監督:本多猪四郎、特殊技術:円谷英二、音楽:伊福部昭、出演:宝田明、河内桃子、平田昭彦、志村喬の『ゴジラ』。1954 (昭和29) 年作品。
原作は香山滋。
度重なる水爆実験の影響で海底より姿を現わした太古の巨大生物“ゴジラ”が伊豆諸島の大戸島に上陸、村に犠牲者と多大な損害が出る。古生物学者の山根博士(志村喬)は貴重な資料として殺さずにその生命力の秘密について研究することを提言するが、やがてゴジラは東京に上陸する。
7月25日(金) から公開されるハリウッド制作の通称“レジェンダリー・ゴジラ”に先立って、TOHOシネマズで限定公開中のゴジラ60周年記念デジタルリマスター版を鑑賞。
今回観た1954年の一番最初のゴジラ、通称“初代ゴジラ(初ゴジ)”を僕が初めて観たのは80年代、家の近所の公民館でした(多分、16ミリフィルム)。
当時は春休みとか夏休みの時期にTVでよくゴジラの旧作(もちろん昭和に作られたシリーズ)をやっててすでにゴジラ映画はお馴染みだったけれど、初ゴジはそれまでまだ観たことがなくて、しかもモノクロだし映画の雰囲気もシリアスで怖かったことを憶えています。
それ以来何度も観てるし、DVDも持ってる。
僕は第2作『ゴジラの逆襲』からの完全にエンタメ路線にシフトして「怪獣プロレス」と化したゴジラ映画にも愛着は大いにあるんですが(というか、本来はそちらが好みだったし)、初代ゴジラはそれらとは別格の存在として個人的に神格化してるところがある。
それで今回劇場で上映されることになって、ハリウッド版の前にこれはちゃんと映画館で観ておきたい、と思って馳せ参じました。
今回は『ルパン三世カリオストロの城 デジタルリマスター版』(感想はこちら)の時のような小さめのプレミアスクリーンではなくて、普通の大きさの会場。
フィルムはスタンダードサイズなので両端に黒味ができて映像はスクリーン一杯にはならないけど、前方のど真ん中の一番いい席で観られました。
久しぶりに観た初代ゴジラはやっぱり不気味で怖かった。
ただし、映像は7ヵ月かけてかなりの修復をしたということだけど、正直なところそんなにクリアとは感じなくて、綺麗にした状態でこの程度なのか…とちょっと期待はずれの感は否めず。
確かにフィルムのガタつきはなかったし傷も汚れもなく音声も聴きとりやすかったですが、どうやらもともとの映像がそんなに鮮明ではなかったようで。
撮影時での生合成や編集時のオプティカル処理のせいもあるんだろうけど、明らかにピントが合ってないショットもあった。
戦前に作られた海外の映画がまるで新作のようにリストアされた映像(『メトロポリス』の感想を参照のこと)などと比べると、どうしても見劣りしてしまう。
同じ年に公開された黒澤明の『七人の侍』(感想はこちら)の画質もそうだけど、あれが当時の日本映画の技術的な限界だったのだろうか。
たしかに終戦からまだわずか9年後ですし。
その後、日本映画でも豪華で美しい映像が撮られるようになっていくわけですが。
あと、これはいちいちあげつらってたらキリがないけど、ミニチュアがあまりにもミニチュア然としていてまったくスケール感がなく、これを本物と感じるのは難しいなぁ、と思わせられる特撮場面(暴風雨で転がるヘリコプターや鳥居のミニチュアなど)も多々見受けられた。
それでも、高圧電流でゴジラを感電させるために無数に立てられた鉄塔をグラスワークで実景に合成していたり、目に楽しい特撮はいくつもある。
特に東京上陸からの一連のミニチュア特撮は、これがすべての始まりだったのだ、という感慨があった。
かつての特撮怪獣少年に戻って破壊のカタルシスを楽しみました。
僕が生まれた時にはすでにこの世を去っていた「特撮の神様」円谷英二は、物心つく頃にはゴジラとウルトラシリーズなどで名前を覚えていた憧れの人、当時は歴史上のどんな偉人よりも尊敬する人だった。
考えてみれば、子どもが自分が生まれる前に亡くなった他所のおじさんのことを知ってて憧れる、ってあまりないよなw
幼い頃の僕にとって、円谷英二とは「特撮」そのものの代名詞でもあった。
円谷英二という人は若い頃は飛行機乗りを目指していたこともあって、その大空への想いはやがてミニチュアを使った飛行機映画に繋がっていく。
円谷の特撮技術は『ハワイ・マレー沖海戦』などの軍による戦意高揚映画でも遺憾なく発揮されるのだが、そのために戦後は公職追放の憂き目にあっている。
ジブリアニメ『風立ちぬ』(感想はこちら)の主人公が戦争などには無頓着でただひたすら飛行機作りにのめり込んでいたように、円谷英二もまたイデオロギー云々ではなくて、とにかくかつて観た『キング・コング』のような特撮映画を作ることをいつも夢見ていたんだろう。
戦時中には避難した防空壕の中で大ダコが暴れる映画のアイディアを思いついたというぐらいの映画バカでもあった。
僕はそういう円谷さんに強いシンパシーを感じるのだ。
『ゴジラ』は制作日数の都合から『キング・コング』のようなコマ撮り(ストップモーション・アニメ)ではなく、着ぐるみ(ぬいぐるみ)を使って撮影されることに。
それが、その後の日本映画界の良くも悪くも伝統芸能としての「特撮」の基礎となる。
ちなみに、ストップモーション・アニメの第一人者レイ・ハリーハウゼンは、しばしば日本式のぬいぐるみ特撮に対して「中に人間が入っているようにしか見えない」と批判的な意見を述べていた。
解剖学まで研究したクリエイターの手によるストップモーション・アニメには素晴らしい味があるのだけれど、でもハリーハウゼンが最後まで認めなかったぬいぐるみ特撮は、観る者に「怪獣」との一体感をもたらしてくれるものだった。
ゴジラ・ファンとして知られるティム・バートン監督も、「子どもの頃、ゴジラのぬいぐるみに入る俳優になりたかった」と語っている。
人間によって演じられる怪獣は、観客の破壊願望や万能感を満たしてくれる。
ストップモーション・アニメはやがてCGアニメーションに取って代わられて、モンスターの生物としてのリアリティをいっそう追求するようになる。
それと比べて日本のぬいぐるみ特撮を下に見てバカにする向きもあるけど、ぬいぐるみ特撮には別の「リアリティ」があるのだ。
ほんとにそこにいる実在感、である。
「見立て」の美、というのも。
そして、建物を破壊しまくる怪獣はなんだかとても気持ちよさそうじゃないですかw
実際の撮影現場では大変だと思いますが。
だから、どちらの手法が上でどっちが下か、なんてことはどーでもよくて、場合によって使い分ければよいだけのこと。観る側も作品によって頭を切り替えればいいのです。
さて、この映画の主役は当然ゴジラなんだけど、ゴジラの都市破壊と並行して人間たちのドラマが描かれる。
山根博士の娘・恵美子(河内桃子)と恋人の尾形(宝田明)、そして山根の教え子でかつては恵美子の婚約者でもあった芹沢(平田昭彦)たちの人間模様。
そこには戦争の影があって、芹沢は戦時中に顔に傷を負って恵美子との婚約を破棄していた。
芹沢博士はポスターや宣伝用のスティル写真では顔に傷があるが、映画では目立たなくなっている。
本篇のドラマ部分はさすがに今観ると時代を感じさせる演出で、完全なるお嬢様演技の河内桃子(実際に名家の令嬢だった)や「あぁっ!」と頭を抱えて悩む演技が臭い平田昭彦など、メロドラマのパロディを見ているような気になってくる。
この恋愛を絡めた日常部分は、ある日突然やってくるゴジラ(戦争、核)の恐怖と対比されている。
市井の人々の恋愛や結婚など、なんでもないような、しかしかけがえのない日々の幸福が奪われる恐ろしさ、そのことに対する怒りがこの作品の底に流れている。
この初代ゴジラについては、ちょうど30年後に作られた1984年版の感想でもちょっと触れたけど、敗戦からわずか9年後に作られたこの作品にはまだ人々の中に深く刻まれていた戦争の記憶が反映されていて、さながら戦争映画のようでもある。
若い女性の「原子マグロ、放射能の雨、そのうえ今度はゴジラときたわ。…せっかく長崎の原爆から命拾いした体なんだから」という台詞もある。
ゴジラによって破壊された町から避難する人々の描写や病院の場面などは、これもジブリの『風立ちぬ』や『火垂るの墓』(感想はこちら)の同様のシーンを思いだす。
避難する人々は大八車に家財を乗せたり、うずまき模様の風呂敷をしょっている。
逃げ場を失なった母子が抱きあいながら死を覚悟する。
病院では息を引き取った母親のそばで幼い娘が号泣する。
脇役や端役に至るまで、人々の恐怖に歪む顔、悲しみにくれる顔があまりにリアルなので観ていて本当にいたたまれなくなる。
ここではゴジラは、自然災害と核の恐怖の象徴として描かれている。
ゴジラは嵐とともに大戸島に上陸する。単に巨大な生物というだけではない、自然界からの怒りの化身としてゴジラは登場する。
ゴジラがただのモンスターではなく「神」、日本的な意味での万物に宿る神であるというのは、これまでにもさまざまな人々によって指摘されているし、それはこの映画を観ていればおのずとわかることだ。
きっかけは、戦後復興を始めた日本に冷や水を浴びせるようなアメリカの水爆実験による日本の漁船の被曝という事件であった。
平和を取り戻してこれから豊かになっていこうとしているこの国の人々に、それは思いだしたくない忌まわしい記憶を呼び起こさせたのだった。
先日、長崎に修学旅行に来た中学生が被曝者の男性に「死に損ない」と暴言を吐いた事件*1があったが、男性は「私は死に損ないではない」と語っていた。
その人はみずからが体験した原爆の恐ろしさ*2を後世に伝える語り部としての役割を果たしていらっしゃるのだ。
ゴジラとは、まさしくその語り部、戦争の惨禍をけっして人々に忘れさせないためにやってきたのだった。
人は忘れていく。
自分の親や祖父母たちの体験は受け継がれず、そこから生まれた教訓も、時には自分の過去の大切な記憶すらもあっというまに忘れてしまうのだ。
さっき述べたように、僕は怪獣プロレスとしてのゴジラ映画はそれはそれで好きだし、その存在を否定する気などさらさらないんだけれど、この“初代ゴジラ”とそれ以降の作品群は別物と考えた方がいいと思う。
本来、「ゴジラ」はシリーズ化されるようなタイプの映画ではない。
ゴジラというのは、毎年恒例行事のように悪玉怪獣と戦って子どもたちを楽しませてくれるようなポケモン的なキャラクターではなくて、10年、20年と時が経って人々が忘れかけた頃に突如やってくる恐ろしい存在なのだ。
今この作品を観ると、どうしても3.11の大震災のことを連想せずにはいられない。
すべてを流し去ったあの津波や福島の原発事故のこと、被災して亡くなられたかたがたやそのご遺族のことを。
しかしその記憶も語り継がなければ忘れ去られる。
ゴジラは人類のために悪者を退治してくれる正義の味方などではない。
罪もない人々を蹂躙してすべてを破壊しつくす、圧倒的なまでに理不尽な存在。
同じく、突如大切な人の命を奪っていく災害や事故の前では人は自分の無力さに時に虚無感に襲われもするが、それでも絶望せずに日々を生きていくしかない。
ゴジラによって焼け野原になった東京の町に、ラジオから流れる鎮魂の歌がかぶさる。
それを聴く人々の姿は、きっと当時の観客には玉音放送を聴いたあの日を思いださせたに違いない。
そして、現在に生きる僕にもそれはけっして遠い昔の話には思えませんでした。
『七人の侍』で農民役だった東宝の専属俳優たち(ゴジラのスーツアクターの中島春雄さんも野武士の斥候の一人として出演)が、ここでは大戸島の村人役で出ている。
『七人の侍』で野武士から村を守るために「やるべし!」と侍を集めることにする長老を演じていた高堂国典が、ここでも村の長老役で山根博士に伝説の怪獣ゴジラの名前を教える。
また、ゴジラの存在を秘密にしようとする国会議員に「バカモノ!」と威勢のいい罵声を浴びせる代議士を菅井きん(※ご冥福をお祈りいたします。18.8.10)が演じている。
大戸島でゴジラによって家族を失なった新吉(鈴木豊明)は、特に説明はないがその後何気なく山根博士の家に居ついている。
真面目な坊主頭の新ちゃんは尾形の弟分のような感じで、ちょっとした癒やしキャラにもなっている。
尾形と新吉が2ケツする(堂々とノーヘルである)バイクの「キャブトン」やラジオのメーカー名など、映画自体はシリアスだが劇中ではかなりあからさまにタイアップ商品が映るのが可笑しい。
この作品の戦争映画とメロドラマ、そして怪獣映画という3つの要素の中で前者2つはわりとよくある組み合わせだけど、最後の「怪獣映画」についてはもう完全に「これは見世物です」と開き直ってでもいるかのようで、初公開当時この映画がジャーナリズムからは「ゲテモノ」「キワモノ」として酷評されたというのも理解できなくはない。
今、このような題材を「怪獣映画」という形で表現するのは極めて難しいだろう。
「映画」が見世物としての胡散臭さを大いに残していた時代だということもあるが、一方で観客はフィクションの中の一見荒唐無稽に思えるような物語から作品のテーマをしっかりと受け取っていたのだともいえる。
ようするに、単に「核の恐怖を作り物の怪獣なんかで表現するとは不謹慎でけしからん」といった表層的な見方ではなくて、この作品で語られていることの本質を当時の人々はちゃんと見極めていたということ。
そして、まさしくこの「怪獣」の要素があったからこそ『ゴジラ』は世界的なキャラクターとして記憶されることになったのだし、この第1作目が後世まで残る大きな要因にもなったのだ。
ゴジラというあのオリジナリティ溢れる大怪獣がいなければ(最初に円谷英二が考えていたように大ダコなんかだったら)この映画自体がすでに忘れ去られていただろう。
ゴジラの元ネタはウィリス・オブライエンがストップモーション・アニメによって創造した『キング・コング』とレイ・ハリーハウゼンによるロンドンで太古の恐竜が暴れる『原子怪獣現わる』といわれるが、ゴジラはすでに知名度ではこの2作品に並び、『原子怪獣』に登場する怪獣リドサウルスよりも有名になっている。
それはクリエイターたちの才能と努力の賜物だが、しかし日本人である僕たちはどこかお気楽に喜んでばかりもいられない。
そもそもゴジラの出自そのものが暗く重いのだから。
ゴジラとは怨念そのものであって、再び“彼”が日本に上陸する時、それは人々がさらなる痛みと悲しみに襲われる日なのだ。
84年版の感想にも書いたけど、現在ほど切実にゴジラの存在を意識する時はない。
今、「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない」という山根博士の言葉はよりいっそう僕たちの上に重くのしかかってきている。
けっして忘れないこと。それが僕たちに課せられた使命なのだ。
※中島春雄さんのご冥福をお祈りいたします。17.8.7
※宝田明さんのご冥福をお祈りいたします。22.3.14
夢を本当にありがとうございました。
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