リチャード・レスター監督、クリストファー・リーヴ主演の『スーパーマンII 冒険篇』。1981年作品。1978年(日本公開79年)のリチャード・ドナー監督作の続篇。
新聞記者クラーク・ケント、またの名をスーパーマンことカル=エル(クリストファー・リーヴ)は、テロリストによってパリのエッフェル塔に仕掛けられた水爆を宇宙へ運び去る。しかしその爆発によって、故郷の星クリプトンから追放されたゾッド将軍(テレンス・スタンプ)らを閉じ込めていた“ファントム・ゾーン”が破壊され、彼ら三悪人が解放されてしまう。
いきなり2作目からですが(しかも1作目との連作)。
幼い頃、祖母に連れられて映画館に観に行った思い出深い映画。その後、TVで放映されてヴィデオに録って何度も観ました。シリーズ中では僕はこの2作目が一番好きです。
クリストファー・リーヴ主演によるこのシリーズはぜんぶで4作あって、2006年にはこの2作目の続篇『スーパーマン リターンズ』(監督:ブライアン・シンガー、主演:ブランドン・ラウス)も制作されました。
『スーパーマン リターンズ』 出演:ケイト・ボスワース ジェームズ・マースデン フランク・ランジェラ
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以下、「スーパーマン」シリーズについてのネタバレあり。
第1作目の監督は『オーメン』や『グーニーズ』「リーサル・ウェポン」シリーズなどのリチャード・ドナー(※ご冥福をお祈りいたします。21.7.5)。製作総指揮はその後『スーパーガール』や『サンタクロース』(感想はこちら)などを手がけたイリヤ・サルキンド。
『ゴッドファーザー』(感想はこちら)のマリオ・プーゾが書いた『スーパーマン』の脚本はヴォリュームがありすぎて1本の映画にまとめきれず、2本に分けて作られることになった。
しかしワーナー・ブラザーズやサルキンドとの対立が表面化してリチャード・ドナーは続篇からはずされ、代わりに『ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!(A Hard Day's Night)』『ロビンとマリアン』や「三銃士」シリーズのリチャード・レスターが監督を務めることに。
前作の冒頭で、テレンス・スタンプ演じるゾッド将軍をはじめとする三悪人が惑星クリプトンから追放される。彼らをファントム・ゾーンに閉じ込めたのは主人公カル=エルの父ジョー=エル。演じるのは名優マーロン・ブランド。
ちなみにマーロン・ブランドは、『スーパーマン リターンズ』で『スーパーマン』1作目での未使用映像を使って再登場している。ただし、2作目であるこの『冒険篇』では監督交代による契約上の問題から、彼の映像や声はすべてカットされた。
ところで「スーパーマン」といえばジョン・ウィリアムズ作曲によるあのテーマ曲がおなじみだが、じつはウィリアムズが音楽を担当したのは1作目と4作目のみで、ちょうど「ハリー・ポッター」シリーズのように、この2作目とつづく3作目ではテーマ曲や1作目で使われた劇中曲を組み込んだ上でケン・ソーンが作曲している。
僕がこれまで何度も観てきてお気に入りでもあったスーパーマンの音楽は、ジョン・ウィリアムズの曲であるとともに、ケン・ソーンの曲だったということですな。
鏡状のファントム・ゾーンに閉じ込められたゾッド将軍が「かならず復讐してやる。おまえの息子もだ、ジョー=エル!!」と叫びながら宇宙空間に飛ばされていく場面からクリプトンの爆発、赤ん坊のカル=エルが入ったカプセルが地球へ飛来してケント夫妻に拾われて…と、冒頭でけっこうな尺を使って前作のあらすじが語られる。この一連の流れだけで鳥肌が立つほどカッコイイ。
まだヴィデオすら普及しておらず気軽に過去の映画を観返すことができなかった公開当時、これは前作を観ていなくてもおさらいができるようにという観客への配慮だったのだろうが、おそらく現在の作品ならばこんな懇切丁寧に前作のストーリーを解説してはくれないだろう。
先ほど書いたように本来は1本の映画として企画されていたものだから、ということもあるが、その後作られた『スターウォーズ』の続篇や「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズなどでもこのようなあらすじ解説はなかった。
どうやら世間一般ではリチャード・ドナーの1作目の方がはるかに高く評価されてるようだし、じっさい1作目あってこその2作目なのはたしかなんだけど、この『冒険篇』にはスーパーマンと対等の力をもつ敵が三人も登場するわけで、町を破壊しながらのその派手な立ち回りが楽しいんで僕はこちらの方を断然支持する。
前作にはクラークが育った町スモールヴィルの金色の麦畑にみられるような「うしなわれたアメリカの風景」が描かれていて、それはノスタルジーとともにヴェトナムでの敗北によって自信をうしないかけていたアメリカへの応援歌でもあり、それまでの単なる子ども向けと思われていたアメコミヒーロー作品を一級の大作映画として作り上げたことでもとても意義のある作品だとは思う。
ただ、この2作目ではむしろその「強くて裕福なアメリカ」というのがリチャード・レスターによって皮肉られているところもあって、僕はそこに痛快さを感じるのだ。
幼い頃はとにかくスーパーマンの活躍に夢中になって最後の大逆転に興奮したんだけど、けっきょく力が強い奴が勝つんだ、というこの映画の結末は、いま観るととてもシニカルなものに映る。
それを証明するかのように3作目『電子の要塞』ではさらにコメディ色が強まり、リチャード・プライヤー演じるコンピューター技師は高層ビルからスキーで落ちても無事だし、スーパーマンは善と悪に分裂、悪のスーパーマンは呑んだくれてくだを巻き、女を抱いて彼女のいうままに石油タンカーを破壊する。
ロバート・ヴォーン演じる悪役ウェブスターは「彼はもう正義の味方じゃないんだ」とほくそえむ。
コメディタッチの形をとりながら、「正義」や「強さ」など“スーパーマン”というキャラクターの根幹を成す要素について描いている。
この『電子の要塞』も僕は映画館やヴィデオでくりかえし観てけっこう好きなんだけど、洋泉社のムック本では「底抜け超大作」呼ばわりされていた。わかってねーなぁ、と思った。
あと、このブログでもリンクを張ってる映画データベース「allcinema」のストーリー解説でも『電子の要塞』のことを信じられないぐらいボロクソにケナしてるけど(ここは作品の【解説】にシロウトの個人的な感想が書き込まれている。データベースならどこの馬の骨とも知れんヤツのどーでもいい寸評はいらないから、あらすじだけ記してくれ)、アホか!
これは娯楽映画の見本のような作品ですよ。
そもそもケープひるがえして空を飛ぶヒーローというのが荒唐無稽な存在なんだから、科学考証がどうのこうのといいはじめたら作品自体が成り立たなくなる。巨大コンピューターが意思をもって、電線から全米の電力を吸いはじめるなんてことにいちいち文句つけたって意味がないのだ。
ヒーロー物なのにコメディだからダメだとか、科学的におかしいとか、なにをいってるんだろうって話である。
大切なのはシナリオの構成。
映画の冒頭でスーパーマンは化学薬品工場の大火災を食い止めるが、これが最後の巨大コンピューターとの戦いに決着をつけるための伏線になっている(超優秀なはずのコンピューターがなぜか自分の弱点に気づかない、というムリはあるが)。
ハリウッドのシナリオ作法のお手本みたいな作りでしょう。
それは『冒険篇』もおなじで、冒頭の水爆の爆発が三悪人を解き放ち、それが地球の危機につながる。
ヒロインのロイス・レイン(マーゴット・キダー)と恋におちて正体を明かして人間になることを決意するスーパーマン。しかし人間として生きていくなら超能力を捨てなければならない。
思いとどまるよう説得する実の母ラーラ(スザンナ・ヨーク)に、クラークは「彼女を愛してるんだ」といって、クリスタル・チェンバーのなかに入る。クリスタル・チェンバーはクリプトン人である彼から超能力をうばうが、この装置によってスーパーマンは最後に勝利を得るのである。
ロイスとともに生きたい一心で人間になったクラークは、殴られれば血を流し痛みを感じる人間になるが、その頃地球に降り立ったゾッド将軍たちは、さっそくこの星を支配するために暴れはじめる。ゾッドは問答無用で人類に服従を要求する。
この映画は「強さ」がテーマといえる。真の強さとはなにか。それは映画のなかでは描かれないが、スーパーマンは人間として生きることは許されないのだ、ということだけはわかる。
超能力をうしなったスーパーマンはもはや主人公としては役立たずで、父ジョー=エルに「僕が間違っていた」と許しを請うよりほかにすべがない。
故郷クリプトンの滅亡と運命をともにした父ジョー=エルは、すでに死んだいまも息子に託したクリスタルのなかから彼に助言をあたえつづける。まるで神とキリストの関係のようでもある。
スーパーマンという存在自体、そもそもイエス・キリストをモティーフとしているのだから。
それは『スーパーマン リターンズ』ではさらに顕著で、スーパーマンが弱点のクリプトナイトによって力をうしない宇宙空間に漂う姿が十字架上のキリストとダブったり、地上に落下する彼の様子が9.11テロのビルの崩壊を思わせたり、スーパーマンが一度死んでよみがえるところなども、やはりキリスト=「テロ攻撃からふたたび立ち上がるアメリカの姿」を象徴してもいる。
いろいろと考えればあれこれ深読みもできるんだけど、でもこの『冒険篇』は『リターンズ』がストレートに描いたようなシリアスなテーマをコメディタッチでコーティングしてあって、難しいことを考えなくても単純にヒーローと悪役の大暴れを愉しめる。
ブライアン・シンガーが監督した『リターンズ』はドナー版へのリスペクトにあふれていて僕は嫌いではないんだけど(“黒歴史”とかいってる人がいるが、僕はそうは思わない。そういう人たちはほんとうにあの映画が描いてるものを理解してるんだろうか)、不満だったのは全体的にユーモアが足りないこと。シンガーの映画は「X-MEN」シリーズにも同様の不満がある。
ブランドン・ラウスが演じたクラーク・ケント=スーパーマンはクリストファー・リーヴの演技を参考にしていて好感がもてたんだけど、リーヴ版でマーゴット・キダーが演じたロイス・レインのドジっ娘ぶりやジーン・ハックマンが演じた悪役レックス・ルーサーのコミカルな要素がまったくなくなっていて、ただただ陰惨な印象が残った。
たとえば1作目でジーン・ハックマン演じるレックス・ルーサーは、スーパーマンに「お前たち偏執狂はそうやっていつも悪事を考えて楽しんでいる」といわれて、それまでのニヤつき顔をふとやめて「いや、“実行”するのがなにより楽しい」と答える。
ジーン・ハックマンが演じるルーサーは、ちょうど007シリーズの悪役のような諧謔味のあるキャラクターである。
手下のオーティスとのやりとりなど基本的にはコメディタッチでありながら、しかしやってることはカリフォルニアを核爆発で海に沈めるという極悪非道な所業。この核爆発でスーパーマンはかけがえのない人をうしなう。
こういったあたりの演出の妙。
ドナーから作品を引き継いでレスターが監督したこの『冒険篇』では、超能力をみずから捨てたスーパーマンが、立ち寄ったダイナーで傍若無人な客に殴られて地を這い、ゾッド将軍たちの狼藉を知って自分の無力さに苦悩する。
そうかと思えば、スーパーマンと三悪人がメトロポリスで大暴れしてマルボロのロゴが入った車やコカ・コーラの看板を破壊しまくる場面は、レスター監督の悪意にニヤリとしてしまう。
リチャード・レスターによる『冒険篇』と『電子の要塞』は、シリアスとコミカルのバランスが絶妙なんである。
クリストファー・ノーラン監督の「バットマン」シリーズはシリアス一辺倒だし、ブライアン・シンガーのスーパーマンにもやはりユーモアが不足しているが、僕はレスター監督の作品には大人の「余裕」を感じる。
そこでは良い意味で「所詮マンガですから」という姿勢が貫かれている。
赤いブリーフやブーツ、ケープをつけた男が空を飛ぶなんていう作品は、どう見たってバカバカしいのだ。それはバットマンだって同様だと思うのだが。
それをわかったうえでときどき茶々を入れながらも「子どもだまし」とバカにするのではなく(これを誤解して柳の下のドジョウをねらった作品の多くが失敗した。残念ながらシドニー・J・フューリー監督による4作目『最強の敵』→感想はこちら もおなじ過ちを犯している)、大人がお金をかけて大真面目に遊んでるといった感じで、その心意気が頼もしい。
ロイス・レインのキャラクター造形については、映画のなかでスーパーヒロインが活躍するのが当たり前になった現在観ると、彼女のクラーク・ケントに対するやたら高飛車な先輩ヅラとスーパーマンへのデレデレぶり、自分からどんどん危険に飛び込んでいってはそのたびに「助けてスーパーマン!」と絶叫するところなどなんともお気軽であきれもするが、マーゴット・キダーのおきゃんなコメディエンヌぶりは憎めない。
レックス・ルーサーは、ジーン・ハックマンの悪党演技のひとつの到達点ではないかとさえ思う。大声で怒鳴ってるのに笑える悪役なんてそうはいない。
ケヴィン・スペイシーが『リターンズ』で演じた陰気で凶暴なルーサーには、ハックマンのような茶目っ気が欠けていた。
悪役といえば本作のゾッド将軍役テレンス・スタンプも素晴らしく、このキャラクターは僕以外でもファンは多いようで、いろんなところでパロディになっている。
顔に白っぽいメイクをしたヒゲ面でオールバックのテレンス・スタンプは終始表情の変化に乏しく、別に観客を笑わせるようなことをするわけではないにもかかわらず、彼やジャック・オハローランが演じる巨漢のノン、そして将軍の愛人アーサ役のクール・ビューティ、サラ・ダグラスの三人の行動がいちいち可笑しかったりする。
彼らは地球を「惑星ヒューストン」だと思い込んでいて、湖を見て「非常に変わった地表だな」とつぶやいたり、腕相撲で田舎町のオッサンをぶん投げたり、アメリカ軍のヘリコプターを「キス」で墜落させたりする。
超能力をもっているのに中身は子どもみたいな連中なのだ。彼らの暴れっぷりは子ども心に痛快だった。
金属をゴムのように曲げ、目からレーザービームを発射してコンクリートを素手で割り、マンホールの蓋をフリスビーみたいに飛ばしたりバスを持ち上げたりする。この映画は子どもの万能感を満たしてくれる。
劇場公開版の動画がみつからなかったので、リチャード・レスター版と「ドナーCUT版」をツギハギした映像より。
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たしかに現在の目から見れば特撮に関しては技術的に苦しい部分もあるんだけど、でもたびたび例にあげて申し訳ないが、『リターンズ』でCG技術を駆使して作られたはるかに高度なVFXに僕はそれほど感動しなかった。
合成技術は劣っていても、たとえミニチュア丸出しでも、『冒険篇』のスペクタクル・シーンにはいまでも胸が高鳴るのだ。
それはやはり俳優たちの演技、そして町じゅうをぶっ壊しながら戦う、という溢れんばかりの稚気による。
もちろんジョン・ウィリアムズとケン・ソーンの劇伴がそれをさらに盛り上げていたのはいうまでもない。
クリストファー・リーヴはスーパーマンが飛ぶときに、グライダーの要領で微妙に手の向きや身体の傾け方を変えたりしたという。ただ腕を前に伸ばしているだけでは、いかにもワイヤーで吊られているようにしか見えないからだ。
胸部と股のところに取り付けられたワイヤーの器具は、動きも制限されるしかなり苦痛を伴うものらしい(ヴァラエティ番組などでお笑い芸人がワイヤーで吊られてる姿を思い出せば、その不自由さがよくわかる)。
スーパーマンが地面を軽く蹴って飛び立ったり空から地面に舞い降りる場面で手足の動きに注目していると、リーヴがかぎられた動きのなかでいかに自然に飛んでいるように工夫して演じているかがうかがえる。
さて、前作で刑務所に収監されたレックス・ルーサーは脱獄、北極にあるスーパーマンの家「孤独の砦」にむかう。そこでスーパーマンの秘密を知った彼は、メトロポリスのデイリー・プラネット社にあらわれたゾッド将軍一行にオーストラリアと引き換えに協力を申し出る。
メトロポリスで三悪人と復活したスーパーマンの戦いがくりひろげられるが、被害の大きさにスーパーマンは空に飛び去る。「やはり奴は臆病者だ」と笑うゾッド将軍。
ロイスを人質にとったゾッド将軍は「孤独の砦」におもむきスーパーマンに「ゾッドにひざまずき、永遠に忠誠を誓うのだ」と脅すが、スーパーマンの策略にまんまとはまって退治される。
スーパーマンは人間だったときに彼を痛めつけたダイナーの常連客にお仕置きをして、ゾッドたちによって破壊されたホワイトハウスに星条旗をもどしに行く。「遅くなって申し訳ありません、大統領。二度とお待たせしません。いつでも参ります」といって。
これ以上ないぐらいに王道のスーパーヒーロー映画だが、なんとなく釈然としない向きもあろうかと思う。
つまりスーパーマンの強さとは、彼の努力とは無関係に「神」(のような存在)からあたえられたものなのだ。人としての幸せを捨てて、彼は人類のために戦うことにする。
まぁ正確にいうと人類のためじゃなくて「アメリカ」のため、ですが。
そういった、あくまでも「アメリカン・ウェイのために」戦うスーパーマンというヒーローにはおおいに胡散臭いものも感じて萎えるのだが、幼い頃に観たクリストファー・リーヴが演じる鋼鉄の男スーパーマンには、ただもうそのカッコ良さにシビレたのだった。
クリストファー・ノーランが描くバットマンは「正義」について延々と悩みつづけるが、そういう部分でスーパーマンには迷いがない。
単純明快で「正義」とか「男らしさ」というものに疑問をもつことがない。
『リターンズ』でブライアン・シンガーが描いたスーパーマンはまさに見事なほど「なにも考えていない人」で、ヒロインのロイスとのあいだに子どもができたことも気づかないまま、彼女になにも告げずに仲間をさがしに故郷に帰ってしまう。まるでギリシャ神話のなかの気まぐれな神さまのようである。
『冒険篇』ではクリストファー・リーヴの強靭な肉体と説得力のある精悍な顔つきであまり気にならないが、3作目『電子の要塞』ではスーパーマンの無責任さがさらに加速する。
クリプトナイトの影響で病んだスーパーマンは、ピサの斜塔をムリヤリまっすぐにしたりオリンピック会場の聖火を吹き消したりとやりたい放題でみんなに迷惑をかけまくるが、もとにもどるとそのとき抱いた女性に「君など知らん。あれは僕じゃなかった」と言い放つ。
クリストファー・リーヴはこの3作目を「ふざけすぎ」と感じて気に入っていなかったそうだが、まぁ気持ちはわからなくはない。でもさっきも書いたけど、これはリチャード・レスターのおおいなる皮肉なのだ。
欲望や誘惑にも屈せず人類のためにひたすら戦うヒーローはカッコイイが、人間は綺麗事だけでは生きられないし、なによりそんなの退屈だ。
スーパーマンが見せるはずがない醜態をさらしてみせたことで(じっさいリーヴのやさぐれ演技は見事だった)、観客は彼に共感をおぼえたのではないだろうか。
それにこの3作目には、1作目でスモールヴィルでクラークをからかっていた高校のアメフト部のブラッドやあこがれだったラナ・ラングが再登場する(演じている俳優は別人)。
まるで番外篇のようにあつかわれる3作目だが、お話はつながっているのだ。
なので、僕はちまたでいわれてるようにこの『電子の要塞』がふざけすぎの駄作だとはまったく思わない。4作目の『最強の敵』はまぎれもない駄作だと断言できるけど(いまとなっては“愛すべき”駄作です)。
そんなの自明のことだと思っていたんだけど、いまではこの二作の違いをちゃんと理解してる人がいったいどれだけいるのか、はなはだ不安。
クリストファー・リーヴはとても真面目な性格の人だったようで、1作目のメイキングによれば、彼が穿いている赤いブリーフのもっこりをマーゴット・キダーがからかうとムキになって怒ったらしい。身長2メートルのマッチョな男が「笑うなよぉ!」とプンスカしてる様子を想像すると萌えるけど(^o^)
そして4作目ではリーヴがストーリー原案も務めたが、「核兵器を世界からなくしましょう」と演説するスーパーマンは、いってることは正しいかもしれないけど僕には退屈だった。
つまり、映画の面白さってのは、テーマだとかその主張が正しいかどうかではないのだ。
2000年代に入る頃、インターネットなどでリチャード・ドナーの「うしなわれた『スーパーマンII』」の制作を求める声が高まって、「ドナーCUT版」としてソフト化された。
本来の構想をもとにNGカットやリハーサルの映像などをつなげたもので僕はYouTubeにあがってる映像を観たんだけど、いかにもツギハギな状態でとても作品とは呼べない代物だった。
リチャード・ドナー監督のヴァージョンを支持する人たちはなにかと彼をもちあげて、逆にレスターの劇場公開版をクサすようだけど、比較にならんです。
リチャード・レスターは「映画」としての体裁を考えたうえで『スーパーマンII 冒険篇』を完成させた。そこにはあらたに付け加えたり削るべきシーンやカットはないし、ストーリーを変える必要もない。
この『冒険篇』もその次の『電子の要塞』も映画館で観たんだけど、僕がくりかえし観たのはテレ朝の日曜洋画劇場の放映を録画したヴィデオ。
クラーク・ケントの声を佐々木功(ささきいさお)が、ロイス・レインの声を中原理恵(中原理恵は2作目まで)がアテていた。
またレックス・ルーサーは1作目を小池朝雄、2作目を石田太郎がアテている。石田太郎は「刑事コロンボ」でも小池朝雄のあとを継いでいるけど、声がソックリなんで子どものときはおなじ人が演じているんだとばかり思っていた。
佐々木功はランボーの声でもおなじみだが、特撮ソングやアニメソングの歌手としても有名なようにクリストファー・リーヴ本人にくらべてさらに泣きの低音ヴォイスなので、スーパーマンの力強さがよりいっそう際立っていた。
ハスキーな中原の声はマーゴット・キダーのかすれ声とよく似ていた。ほかの作品でもジーン・ハックマンの声を担当している小池朝雄や石田太郎のハマりぶりはいわずもがな。
このようにかなり思い入れがあるのに、僕が以前買った1、2作目のDVDボックスや3作目の単品DVDには吹き替え音声が入ってなくて(その後出たシリーズ全作品のBlu-rayボックスには入っているようで)、手もとにないのが残念。
スーパーマンの最新作でザック・スナイダー監督の『マン・オブ・スティール』が2013年に公開予定だが、楽しみにしつつも、リチャード・ドナーやリチャード・レスター、クリストファー・リーヴたちが作った作品とはまったくの別物として観るつもりでいる。
まぁ、くらべずに観るのは難しいけれど。
主人公のスーパーマン役は『インモータルズ』のヘンリー・カヴィル、ジョー=エルはラッセル・クロウ、地球での両親ケント夫妻がケヴィン・コスナーとダイアン・レイン、ロイス・レインがエイミー・アダムスで編集長がローレンス・フィッシュバーンとやたら豪華なキャスティングだし、僕が好きなゾッド将軍も登場する(演じるのはマイケル・シャノン)というんで楽しみにしてますが、製作がクリストファー・ノーランで脚本がデヴィッド・S・ゴイヤーという『ダークナイト』組だし、ザック・スナイダーも僕が期待するようなコメディタッチとは程遠い作風の人なので、正直不安はある。
しかも数すくないスティル写真を見てみると、なんと今度のスーパーマンは赤いブリーフを穿いていないのだ。下半身真っ青にブーツという、なんかパンツ穿き忘れた人みたいなコスチュームで不安はつのる^_^;
なんだか「感動巨篇」っぽいですなー。これはこれでおおいに楽しみですが。
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まぁ、クリストファー・リーヴのスーパーマンは僕のなかでいまも生きつづけてるから、今後どんなスーパーマンが登場したって別にそれはかまわないけどな。
クリストファー・リーヴ。2004年死去。享年52。
かつて地球に降り立った鋼鉄の男、僕が幼い頃から観つづけてきたスーパーヒーローはふたたび飛び立っていった。銀河の彼方の故郷をめざして。
映画のなかの“彼”の雄姿を観るたびに、僕は胸が熱くなるのだ。
※ロイス・レイン役のマーゴット・キダーさんのご冥福をお祈りいたします。18.5.13
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