監督:宮崎駿、声の出演:倍賞千恵子、木村拓哉、神木隆之介、我修院達也、加藤治子ほか、スタジオジブリのアニメーション映画『ハウルの動く城』。2004年作品。
原作はダイアナ・ウィン・ジョーンズのファンタジー小説「魔法使いハウルと火の悪魔」。
もはやおことわりするまでもなく、僕は未読。
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帽子屋ではたらくソフィー(倍賞千恵子)は魔法使いハウル(木村拓哉)と出会う。しかし彼を追う荒地の魔女(美輪明宏)の呪いによって90歳の老婆になってしまう。家を出たソフィーはハウルが住む動く城にたどりつく。
表面的には美女と野獣が逆転しているが。
今回、これまでまだ感想を書いてなかったこの作品をもう一度観て、あらためてどう感じたか綴ろうと思いました。
劇場で、またTV放映で何度も観ているけれど、特別嫌いな作品というのでもないのになんとなく気後れして積極的に感想を述べることもなく、どちらかといえば「苦手」な作品だった。
というのも、じつはこの作品を劇場で観ていて、サリマンの魔法で光が輪になって踊る場面で僕はなんと具合が悪くなってしまったのだ。
具合が悪くなったのは映画館での鑑賞時のみで、たまたま体調が不良だったからか、「ポケモンショック」的なものだったのか、それとも内容に関して僕の身体がなにか無意識に拒絶反応をおこしたのかはわからないけど、とにかくジブリ作品、あるいは宮崎アニメを観ている最中にそのような事態になるなどあとにも先にもこのときだけで、それだけでもショックだったし、そんなわけで映画の中身以前になにやらトラウマのような感覚をおぼえるのである。
光が踊るシーンというのは、ちょうどディズニー映画の『ダンボ』でピンクの象たちが踊る場面のようなちょっとドラッギーな感じだった。
とても気持ちが悪かったのだけおぼえています。
さて、この映画とほかの宮崎アニメの違いはなんだろうか。
スタジオジブリのアニメにはこれまでも少女を主人公にした作品はいくつもあるし、むしろ“ジブリ”といえば少女が主人公、というイメージすらあるぐらいだけど、宮崎駿監督作品での“少女”というのはつねに「見られる存在」だった。
「見ている」のはもちろん観客であり、また宮崎駿その人である。
そこには少女をみつめる少年、あるいはオヤジの視線があった。
ところが、この『ハウル』の主人公ソフィーは観客からじっくりみつめられる前に魔法で老婆に変身してしまう。
ソフィーは宮崎アニメではおなじみ「真面目で働き者」の女性だが、どちらかといえば地味で引っ込み思案な性格だった。
それが老婆になってからは次第に大胆に行動するようになっていく。
そして青年魔法使いハウルに“恋”をする。
恋といっても見た目はおばあちゃんだから、彼らはまるで祖母と孫のように見える。
ソフィーは、ふだんはナルシストでだらしないハウルの身のまわりの世話を焼くようになる。
しかし、ときに“オス”の顔を見せるハウルの前で、老婆だったソフィーは乙女になるのだ。
この映画を観ると、僕は昨年惜しくも亡くなった森光子さんとヒガシこと東山紀之を思い浮かべたりする。
このふたりだったら実写版『ハウル』が撮れたんじゃないかと(^o^)
いや、冗談ではなくて、当然ながら年々肉体は老いていきながらある時期からどんどん可愛らしさを増していった森さんの姿には、この映画のヒロイン、ソフィーを連想するのだ。
森さんはあきらかにヒガシに恋していたのだろうし、一方では人生や芸能界の大先輩として彼をあたたかく見守ってもいた。
それはソフィーとハウルの関係にとてもよく似ている。
ハウルの声を担当してるのがヒガシとおなじジャニーズのキムタクというのも、偶然ではあるけどなんだか興味深い。
この映画は“宮崎駿”が18歳の若い女性と90歳の老婆になって、ヴィジュアル系の若者に恋をする話である。
ソフィーの「中の人」はじつは宮崎監督、と考えると若干ブキミではあるが^_^;
宮崎さんはなぜこのようなこころみをしたのだろうか。
ほんとの理由はもちろん僕にはわからないけれど、宮崎監督は亡き母上がご存命だった頃にその顔をよく観察したおかげで年配の女性の顔の描き方を身につけた、というようなことをいっている。
だからソフィーは、もしかしたら宮崎監督のお母さんがモデルになっているのかもしれない。
宮崎駿は母と一体になって、老婆として、ときに少女にもなりながら、これまた宮崎アニメにおいては異色のキャラクターであるハウルという“獣の身体と翼をもった”魔法使いと恋に落ちる。
これまで宮崎アニメのヒロインはあこがれの目で、あるいは守るべき存在としてみつめられてきた。
そしてラナとコナンにも、シータとパズーにも、キキとトンボのあいだにもまだ「恋愛」はなかった。
ナウシカやサンには恋をしている余裕すらなかった。
でもソフィーはみずからの意志でハウルに恋をする。
宮崎アニメで主人公がハッキリと恋愛感情からキスをするのは、いまのところこの作品だけである(『紅の豚』のホッペにチューは恋愛ではないでしょう)。*1
ただ、僕は公開当時に映画館で観て、この宮崎アニメではとても貴重なキスシーンにも意外とときめかなかった。
今回TVで観るまでそのことを忘れてたぐらい。
なんだかソフィーとハウルのキスは、ちょうどディズニーアニメのように「お約束なのでとりあえずさせといた」みたいな妙にあっさりとした印象をうけたのでした。
まぁ、ソフィーの「中の人」が宮崎さんだったら、キムタクとキスする場面にさほど力を込める気になれないのもわかるけど。
宮崎監督がこの映画でもっとも力を入れたのは、ソフィーと荒地の魔女が必死に階段を登る場面だという。
たしかにそれは観ればわかる。
なんかマツコ・デラックスにさらに肉襦袢着せたような荒地の魔女は、声を演じる美輪明宏本人の外見をモデルにしているそうだが(英語吹替版で声を演じているのは、なんとローレン・バコール!)、なかなか失礼だよな(;^_^A
で、最初のうちはハウルの心臓をねらってソフィーに対してもあれこれちょっかいを出してくるのだが、この階段の場面で大変なことになって(^▽^;)その後さらにハウルの魔法の師匠であるサリマン(加藤治子*2)に魔法の力をうばわれて、身体じゅうの脂が抜け切ってカッスカスの老婆になってしまう。
このシーンもなかなかショッキングだった。
悪役、あるいは主人公と敵対していたキャラクターが力をうしなっていつのまにか味方に…というのは『千と千尋』でもそうだったが、最近の宮崎アニメには多いパターンである(『ポニョ』のフジモトなんか、もはや敵なのかどうかすらよくわからないが)。
監督のなかに、登場キャラを悪人で終わらせたくない、という思いがあるようで。
しかしサリマンなどは国王のそばについてなにやら裏から戦争をあやつったり、先ほどのように荒地の魔女にヒドい拷問をくわえたりして、どう見たって完全に悪役なのだが、彼女もまた退治されることもなく、かといって改心して行ないをあらためるわけでもない。
悪い魔法使いが倒されておしまい、にはならない。
宮崎監督にいわせれば、いまでは国や人々の上に立つ者の気持ちもわかる、ってことだろうか。
なんとも釈然としない気分が残るのだが。
悪魔と契約したいかがわしい魔法使いを一掃しようとするサリマンは、ちょうど「浄化」などといって表現の自由を規制したり、人々を自分たちの意のままに動かそうとしているどっかの国の政治家たちのようだ。
あるいは、サリマンというキャラクターは支配者や権力者といった特定の“人間”ではなくて、「運命」とか「神」とよばれるものの象徴のような存在なのかもしれない。
だからなんともきまぐれのように戦争をおこしたり人間を痛めつけたり、そうかと思えばあっさりそれらをやめてしまったりする。
現実の世のなかは釈然としないことだらけなのだから。
おかげであいかわらずお話がどこにむかっているのかよくわからない。
だからこの映画に出てくる「戦争」とはなんなのかとか、サリマンの存在とか、そういうことは多分それほど重要ではないのだ、と思うしかない(そのわりにはけっこう意味ありげに描かれてるんだが)。
では、なにが重要なのかといえば、それはソフィーがつづける日常生活だろう。
ハウルが住む動く城を掃除して、毎日一所懸命働き、ときどきお茶を飲みながらくつろぐ。
どんなときもふつうの生活をすること。
ソフィーのその信念こそが監督が描きたかったことなんだと思う。
前作『千尋』から声の出演で我修院達也が続投、またおなじく『千尋』では巨大な赤ん坊の声をアテていた神木隆之介が今回はハウルの弟子の少年マルクルの声を担当している。
神木君は米林宏昌監督の『アリエッティ』(感想はこちら)にも参加してて、すでにジブリの常連さんである。
ソフィーの声は倍賞千恵子。
少女の声にはちょっと無理があるが、おばあちゃんの声はさすがにウマい。
ハウルのキムタクの声も、ウマいかどうかはよくわかんないけど、気にはなりませんでした。
この映画にはまた『千と千尋』同様「グニョグニョ、ベタベタ」したものが出てくる。
荒地の魔女があやつるゴム人間たち。
癇癪をおこしたハウルは「グニョグニョ、ベタベタ」した粘液に身体じゅう覆われる。
心のなかに溜まった“澱(おり)”のようなものを視覚化するとこんな感じになるということだろうか。
イケメンのハウルは映画のなかでも女性たちに人気だし、現実でも女性ファンが多いらしいが、それでもこの映画はヒロインのソフィーの存在こそが最大の魅力。
また、この映画で活躍するのは、老人や子どもなど、世のなかでは弱者と思われている者たちである。
ハウルもまたけっして完璧なヒーローではなく、ときにあつかいづらかったりもする。
被介護老人と化した荒地の魔女は、それでもハウルの心臓に執着したり、急にまともなことを喋りだしたりする。
この映画のなかでソフィーはなんの前触れもなくコロコロと若返ったり年老いたりする。
それはまるでソフィーの心の状態をあらわしているようでもある。
若い人でも年配の人でも世代に関係なく、どんな女性の心のなかにも「少女」が棲んでいる。
以前、店で高級洋食器を嬉しそうにながめている女性たちを見たことがあるけど、みなさん年齢にかかわりなく小物や花、絵画など、可愛いものや綺麗なものが好きなのだ(そりゃ、なかには可愛いものや綺麗なものにまったく興味がない女性もいるとは思うが)。
70や80歳ぐらいの女性でも笑顔で「あら、かわいい」とつぶやく。荒地の魔女のように。
おっさんやじいさんはこういうこといわないからね。
だからそういう女性たちをとても魅力的だと思う。
この映画は僕にそういうことを思いださせてくれるのだ。
年をとるのも悪くない。
宮崎監督は、不都合なこともいっぱいある現実を、それでも前向きになって肯定していこう、といっているのかもしれない。
ひさしぶりに観た『ハウル』はやはりところどころ飛躍が激しくてストーリーを追うのがちょっとしんどかったんだけど(幸い気分は悪くはならなかったけど)、オーソドックスな「物語」の型から自由になって想像力のおもむくままに映画を紡ぐここ最近の宮崎アニメは、ストーリーの整合性よりもその一瞬一瞬を楽しめばいい、ということだろうか。
今年の夏に公開される最新作『風立ちぬ』では、太平洋戦争時のゼロ戦開発の話で主人公の恋も描かれるという。
以前から書いているように、僕は「冒険活劇」をやめてしまって以降の宮崎駿の作品に心の底からのめりこむことができないんだけど、それでも宮崎監督が戦時下の若い男女の恋愛をどのように映像化してくれるのか、ちょっと期待しているのです(『風立ちぬ』の感想はこちら)。
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