監督:宮崎吾朗、声の出演:岡田准一、手嶌葵、菅原文太*1、風吹ジュン、田中裕子、香川照之ほか、スタジオジブリのアニメーション映画『ゲド戦記』。2006年作品。
原作はアーシュラ・K・ル=グウィンの「ゲド戦記」第1巻「影との戦い」、第3巻「さいはての島へ」、第4巻「帰還」など。
多島海世界アースシー。エンラッドの王子アレン(岡田准一)は父王を刺殺して魔法の剣を奪い、国を出る。獣に襲われていたアレンを大賢者のハイタカ(菅原文太)が助ける。ハイタカの旅の連れとなったアレンはホート・タウンにたどり着き、少女テルー(手嶌葵)と出会う。彼女は町外れに住む巫女のテナー(風吹ジュン)とともに住んでいた。テナーのもとに滞在するハイタカとアレン。しかしハイタカとの因縁がある魔法使いクモ(田中裕子)の手の者によって、テナーとアレンが囚われてしまう。
“父さえいなければ、生きられると思った。”
劇場公開時に観に行って、ひどく失望した作品。
ただ、その後はまともにTVでも観ていないので(金ローで何度かやってたけど、毎回途中で嫌になってチャンネル替えてしまった)、もはやどこがどう不満だったのかもよく覚えていなかったぐらい。
とにかく宮崎駿の絵柄に似てはいるけど違う、とても気持ちの悪い思いをしたことだけ記憶しています。
V6の岡田准一が演じる主人公アレンが“キレた”時に見せる三白眼のヤンキー漫画のキャラみたいな顔にはおおいに嫌悪感をおぼえて、作品のキャラクターや美術などが宮崎駿の『風の谷のナウシカ』(感想はこちら)を思わせるデザインなのにもかかわらず物語は陰鬱で退屈、歴代ジブリ作品の中でも1・2を争う「嫌いな作品」でした。
でも、公開当時には有線でしつこすぎるほど(ジブリ作品は毎度のことだが)流れた手嶌葵が歌う「テルーの唄」は好きで、今でも時々聴いています。
もっとも宮崎吾朗の作詞ということになっているこの歌も、萩原朔太郎の詩「こころ」を参考にしていることを映画のエンドクレジットやCDのライナーノーツの中に明記していないことへの批判があったりして、どこまでも「まがい物」臭が拭えない作品だなぁ、と。
…こんな感じで今回はdisりが続きますので、この作品が好きなかたには不愉快かもしれません。ご了承ください。
さて、「金曜ロードSHOW!」で何年かぶりに、というかヘタすりゃ劇場公開時以来初めて全篇通して観ましたが、最終的に「つまらない」という自分の中の評価は変わりませんでした。
2011年に公開された宮崎吾朗の監督2作目である『コクリコ坂から』(感想はこちら)はけっして酷くは感じなかったので、もしかして今観たら自分の『ゲド』に対する印象にもなにがしかの変化があるのではないか、と密かに期待していたのですが。
アニメ『ゲド戦記』が『ナウシカ』に似ている、というのは当然で、そもそもル=グウィンによる原作が宮崎駿に影響を与えているからなのだが、それはちょうどエドガー・ライス・バローズ原作のスペースオペラ「火星のプリンセス」の実写映画化作品『ジョン・カーター』(感想はこちら)がジョージ・ルーカスの『スターウォーズ』(感想はこちら)に似ている、というのに近い。
特にナウシカの原作漫画での「光と影」の関係などは「ゲド」のそれにとてもよく似ている。
だからそのこと自体に問題はないし、僕やジブリのファンの人たちだって『ゲド戦記』のナウシカっぽい絵柄や世界観に惹かれて(もちろんジブリブランドの力もあるが)劇場に足を運んだのだから。
しかし『ジョン・カーター』が『スターウォーズ』に匹敵するか、それを超える作品だったかといえば残念ながらそうではなかったように、『ゲド』は『ナウシカ』の足元にも及ばない作品だった。
いや、断わっておくと、『ジョン・カーター』はアニメ版『ゲド戦記』の何百倍も映画として面白いですよ。ちゃんと冒険ファンタジーなので。
アニメ版『ゲド戦記』は監督の父である宮崎駿の「シュナの旅」という絵物語を原案としていて、ここから具体的なイメージやストーリーなどを取り入れている。
「シュナの旅」は僕は昔読んだことがあるけど、奴隷にされたヒロインが鎖でつながれているところなどは、確かに『ゲド』で似たような場面がある。
ヒロインのテルーは「シュナ」のヒロイン・テアに髪型などデザインも酷似している。
「シュナの旅」はその後、作者の宮崎駿自身によってナウシカの原作漫画の中に活かされたり、シュナのキャラクターは『もののけ姫』(感想はこちら)の主人公アシタカに受け継がれている。
「ゲド戦記」の映画化に苦戦していた宮崎吾朗に、鈴木敏夫プロデューサーを介して宮崎駿が「『シュナの旅』を映画化すればいい」とアドヴァイスした、とWikipediaには記されている。
ちなみに僕は「ゲド」の原作は小学生の時に教室の本棚にあった第1巻「影との戦い」を借りて読んでみたんだけど、期待した「おとぎ話」ではなくてなんだか難しい内容だったので途中で投げだしてしまいました。
それ以来読んでない。だからどんな話なのかよく知りません。
なので、今回も映画についてのみ書きます。
以下、ネタバレありです。
今回、映画を観ながらTwitterで主に批判的な実況ツイートをしていたら、あるフォロワーのかたから「嫌なら観なければいいのに」というごもっともなツッコミを入れられたんで言い訳しますと、僕はこれまで観たジブリの映画の感想をこのブログに書いてまして、とりあえずせっかくならコンプリートしたい、ということで、この『ゲド』もケナす気マンマンで臨んだわけです。
なぜ自分は劇場鑑賞時にこの映画を受けつけなかったのか、その理由をもう一度確かめておきたかった。
二頭の竜が空で傷つけあい、血を流したそのうちの一頭が海に没するところからこの映画は始まる。
竜が人間の世界に姿を現わすのは「世界の均衡」が崩れだす予兆である、ということで国の長と重臣たちは色めき立つ。
何か怖ろしいことが起ころうとしている、という危機感に満ちたこの冒頭の場面はなかなか期待感を煽る。
続いて早速、主人公アレンの「父殺し」が描かれる。
国を維持し民のために忙しく立ち働く王は見るからに頼もしく、だからこそそのあっけなく無残な死には「なぜ?」という疑問が湧いてくる。
劇場公開当時から指摘されていたように、そして原作者が批判したように*3これはもはやル=グウィンの「ゲド戦記」ではなく、そのタイトルを借りたジブリ王国の若き王子・宮崎吾朗による「父殺し」の物語だ。
殺された父王とは、吾朗の父・駿に他ならない。
ジブリが原作の小説や漫画を別物に作り変えてしまうというのはこの映画に限らないし、たとえル=グウィンが望んだようにこれが宮崎駿の手によるものだったとしても、原作に忠実なアニメーション映画になったという保証はない。
ただ、ル=グウィンが不満を表明したのは映画が原作に忠実でなかったからではなくて、単純に作品としての出来が悪かったからだろう。
中二病映画。
この映画については、まさしくこの一言に尽きる。
原作をちゃんと読んでないからこれ以上原作との比較については述べませんが、「中二病」をこじらせまくったこの映画が原作者に深い失望と怒りのため息をつかせただろうことは想像に難くない。
そのため息は、劇場公開時に映画館の客席のあちこちから洩れたものでもある。
この映画の欠点を挙げると、
- アニメーション映画としての絵の動きの面白さに欠けている。
- ストーリーが平板で盛り上がりがない。
- 台詞ですべて説明してしまう。
こんなところだろうか。
物語としての最大の問題点は、主人公アレンの「父殺し」について映画の中でまったく追及されないことだ。
どうして彼が偉大だった父王を殺したのか明確な理由もわからない。
これについては的確な指摘がある。
まぁ、「『ゲド戦記』は駄作なのか?」と問われれば、僕自身は「正真正銘、駄作なーのだ」と答えますが。
「父殺し」というのが一つの象徴であることはわかる。
神話や英雄譚には主人公の「父殺し」がしばしば描かれる。
偉大な父を殺す、というのは主人公にとってのイニシエーション(通過儀礼)であり、彼の自立を表わしてもいる。
しかし、吾朗はこの映画で父・駿を殺し損ねている。
“暴君”の父を憎むのでもなく、偉大なる父を超えるために父以上の偉業を成し遂げようと奮起するわけでもない。
息子は父の前で萎縮し、ヒロインに「父は立派な人だよ」とつぶやくのだ。
そんなヘタレ息子に父を本当の意味で“殺せるのか”?
父を殺したアレンは、ハイタカに助けられて彼とともに旅をすることになる。
ハイタカはアレンのもう一人の父親のような存在だが、みなに慕われていた実の父と人格者であるハイタカにキャラクターとしての違いが見られないので、いよいよ「なぜアレンは父親を殺さなければならなかったのか」という疑問が拭えなくなる。
彼がハイタカとの旅で何を克服してどう成長を遂げたのか最後の最後までわからないので、カタルシスもない。
親父をぶっ殺しておいて「人は必ず死ぬ」などと当たり前なことを勝手に悩んで映画の最後あたりまでほとんど自分からは何もせず、女の子に「命には限りがあるからこそ、生きる意味がある」などと、これまた当たり前すぎることを言われてあっさり納得、勝手に浄化されて自己完結しているという、文字どおりの“こ~ころオナニーにたとえよう♪”というマスターベイティング・ムーヴィー。
監督が自分を主人公に重ねて偉大な王である父親を殺そうとどうしようとご自由になさればよろしいが、そのあと2時間近く(上映時間は115分)延々うじうじと悩み続ける姿を見せつけるのは勘弁してもらいたかった。
そりゃ、現実の世界では人はうじうじ悩むことだってあるけどさ、別にそんなのをわざわざジブリ映画で観たくねぇよ!
作り手にとってどんなに深刻なテーマだろうと、アニメとしてもファンタジーとしても映画としても、とにかく観客にとって「面白くない」ならなんの意味もない。
テルーの顔の傷を「気持ち悪い」と言ってテナーのこともあれこれと噂している近所のおばさんたちは薄っぺらい人間としてしか描かれていないし(『アリエッティ』→感想はこちらでのハルさんの描写のつまらなさに通じるものがある)、クモの手下でクロトワもどきの顔をしたウサギ(香川照之)も何かといえば「ひゃーはっは!!」と工夫のないバカ笑いをしてはあちこち行ったり来たりしてるだけで、キャラクターとしての面白味もない。
やたらと「お嬢ちゃん」「坊ちゃん」「おばちゃん」と繰り返すのもウザかった。何がしたいんだコイツは。
登場人物を魅力的に描くこともできていない。
たとえば、アレンが“キレて”ウサギたちを蹴散らす場面と、『風の谷のナウシカ』でナウシカが“怒りに我を忘れて”トルメキア兵たちを殺す場面を観比べてみれば、演出力や作画レヴェルが雲泥の差であることがわかる。
ネットでさらっと検索してみれば「1時間経ってもいっこうに面白くなる気配がない…」「ジジイがぶつぶつ言ってるだけ」「歌の二番目を歌いだした時、まだ歌うのかと」「いくら不安でいっぱいでも、心が闇でも人を刺していいことにはなりません」「テルー(え、なにこの中二病……)」「台詞でぜんぶ説明する映画なんて大っ嫌いだ!」「女の子、なんで最後ドラゴンになったの??」「パヤオの才能は息子には受け継がれてなかった事を確認できる貴重な作品です!」etc.なかなか容赦ない感想が並ぶ。
普段は好きじゃない「2ちゃんねる」での酷評ですら、いちいちうなずけてしまうぐらい。
もうこれで十分じゃないかσ(^_^;)
僕はこれまで自分が一番嫌いなジブリ映画は『猫の恩返し』(感想はこちら)だと思っていたんだけど、考えを改めました。
『ゲド戦記』が一番嫌いです!
この映画が「つまらない」のは、すべてが観念的だから。
冒険にしろ何にしろ、具体的に何が起こってどうなって、というのが描かれずに登場人物が抽象的、観念的なことをぶつくさ喋ってるだけの映画が面白いわけがない。
そういうのはアート系の実験映画ででもやっててほしい。
この映画のあらすじを確認してみると、ストーリー自体は実に単純なのだ。
悪い魔法使いが悪いことしたので「世界の均衡」が崩れようとしている。悪い魔法使いは大賢者ハイタカ(ゲド)を憎んでいて、彼や彼にとっての大切な人々の命を奪おうとする。
しかし観終わったあとにぐったりしてストーリーをよく思いだせないのは、登場人物たちがとにかく台詞で設定から何からすべてを語りまくるので、内容が全然頭に入ってこないから。
具体的な「絵」ではなく、すべて言葉で説明してしまう。
そういうのが好きなのは中二病患者か、屁理屈コネたい盛りの本物の中坊だけだ。
「ゲド戦記」というのは「真の名」や言葉の本当の意味など、「言葉」というものをとても慎重に扱っている作品のはずなのだが、この映画では言葉は大安売りされている。
本来、台詞の一言一句に気を配らなければならないはずなのに、登場人物たちの会話の内容の陳腐なことといったらない。
いつも以上にこの映画を口汚く罵っているのは、二度とこのような大惨事を起こしてほしくないから。特にジブリでは。
マジで劇場公開当時、世界中のジブリ・ファンが心底ガッカリしたんだからな!!ヽ(`Д´)ノ
魔法使いのクモが望んだ「永遠の命」とは一体何なのか。
文字どおり「永遠に生きられる力」なのだとしたら、そんなものはこの世には存在しないわけだから映画を観ていても何一つ心が動かされない。
抽象的すぎるでしょ。
この映画での“クモ”はアレンのもう一つの姿であることは明らかなのだから、ようするにこれは主人公が自分自身と戦う話である。
古典的だが、描きようによっては燃える展開にもなる。
しかし、クライマックスでの戦いはまったく盛り上がらない。
クモはなんだか気の毒な化け物になって、テルーを殺す。
テルーは竜になって復活。クモは死んで、めでたしめでたし。
…って、なるかっ!!!
何よりも「世界の均衡が崩れ始めている」こととアレンの頭がおかしくなったことが一緒くたにされてるのはいかがなものかと。
この映画が“セカイ系”の作品だと揶揄気味に言われるのも、自分自身の危機をそのまま世の中の乱れとして捉えてしまう、まさに中二病的な思考でもって映画全体が貫かれているからだ。
「学芸会みたいな映画」と言われるのは、少年少女の声の演技の拙さのことだけではなく、内容そのものが中学生が書いた演劇の台本みたいだから。
麻薬のようなもので廃人のようになっていたり、金や物にばかり囚われている悪徳の町に住む人間たち。
このように世の中が乱れきっているので、僕はその愚かな人間たちの最期を敏感に察知していち早く反応したのだ、という理屈。
実に安っぽいイメージ。
「世界の均衡」が崩れ始めているからアレンが狂ったのではない。
こいつが狂おうが正常だろうが、世界は世界として歴然とそこにあり続ける。君は世界の中心ではない。
そのことをまず認識しなければ、いつまで経っても自分がおかしいのを世の中のせいにしたままの重症患者になっていくだけだ。
アレンは自分が何に悩んでいるのかすらハッキリわかっていない。
だからテルーの説得ともいえないほど拙い説得でたやすく納得する。
「人は必ず死ぬ」だの何だの「光と闇」がどうのと、非常に抽象的で観念的な言葉を使って何やら深遠で複雑なものに取り込まれているような気持ちになっているけど、彼は単に王国を継ぐというプレッシャーに押し潰されそうになっているだけなのだ。
宮崎吾朗は「キレる若者たち」に共感を覚えたのかもしれないが、どんなに言葉を弄しても「人を殺す」という一線を越えた者はギリギリ踏みとどまっている者とは違う。
この映画はアレンが処刑される場面から始まるべきだった。
傷ついた少年と少女が理想の父と母のような大人と疑似的な家族を形成する。
この映画が描きかけていたもの自体には興味をそそられるところもあるのです。
ヒロインのテルーは、本来歌手でアレン役の岡田准一同様に声優の仕事が初めてだった手嶌葵の不慣れな演技もあって批判的に語られることも多いけど、僕はこの少女の痛みを負った風情には惹かれるところがある。
原作では親に虐待されていたという設定のテルーに感情移入して観ていた人もいるだろうと思う。
映画を観ただけではよくわからなかったのだけれど、彼女が“竜”の化身であった、というのももっと説得力のある形で見せてくれていたら、きっと感動的なクライマックスになったでしょう。
宮崎吾朗は3.11の震災のあと、「ファンタジーアニメは世界中で作り尽くされた。しばらくは現実に軸をおいた作品を作りたい」などと寝ぼけたことを語っていた。*4
「現実」とかけ離れた世界で竜が飛んだり魔法使いが戦ってる荒唐無稽な作品。
彼にとって「ファンタジー」とはその程度の認識だったのだ。
かように“ファンタジー”の力をナメてる人間に、面白くて感動的なファンタジーアニメなど作れるわけがない。
作り手自身がファンタジーの世界を信じていないのだから。
宮崎吾朗はその後、殺したはずの父親の企画・脚本で『コクリコ坂から』を作った。
『コクリコ坂から』もまた「父と子」にまつわる話であり、そして『ゲド戦記』同様に吾朗が父・駿から多くを譲り受けたものだ。
別に親子でコラボして映画作ったっていっこうにかまわないけど、では息子は父親をどこか一点でも超えられたのだろうか。
「ファンタジー」を語れるほど宮崎吾朗は何かをやり遂げたのか。
ファンタジーの素晴らしさも醍醐味も理解していない彼に「ファンタジーは作り尽くされた」などと知ったようなことを言われたくはない。
2013年9月、スタジオジブリは宮崎駿が長篇アニメーション映画から引退すると発表した。*5
「父」は殺されることなく自ら王国を去った。*6
残された息子の本当の旅はこれからだ。
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