監督:片渕須直、声の出演:桑島法子、小山剛志、陶山章央、こおろぎさとみ、高山みなみ、沼田祐介、竹本英史、森訓久、佐々木優子のアニメーション映画『アリーテ姫』を鑑賞。2001年作品。
原作はダイアナ・コールスの童話「アリーテ姫の冒険」。
音楽は千住明。
とある王国の王女アリーテ姫は、毎日塔の上でひとりぼっちで過ごし、王様が決める結婚相手を待つだけの生活を送っていた。何人もの花婿候補の若者たちがやってくるが、本が好きで好奇心溢れる姫とは会話が噛み合わない。そんなある日、ボックスという名の魔法使いの老人がやってきてアリーテ姫を妻として連れていく。
物語の内容について書いていますので、まだ映画をご覧になっていないかたはご注意ください。
2016年に片渕監督の『この世界の片隅に』(感想はこちら)を観て以来(作品の存在はそれ以前から知っていましたが)ずっと観たかったのだけれど、最寄りのレンタルショップにはDVDが置いていないし、僕が住んでるところでは長らくリヴァイヴァル上映も行なわれなかったので観る機会がありませんでした。
それが去年名古屋の大須商店街にできた「大須シネマ」で上映されることを知って、定員が20名かそこらのその小さな映画館に初めて足を運びました。
※この映画を観たのは2月です。
一日に夜1回の上映で僕を含めて観客は3名、僕以外のお客さんは一人は初老の男性、もう一人は若い女性で、どうやらお二人は初対面らしいんだけど片渕監督の作品、特に『この世界の~』のファンのようで、あの作品を観るために何度も劇場に足を運んだり片渕監督のトークがある上映会を回ったりしていたということで話が弾んでいました。まぁ、僕もそれに近い立場だから親近感が湧きましたね(^o^)
残念ながら大須シネマは新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のために現在は休館中ですが、またいつか復活してくれる日を心待ちにしています(※追記:その後、営業が再開されました)。
さて、ようやく観られた『アリーテ姫』なんですが、…う~ん、困ったことに、僕はかなりイマイチな印象でした。
知る人ぞ知る作品だけど、ファンのかたたちがとても大切な映画として(でも、内容を詳しく紹介した感想はなかなか見かけないのだが)語られているのでとても期待していただけに、観終わったあとちょっとしょんぼりしてしまった。
僕は同じ片渕須直監督の『マイマイ新子と千年の魔法』(2009)を初めてDVDで観た時にもかなり酷評してしまったんだけど、その後、『この世界の~』の公開に合わせてリヴァイヴァル上映された時に数年ぶりに観直して、評価が一変したんですよね。
だから、一度観ただけでの自分の評価はアテにならないことは充分承知していて、もう一回観たらこちらもまた評価がコロッと変わっちゃうんじゃないかという不安もあるんですが、ただし『マイマイ新子~』と今回の『アリーテ姫』とでは不満を感じた理由がまったく違ってまして。
『この世界の片隅に』も『マイマイ新子と千年の魔法』も主人公や周囲の人々の日常生活の描写を丁寧に丹念に積み上げていく、という共通点があって、だから、この『アリーテ姫』も同様の方法論で作ってあるのだろうと思っていたら意外とそうじゃなくて、映画の初めのあたりでお城を抜け出したアリーテが町の職人たちの仕事ぶりを眺めている場面があっただけだった。代わりに全篇に渡って観念的・抽象的な台詞が多い。
もう、観てからずいぶん時間が経っちゃってることもあってよく覚えていないんですが(観た直後ですら、劇中で主人公たちがどんなこと喋ってたのか思い出せなかったほど)、ハッキリ言うととても理屈っぽい内容だったな、と。
真っ先に頭に浮かんだのが、片渕監督もかつて仕事をされたことのあるスタジオジブリの『ゲド戦記』(感想はこちら)でした。ジブリの宮崎監督、といっても片渕さんが組んだ宮崎駿ではなく吾朗ちゃんの方か、と^_^;
宮崎吾朗監督の『ゲド戦記』は、このブログでもケチョンケチョンに貶しまくったし、輝けるジブリの歴代作品の中でも僕のワーストワンだと宣言したほどなんですが、よりによってそんな作品を彷彿とさせるというのは、どうも…(;^_^A
アリーテ姫を娶った魔法使いのボックスは、見た目は白髪と髭の老人なんだけど、何かといえばアリーテのことを「貴様」と呼び(お笑いコンビ千鳥のCMか^_^;)、語彙が乏しくて喋る言葉が本当に退屈。
実はボックスはまだ子どもで、魔法で大人の姿をしていただけなのがあとでわかるので彼の言葉遣いがガキっぽくてその中身も至極青臭いのも無理はないんだけど、それにしても彼とアリーテの会話のつまんなさには閉口した。
『ゲド戦記』がまさにそういう未熟な青二才が延々と屁理屈こねてる映画だったんだけど、「日常描写」を大切にしてるはずの片渕監督がこういう頭でっかちな話をやってしまってることがショックだったんですよね(脚本も片渕監督が担当)。
実は『ゲド戦記』も僕のような否定的な人が大勢いる一方で、「この映画にとても感動した」という人もたまにいて、僕はそれが不思議でしょうがなかったんだけど、もしかしたら、この『アリーテ姫』を褒めてる人たちと『ゲド戦記』を好む人たちというのはどこか共通してるところがあるのかもしれないな。
観る前にこの映画の原作が「フェミニズム童話」と呼ばれていることを知って、そういう観点でも興味をそそられていたんです。
お姫様を主人公にした昔ながらの“おとぎ話”から逸脱していくような物語を期待していた。
僕がディズニーのプリンセス・アニメに興味があるのも似たような理由からで(それ以外にもミュージカルの楽しさとか女性キャラクターの可愛らしさなどいろいろありますが)、そこで描かれていること、そこから見えるもの、疑問や今後の課題など、子どもも観るようなフィクションの作品からさまざまな面白さを感じ取れる。
中世的な、でも“魔法”が存在する世界を舞台にして、古めかしい女性観が否定されて知的好奇心旺盛な主人公が積極的に学問を身につけ行動する、そこから胸のすくようなフェミニスティックなストーリーが展開されるのだと思っていた。
ところが、思ってたほどアリーテは動かないし、持って生まれた知恵や学問で得た知識を使って問題を解決していくこともなかったんですよね。…あれ?って。
魔法使いによってほとんど囚われの身で大人っぽい女性の姿に変身したまま、ず~っと考え事をしているだけ。
ボックスが現われる前に花婿候補の若者たちが次々とアリーテのいる塔に忍び込んできて、そのたびに彼女にやり込められて退散するところはちょっと高畑勲監督の『かぐや姫の物語』(感想はこちら)を思わせるし(もちろん、こちらの方が10年以上も前の作品ですが)、僕はアリーテがその持てる知恵で社会の理不尽さを乗り越えていくものだとばかり思っていたので、彼女がボックスに魔法をかけられて彼のワガママに振り回されているだけのように見えるこのお話に戸惑いとともに失望感を味わったのでした。
…好きな人はごめんなさい、これ、どこが面白いのだろう。
僕はかなり退屈してしまいました。やっと観られた待望の作品だったのに。
もう、どこを面白がったらいいのかわからないので強引に時事ネタに絡めると、最近、お笑いコンビ「ナインティナイン」の岡村隆史さんが女性に対して人権や人の尊厳を踏みにじる発言をして炎上してますが、このアニメ映画『アリーテ姫』の魔法使いボックスが抱える問題というのは、まさにナイナイ岡村さんが抱えている問題ときわめて近いのではないか。
自らの劣等感や不全感を癒やしてくれる存在として“女性”を見ていること。
岡村さんはしばしば恋愛コンプレックスをこじらせて女性を「敵」と見做していることを指摘されてますが(相方の矢部浩之さんからの公開説教の中でも触れられていた)、ボックスのアリーテに対する支配欲というのは、「新型コロナ禍のせいで風俗嬢として働く若い子や美人が増えるのが楽しみ」というようなことを口走ったナイナイ岡村と同じ病理だろう。
外見はジジイやおっさんだけど中身は幼稚で、人の命やその人生を尊ぶ、という人間として当然の意識が欠けている。だから、その無神経にもほどがある発言がどうしてこんなに叩かれているのか本人は理解できないのだ。
そして、そのような“病理”を世の中の(ってゆーか、日本中の)少なくない数の男性が同様に抱えていることが今回の炎上騒動に対する反応でわかったのだった。
問題の本質を見つめようとせずに、何が問題とされているのかもちゃんと理解しないまま「謝ってるんだからもういいだろ、いつまでしつこく問い詰めてるんだ」と岡村さんを擁護している男たちに絶句する女性たちをSNSでよく目にする。
このアニメ版『アリーテ姫』(原作の方は読んでないのでわからないが)では、アリーテ姫が自らの勇気や知恵で女性差別的な社会を変えていく、あるいはそれを乗り越えていくというよりも、これは彼女によって救われる一人の男の話なんだよな。
そこが何か納得いかない部分ではある。
だけど、たとえばディズニーの『美女と野獣』(アニメ版も実写版もどちらも)だってそういう話ではあるんですけどね。ヒロインの美女=ベルが愛してくれたおかげで野獣=王子は救われる。
それは王子様が囚われのお姫様を助け出していた従来の物語を反転させたものでもあるんだけど、でも女性は別に男性を救ってあげるために彼女自身が存在しているわけではない。
ナイナイ矢部さんが今回の件で岡村さんに「早く結婚しなさい」とアドヴァイスしていて、そのことにもたくさんツッコミが入れられてるけど、そりゃそうでしょう。結婚相手は岡村さんの性格やものの考え方を変えてあげるためにいるのではないんだから。なんでそんなことしてやらなくちゃいけないんだよ。そんなの結婚する前にテメェでやっとけよ。
アリーテとボックスはベルと王子のように恋をするわけではないけれど(年齢的にもまだ幼いし)、『ゲド戦記』もそうだったように、少女の払う犠牲が少年を救う、という話であるところはほとんど同じで、でもそろそろそういう、女性による無条件の犠牲(男女の役割が反転しても同じこと)を絶対視するような価値観に疑問を持ってもいいのではないか。
『アリーテ姫』はもう20年近く前の作品だから、今ならこの題材でまったく異なるお話にできるだろうと思います。
男の子はこうあるべき、とか、女の子はこうあるべき、などという決めつけから自由になること。人を支配しようとしないこと。
女性は(男性でも)あなたを癒やしてくれたり救ってくれるために生きているのではない。それが理解できないなら結婚などすべきではないだろう(私もしてませんが)。
この作品が今も見るべきところがあるとすれば、それは疑問を持ったり意見を言ったり、自分の頭でものを考えて発言や行動に責任を持つことの大切さを教えてくれる、というところだろうか。
誰だろうと最低限の敬意を払って接する必要がある。「敬意を払う」というのは表面的に丁寧に振る舞うということではなくて、その人はかけがえのない存在なのだ、と思って扱うことだ。互いに相手のことを尊重しあえれば、現在のこの苦しい状況の中でも、いたずらに人を貶めたり人をモノ扱いするようなことを避けられるのではないか。
結婚しようがしまいが、僕たちには学ばなければならないことがある。
映画の内容についてほとんど触れないままでしたが(;^_^A子どもの頃に観ていたようなシンプルな線で描かれたちょっと懐かしさも感じる絵柄は普段アニメをあまり観ない僕でもとっつきやすかったし、大貫妙子さんと故ORIGAさんの唄う主題歌や劇中歌も耳に心地よかった。
またいつか観る機会があるかどうかわかりませんが、その時にはこの作品の良さがわかるといいなぁ。
追記:
その後、2021年4月に大須シネマで『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』とともに再上映されていました。
あいにく『アリーテ姫』は観なかったけど、1年ちょっとぶりに『この世界の~』を観てきました(^-^)
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