心を動かしたことが、僕にとってはいまだに謎なのです。
これまでに何度も書いてますが、僕は宮崎駿の『ルパン三世 カリオストロの城』や『ラピュタ』、『ナウシカ』が好きです。
これらの初期作品には、観客へのサーヴィスに徹したプロフェッショナリズムがあった。
しっかりと「物語」を紡ぐ、という確かな技術。絵心とユーモアのセンス。
僕はそこにこそ愛着と尊敬の念を覚えるので、逆に宮崎さんが観客へのサーヴィス精神を犠牲にしてまで自分の考えてることをダイレクトに描いたここ10数年の作品群は、絵の緻密さとか動きなんかは確かに凄いけど、「面白くない」のだ。
その筆頭が『もののけ姫』だったということです。
この映画の公開当時、何に書かれた記事だったか失念しましたが、白土三平*3の「カムイ伝」と比べて「どんなに人間の腕や首を飛ばしても、そこに血生臭ささを微塵も感じないし、何よりエロスがまったくない」というような指摘があって、激しく同意した。
そりゃ、トトロ大好き!な幼児や10代の少年少女には宮崎アニメで描かれる人間の死はショッキングだったかもしれないが、宮崎さんは腕や首がもげて血しぶきが上がる描写はすでに「ナウシカ」の原作漫画でやっているから、僕にはその映像化という以上のものとは思えなかったし、「カムイ伝」などにはあるエロスが『もののけ姫』には皆無、というその徹底してなさに大いに不満を感じた。
宮崎駿には、さすがに女性キャラがおっぱいほっぽりだしたり男とまぐわう場面は描けないのだ。
『風立ちぬ』のヒロインの「来て」が限度なんだろう。
宮崎さんが尊敬しながら罵倒もしている手塚治虫だって、男女の性については描いていたのに。
でも「死」は「生」とともにあり、そして「生」は「性」と切っても切り離せない。
その「性」をちゃんと描けないのなら、さかしらに「死」など描くな、と言いたい。
宮崎さんは幼少時に戦争を経験しているし、実際に人の死を間近で見たり感じたりしたことがあるのかもしれない。
だから僕みたいな「小僧」に偉そうに文句言われたくないでしょうが、それでも僕は『もののけ姫』にエロスもヴァイオレンスも感じなかったのです。
宮崎さんがかつて対談もした黒澤明の時代劇のような、血と砂埃のエクスタシーを得られなかった(黒澤明もまた性描写は控えめだったけれど、宮崎駿の場合はそれに輪をかけて抑制されていた)。
人間と物の怪たちの戦いに現実の世界の戦争を重ねて、それがいかに虚しいものなのか思いを巡らすことは可能だ。
絶望的な状況の中でもけっして諦めないアシタカに、希望を見ることも。
身体がじょじょに痣で覆われようとしているアシタカは、呪いに蝕まれ穢れゆく人間そのものである。
でもなんだろう、やっぱり納得いかなかった。
宮崎さんが自分で殺し合いを描いて自分で結論を出して納得している、そんな映画に感じた。
というよりも、ここで描かれている神や物の怪たちの姿は比喩表現でもあるから、絵自体はきわめて緻密に微細に描き込まれてはいてもまるで抽象画でも観ているようで落ち着かないのだ。
多分、冒頭から早速描かれるあのグニョグニョベタベタウネウネの表現こそが宮崎さんにとっての怒りや性衝動のメタファーなんでしょう。
この映画から、宮崎アニメにグニョグニョした液体や触手の描写が頻出するようになる。
続く『千と千尋の神隠し』では、オクサレ様やカオナシの暴走シーンで同様のグニョグニョベタベタが描かれる。『ハウル』や『ポニョ』でも同じく。
僕はこれが不快だった、と以前書きましたが、まるで毛穴から出てくる脂肪みたいな“タタリ神”の触手は、宮崎駿の中に溜まった膿や澱、怒りや欲望、世の中のさまざまな矛盾等々、といったものを視覚化したものなんだと解釈した。
シシ神にしても、実体があったり半透明になったりその姿は不定形でハッキリとせず、名状しがたい表現がなされている。
僕はそれが生理的に受けつけないんです。キモチワルすぎる。
粘液や水泡への異様なまでの執着。母親の胎内で眠る胎児への回帰願望のような気味悪さ。
『風立ちぬ』の家々も飛行機もまるで生きているかのように波打ち、息づく。自分の世界に閉じこもったハウルは巨大な泡に包まれる。ヒロインたちが流す涙すら異様に大きくてゼリーみたいに弾力がある。
メカも生き物も内も外もすべての境界がなくなって、何もかもが液体に覆われる世界。
くたばる前のジジイはそういうヴィジョンを見るのだろうか。
さて、前述の通り久しぶりの『もののけ姫』だったわけですが、今観るとどうしても3.11の東日本大震災を思いださずにはいられない。
もちろん、この作品は3.11よりも10年以上も前に作られた映画だけど、この映画の公開の2年前に阪神淡路大震災が起きている。それを宮崎駿が意識していなかったはずがない。
1954年に作られた『ゴジラ』(感想はこちら)が核の恐ろしさとともに自然災害の脅威のメタファーでもあったように、『ナウシカ』の王蟲の暴走と同じく人里に向かって大群で押し寄せる乙事主(森繁久彌)と物の怪たちは自然からの逆襲である。
巨大なディダラボッチのシルエットはゴジラのそれを思わせる。
ゴジラも王蟲も人語を発せず*4それが彼らをより神秘的に見せていたし物言わぬ現実の動物たちの姿を思わせもしたのだが、『もののけ姫』の物の怪たちはとにかくよく喋る。
それはまるで人間モドキ、人間の姿の写し絵のようだ。
だから、これは大自然の前で人間が自問自答している物語なのだ。僕はそう思った。
原作版「ナウシカ」は特に後半、非常に内省的になっていって、ほとんど主人公ナウシカの独り言みたいな展開が続く。
登場人物は他にも何人もいるのに彼らは皆ナウシカの分身のように見えてきて、まるで彼女が頭の中であれこれ問答を繰り広げているみたいだった。
僕が「ナウシカ」の原作漫画があまり好きではないのはそういうところから。
なので、その映画化作品といえる『もののけ姫』にも同様の違和感、嫌悪感を持った。
これは「物語」ではなくて、ただの「独り言」だ、と。
そこからは、異なる者同士の本当のぶつかり合い、“ケミストリー”は感じられなかった。
息子の吾朗ちゃんが中二病をこじらせた残念作『ゲド戦記』と根本のところで同じじゃないかと思う。
もちろん映像のクオリティは比べ物にならないし、さまざまな読み解きも可能な『もののけ姫』の方が格段に優れた作品なのは疑いの余地がないけれど。
この映画は宮崎駿からの若者たちへのメッセージであると同時に、宮崎監督自身への激励でもある。「生きろ。」というのは、宮崎さんが自分に発した言葉なのではないか。
そして、それは最終作*5『風立ちぬ』でさらにパーソナルなものになった。
あれは宮崎さんがこれまでの自分の人生を自分自身で肯定してみせた映画だ。
自己承認という奴ですね。
宮崎駿という巨人を「神」のように崇め彼と一体化できる者は、その作品はまるでありがたい経典のように人生の指針となってくれるんだろう。
かつては子どもたちを楽しませるために心血を注いでいた宮崎駿は、やがてみずからのために映画を作るようになる。
僕は子どもたちのために映画を作っていた頃の彼の作品が好きだ。
それでも最高の技術で描き込まれた映像はいつだって見ごたえがあったし、だからこそ最新作が公開されると迷わず映画館に出かけたのです。
『もののけ姫』公開当時、宮崎監督はこれが最後の長篇アニメーションだと公言していた。
それはやがて撤回されて、宮崎駿はその後も新作を作り続けた。
だから『風立ちぬ』の後も、僕はてっきり宮崎さんは映画を作り続けるものだとばかり思っていた。
昨年9月の引退会見で「今度は本当にやめます」というような言葉を聞いて、ついに来る時が来たか、と少年の頃からずっと観続けてきた宮崎アニメの新作がもう観られなくなったことになんともいえない寂しさが込み上げてきた。
僕にとっての宮崎駿とは、ある世代の人たちにとっての手塚治虫だったり藤子・F・不二雄のような、いってみればもう一人の父親的存在だった。
ここ10何年かは彼の映画を観て文句ばかり言ってきた。「俺が観たい宮崎アニメはこういうんじゃないんだよ!」と。
それでも別れはツラい。
これからも、僕は何度も宮崎アニメを観るでしょう。
そのたびにあらたに教えられるものがあるかもしれない。
彼が作った作品以外でこんなに長きに渡って観続けられている日本の長篇アニメーション映画は他にないし、これからだってないに違いない。
その宝物を大切にしていきたい。
この作品をもって、宮崎駿監督の劇場公開作品の感想はすべて書き終わりました。TV放映作品や短篇を除くスタジオジブリの過去作もこれでコンプリート。
ご参考までに、これまで書いた感想をあらためて列挙しておきます。
ご意見ご感想などありましたらコメントいただけると幸いです。
『ルパン三世 カリオストロの城』
『風の谷のナウシカ』
『天空の城ラピュタ』
『となりのトトロ』
『火垂るの墓』
『魔女の宅急便』
『おもひでぽろぽろ』
『紅の豚』
『平成狸合戦ぽんぽこ』
『耳をすませば』
『ホーホケキョ となりの山田くん』
『千と千尋の神隠し』
『猫の恩返し』
『ハウルの動く城』
『ゲド戦記』
『崖の上のポニョ』
『借りぐらしのアリエッティ』
『コクリコ坂から』
『風立ちぬ』
『かぐや姫の物語』
『君たちはどう生きるか』
まもなく公開されるジブリの最新作『思い出のマーニー』(感想はこちら)も観に行く予定です。
宮崎駿監督が去ったあとのジブリが今後どのような道を進んでいくのか正直期待よりも不安の方が大きいですが(後進の監督さんたちの作品でお気に入りのものがまだこれといって無いので)、同スタジオの作品を観続けてきた者としては今後も見守りつづけたいと思っています。
追記:
2017年、ジブリは『君たちはどう生きるか』で宮崎監督の長篇への復帰を正式に発表。