ブライアン・シンガー監督、ブランドン・ラウス、ケイト・ボスワース、ケヴィン・スペイシー、ジェームズ・マースデン、トリスタン・レイク・リーブ、パーカー・ポージー、サム・ハンティントン、エヴァ・マリー・セイント、フランク・ランジェラほか出演の『スーパーマン リターンズ』。2006年作品。DVDで視聴。
故郷の惑星クリプトンの残骸発見の報を受けた“スーパーマン”ことカル=エル(ブランドン・ラウス)は、5年もの間地球から離れていた。地球に戻るとロイス・レイン(ケイト・ボスワース)は母親になっていて、息子のジェイソン(トリスタン・レイク・リーブ)や婚約者のリチャード(ジェームズ・マースデン)とともに暮らしていた。一方、スーパーマンの不在によって釈放となったレックス・ルーサー(ケヴィン・スペイシー)は、早速仲間を引き連れて北極のスーパーマンの家「孤独の要塞」に侵入してクリプトンの強大な力が宿るクリスタルを盗み、メトロポリスの自然史博物館からスーパーマンの弱点であるクリプトナイトを奪う。
内容について触れますので、まだご覧になっていないかたはご注意ください。
ここしばらく1970年代末から80年代にかけて作られたクリストファー・リーヴ主演の「スーパーマン」シリーズ4作品を観てきましたが(『スーパーマンIII』の感想はまた後日投稿します)、その際にTwitterでフォローさせていただいているあるかたとこの映画のことでやりとりしているうちに久しぶりに観たくなってきちゃったので、レンタルしてきました。
『スーパーマン リターンズ』の主演はクリストファー・リーヴではないですが、一応リーヴ版「スーパーマン」の1作目と2作目の続篇として作られている作品なので、ちょうど日本では2019年に公開された『メリー・ポピンズ リターンズ』(感想はこちら)が1964年(日本公開65年)のジュリー・アンドリュース主演の『メリー・ポピンズ』(感想はこちら)の続篇として作られていたのとよく似ていて、出演者は異なるけれどストーリーは直接繋がっている。
だから、『メリー・ポピンズ リターンズ』がそうだったように“前作”にあたるオリジナル版を観ていないと少々わかりづらかったり感動しづらい部分があって、1作目と2作目──最低でも1作目の予習は必須。
スーパーマンの生い立ちやロイスとの関係、宿敵レックス・ルーサーとの因縁などを知っていることが前提でお話が進む。
演出中のブライアン・シンガー
といっても、1作目が公開されたのは1978年(日本公開は79年)でリーヴがスーパーマンを演じていたのは80年代。この『リターンズ』の舞台はケータイも存在する2000年代なので厳密に言えば時代は繋がってないし、登場人物たちのキャラもオリジナル版とは異なるんだけど、まぁ、そこのところは目をつぶって、80年代のスーパーマンを現在に蘇らせることを目指した作品だと認識しておけばよいかと。
以前、『スーパーマンII』(感想はこちら)や『マン・オブ・スティール』(感想はこちら)などの感想でも書いたけど、『リターンズ』はクリストファー・リーヴと彼がスーパーマンを演じたシリーズへのリスペクトに溢れた作品で、音楽を担当しているのはジョン・オットマンだけど、ところどころでオリジナル版でジョン・ウィリアムズが作曲したメロディが流れる。
映画の序盤でレックス・ルーサーに騙されて財産を彼に譲って亡くなってしまう富豪の老婦人ガートルードを演じているノエル・ニールは40~50年代に「スーパーマン」の映画やTVドラマでロイス・レインを演じていた人で、クリストファー・リーヴ主演の78年の『スーパーマン』のディレクターズ・カット版では幼い頃のロイスの母親を演じていた。
また、リーヴ版の『スーパーマン』1作目でマーロン・ブランドが演じたカル=エルの父ジョー=エルがそのまま映像で登場する。その声もブランド本人のもの。
クリストファー・リーヴはこの映画の2年前の2004年に亡くなっていて(マーロン・ブランドも同年に死去)、また彼の妻デイナはこの映画が公開された2006年に亡くなっている。『リターンズ』はリーヴ夫妻に捧げられている。
だから事前にリーヴ版の「スーパーマン」を観ていると、この映画にはジ~ンとくるんですよね。
逆にリーヴのスーパーマンを知らずに観ると、ちょっとピンとこないかも。
この映画は劇場公開時にはそれなりの評価を得ていたと記憶してるし、別にコケたわけでもなくてある程度ヒットしたんですが、ワーナーが期待していたほどの収益ではなかったようで、また監督のブライアン・シンガーも他の企画で忙しかったこともあって続篇の企画はなくなってしまった。
その結果をもってこの作品を失敗作と見做す人もいるようだけど、僕はそうは思わない。
87年の『最強の敵』(感想はこちら)から19年ぶりに作られたスーパーマン映画で、クリストファー・リーヴの最終作では実現しなかったスーパーマンことカル=エルとロイスとの一つの大きな区切りとも言えるある結末を描いたということでも、とても意味のある作品ではないだろうか。
もちろん、リチャード・ドナー(※ご冥福をお祈りいたします。21.7.5)やリチャード・レスターたちが作った「スーパーマン」とブライアン・シンガーのそれとでは映画のトーンが異なっているので完全に同質のものとして観ることはできないんだけれど、『スーパーマン リターンズ』は“スーパーマン”というキャラクター、スーパーヒーローの本質の部分を捉えていて、それはドナーやレスター(他にもう一人いますがw)が彼らの作品に込めたものと通じると思うのです。
『リターンズ』の中でロイスが書いてピューリッツァー賞を獲った論文の「スーパーマンはなぜ必要ないか」というタイトルは、リーヴ版「スーパーマン」でスーパーマンとピューリッツァー賞を追い求め続けていたマーゴット・キダー演じるロイスを見てきた者にはちょっとショッキングな文句だし、それまでは一方的にスーパーマンに恋していつも彼に助けられ、世界を守るために戦い続けている男に翻弄されてもきたひとりの女性が自らの意志で下す選択を描いていることでも、リーヴ版「スーパーマン」への2000年代的な返歌ともとれる作品になっている。
単なるリメイクやリブートではなく、かといってこれまでの作品の再生産のようなものでもない。
続篇であることの意味を考え抜いたうえでの作品で、なおかつ「完結篇」のような趣きもある。
どうやらある時点までは出演者が続投してのさらなる続篇も考えられていたようなんだけど、この『リターンズ』はそもそも続きが作れる作品じゃないんですよね。
もしもさらにこの続きを描くなら、それはもうかつての「スーパーマン」とはまったく違うタイプの作品になるはず。
だって、今回ついにスーパーマンの息子が登場してしまったわけだから。続篇は『Mr.インクレディブル』とか『シャザム!』(感想はこちら)みたいなスーパーヒーロー一家の話になっちゃうでしょ。
だから、僕はこれはこれで単発の作品として残る結果になってむしろよかったと思います。
なんでもかんでもシリーズ化すりゃいいってもんではない。
リーヴ版「スーパーマン」にはコミカルな要素があって「現代のおとぎ話」のように描かれていたのが、やがてシリアスで入り組んだ設定やストーリーのアメコミ・スーパーヒーロー映画がどんどん作られるようになってきて、社会やアメコミ原作の映画への認識も変化してきたこともあって、もはやかつてのようなノリでスーパーマンを描けなくなった、というのはあるかもしれない。
ちなみに、クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』(感想はこちら)が公開されたのは2008年でこの映画の2年後なんですよね。
『スーパーマン リターンズ』は『ダークナイト』やザック・スナイダー監督の『マン・オブ・スティール』ほどシリアスでもなければ暗くもなくて、でも80年代の「スーパーマン」シリーズに比べれば真面目、というバランス。これの前にシンガーは「X-MEN」シリーズを撮っているし、やはり同じ時期にサム・ライミ監督の「スパイダーマン」シリーズもある。それらが持っていた雰囲気も加わっているでしょう。
『マン・オブ・スティール』以降に再び『リターンズ』のような作品が作られることはなかなか考えられないし(だから『ワンダーウーマン 1984』→感想はこちら に感動したんですが)、あの時期だからこそ作れたユニークな作品だと思う。
『リターンズ』はリチャード・ドナー監督の『スーパーマン』第1作を意識的になぞっているところがあって、あの作品でジーン・ハックマン演じるレックス・ルーサーがそうだったように、ケヴィン・スペイシー版ルーサーも“土地”を手に入れようとするしスーパーマンの弱点クリプトナイトの力も利用する。
『リターンズ』でルーサーと一緒にいるのはミス・テッシュマッカーではなくてキティ(パーカー・ポージー)という女性で、またオーティスに相当する道化キャラは登場しない。
『スーパーマン』の1作目と2作目でヴァレリー・ペリンが演じたミス・テッシュマッカーは、2作目の序盤でルーサーと北極の「孤独の要塞」に行って以降、なぜか映画から姿を消してしまったのだが、ルーサーに愛想を尽かしたんだろうか。
ともかく、ここでもルーサーは父親の言葉を引用してみせる。
映画では詳しく語られないけど、レックス・ルーサーもまた「父親」に囚われた男で、スーパーマンと対になってるんですね。余談ながら、ルーサーは独善的なところがドナルド・トランプとよく似ているけれど、トランプもまた父親の教育の影響が強い人物。
「父と息子」というテーマは『リターンズ』において大きな要素で、その観点からこの映画を観るととても面白い。
確かに『スーパーマンII』や『マン・オブ・スティール』みたいに超人たちが暴れて街を破壊しまくるような映画を期待すると地味に感じられるかもしれないけど、ここで何が描かれているのかというと、「親子」とか「パートナー」の話なんですよね。
実はとても身近なことをスーパーヒーローが主人公の映画でやっていて、それって先ほどもタイトルを挙げた『Mr.インクレディブル』や『シャザム!』がやってたことでもある。
この映画でのロイスとカル=エルって、未婚のまま母親になった女性とその相手で、ロイスと婚約しているリチャードはロイスとカル=エルの息子ジェイソンのステップファーザー(継父)。
カル=エルにも故郷の惑星クリプトンの滅亡と運命をともにした実の両親とは別に、地球での父と母がいた。今回は地球での母マーサ・ケント(エヴァ・マリー・セイント)が登場する。
『スーパーマン』でクラークは地球での父ジョナサンに「お前には何か大切な使命があるはずだ。お前のその力はタッチダウンのためにあるんじゃない」と諭され、やがてその養父の死のあとマーサの世話を知人に頼んで北極に旅立つ。そこで実の父ジョー=エルの存在を知り、もはや生きてはいないその「父」の言葉を聴く。
自分がどんな目的で地球に遣わされたのか。その“力”をどのように用いるべきかを学ぶ。
スーパーマンのあの力は彼の努力で身についたものではなく、天から授けられたギフトのようなもの。彼が宿しているその強大な力はクリプトナイトという放射性物質によっていともたやすく奪われてしまう、実に心許ない力でもある。だからこそ、その力を自分の欲望のためではなく、人類のために使わなければならない。
しかし、無尽蔵にその力を行使すれば人間はそれに頼り切って自分たちで何もしようとしなくなる。1日28時間働かされる。だから力を制御せよ。
スーパーヒーローの役割について語っていると同時に、これはまた「神とキリスト」のことでもある(カル=エルは“父なる神”、その子どもを宿すロイスは“マリア”、彼女の婚約者リチャードは“ヨセフ”、ロイスの息子ジェイソンは幼子“イエス”)。
『リターンズ』でも『スーパーマン』の時のように「人類には彼らを導く者が必要だ」というジョー=エルの言葉が繰り返される。
それは受け取り方によってはアメリカ人の傲慢さのようにも感じられるのだが、『リターンズ』ではこの「導く者」という部分はそんなに強調されていなくて、スーパーマンことカル=エルは人類のためにひたすら奉仕する者として描かれている。
この映画でスーパーマンを演じるブランドン・ラウスの優しい顔は、スーパーマン=正義の味方=アメリカ、というアメリカ人の「世界のリーダー」を自認する鼻持ちならなさや厚顔無恥さを幾分か緩和していて、カル=エルをクリストファー・リーヴ以上に無垢なキャラクターに見せている。これはとても効果的だったと思います。
愛し合った女性をほったらかしたまま5年も行方知れずになってて、急に戻ってくる男とか、ロイスの側からしたら迷惑このうえない奴なんだけど、それでもそんな彼をロイスは愛したし、だからこそリチャードともいまだに婚約者のままでいる。
フラフラしてる男に都合がいいっちゃ都合が良過ぎる話ではあるのだけれど、現実にこういうことはあるし、だから決定的な決裂ではなくてどこか曖昧なままロイスとカル=エルの関係が今後も続いていく、というのはある意味リアルではある。
また、血の繋がらない父と息子の関係も描いている、ということでは、これまでスタンダードだと思われていたのとは違った家族の形を提示してもいる。
トリスタン・レイク・リーブが演じるロイスとカル=エルの幼い息子ジェイソンがとっても可愛いんだよね。「ブリトー!」って(^o^) トリスタン君は、あれから15年経ってイケメンの若者に成長したようですが。
ジェイソンがレックス・ルーサーのクルーザーの中で彼の手下とピアノで奏でるホーギー・カーマイケルの「Heart And Soul」は、『ビッグ』(感想はこちら)でトム・ハンクスがFAOシュワルツのビッグ・ピアノ*1で同じ曲を演奏していた。
『ビッグ』は少年が大人に変身する物語だけれど、一方では彼のことを愛した女性がまだ無垢だった少女の頃の自分自身と最後にお別れする話でもあった。
それは現実には存在し得ない“スーパーマン”という子ども時代の永遠のスーパーヒーローを愛しながらも、現実に子を産んで育て、生身の人間として生きていくロイスのことでもある。
だからあらためて言うまでもないけど、『スーパーマン リターンズ』って結構深くて切ない映画なんですよね。
以前、ライムスターの宇多丸さんが『マン・オブ・スティール』の批評の中で、『リターンズ』でケイト・ボスワースが演じるロイスのことを「嫌な女」と表現されていましたが、僕はまったくそうは思いませんね。宇多丸さんはこの映画の勘所を捉え損ねてるんじゃないだろうか(あと、ブライアン・シンガーがゲイだから女性を良く描かない、という発言は物凄い偏見じゃないですかね)。
この映画のロイスは、『ビッグ』で主人公の少年ジョッシュを愛しながらも彼と一緒に子どもの頃に戻るのではなく、大人として成長していくことを選んだスーザン(エリザベス・パーキンス)のように描かれているんですよ。
確かに、リーヴ版「スーパーマン」シリーズでマーゴット・キダーが演じたおきゃんでちょっとエッチでもあった(スーパーマンに自分の下着の色を尋ねたりする)ロイス・レインに比べると、この映画のケイト・ボスワースは妙に生真面目で神経質そうに見えてしまっていて完全に別人なので、たとえばせめてジェイソンと一緒にいる時ぐらいはもうちょっとユーモアがあって明るいところも見せてほしかったな、とは思いますが。
さらにもっと想像をたくましくすると、これはカル=エルとロイスの話という形をとりながらも、実はカル=エルとリチャードの関係をこそ描いたものなのではないか、と考えることもできなくはない。まぁ、ブランドン・ラウスとジェームズ・マースデンの美男同士のカップリングというBL的な楽しみ方もできるということでw
ジェームズ・マースデンって「X-MEN」繋がりでの出演なわけですが、彼はディズニーの実写映画『魔法にかけられて』(感想はこちら)ではノーテンキな王子様を演じていて、主演のエイミー・アダムスを追っかけていた。その後、エイミー・アダムスは『マン・オブ・スティール』でロイス・レインを演じている。偶然ながらも二人のロイス・レインと共演しているサイクロップス。「X-MEN」では報われなかったから代わりにこちらではおいしい役を(^o^)
ブランドン・ラウスは最近も『スーパーマン リターンズ』のスーパーマンの「その後」みたいなキャラクターでTVドラマに出演してたりするけど、「スーパーマン」の映画に出演すると、ほんとにその後の人生に大きな影響を受け続けることになるんだな。それはクリストファー・リーヴもそうだったのですが。
ブランドン・ラウスのことを「一発屋」みたいに揶揄する人もいますが、僕は『スーパーマン リターンズ』って彼がスーパーマンを演じたからこそ成り立った映画だと思うし、さっきも述べたようにユニークでとても貴重な作品じゃないかなぁ。
『リターンズ』の公開当時、ブランドン・ラウスはクリストファー・リーヴのスーパーマンにそっくりだと言われたけど、でも190cmを超える長身であること以外、実はブランドン・ラウスはリーヴとはそんなに似てないんですよね。
クリストファー・リーヴが演じたスーパーマンに倣ったヘアスタイル*2だったり、クラークを演じる時にリーヴがよく見せていた口の片方の端をちょっと上げて笑う表情などをうまく真似ていてクラークのユーモラスな雰囲気を踏襲していたけれど、クリストファー・リーヴのスーパーマンがその後の実写版スーパーマンのイメージを決定づけた一方で、彼が演じたクラークが「あんなデカくてガタイがよくて目立つ男がまわりのみんなから気にも留められないわけがないだろ!」と違和感が物凄かったのに対して、ラウスが演じたクラークはリーヴの時ほどわかりやすくドジでも頼りなくもなかった。もうちょっと普通に人々の中に溶け込んでいるように見えたんですよ。
リーヴのスーパーマンをトレースしながらも、独自のスーパーマン像を作り上げていた。
まるでギリシャ神話の中の神様*3のような天衣無縫さと彼のあの瞳が醸し出すイノセンス、その両方を併せ持つまさに「人ならざる者」としてのスーパーヒーローを体現していた。
それはより生身の人間っぽさを増して描かれたロイスとの対比でいっそう強調されている。
我が子を見つめながら目を潤ませるスーパーマンのあの表情(若干、CGで目許を修正してるっぽかったが)への感動は、演じたのがブランドン・ラウスだからもたらされたものだった。
クリストファー・リーヴ版スーパーマンとも、キレたら手がつけられなくなるほど凶暴なヘンリー・カヴィル(笑)のスーパーマンとも違う、慈愛のまなざしを持った優しい顔つきのラウスのスーパーマンこそが2001年のニューヨークにおける9.11同時多発テロから5年後に作られた「スーパーマン映画」には必要だったのだと思う(スーパーマン映画の舞台となる大都会メトロポリスはニューヨークがモデル)。
だから、宇多丸さんは先ほどの批評の中でブランドン・ラウスの顔にケチつけてたけれども、少なくとも『リターンズ』ではラウスがスーパーマンを演じて正解だったんですよ。逆にこれをヘンリー・カヴィルが演じてたら違和感しか残らなかっただろう。
地上に墜落しそうになる旅客機や、力尽きて空から地面に落下するスーパーマンの姿から、映画の観客たちはどうしたってあのテロの光景を思い起こさずにはいられなかった。
昏睡するカル=エルの耳元でロイスが大切なことを呟くと、彼は復活する。
この映画はスーパーマンの帰還(RETURN)と生還(REBORN)を描いていた。
「子は父となり、父は子に還る」という父ジョー=エルの言葉を、今度は息子のジェイソンに告げるカル=エル。
「父と子」というものはどこか呪縛のイメージもあるけれど、それでもここで父から息子へ伝えられるものには素直に感動を覚える。カル=エルの息子への言葉は、親子の繋がりや生命(いのち)の素晴らしさを祝福するものだ。
「父」という存在は、たとえ暴君であっても、あるいはそれが不在であってさえも子に影響を与えずにはいない。
「強さ」や「正しさ」について描き続けてきた「スーパーマン映画」で、ブランドン・ラウスのまなざしはそこに「優しさ」を加えていた。それは言葉以上に説得力をもって僕たちに大切なものを教えてくれている。
残念ながら、これから先ブランドン・ラウスが再び映画でスーパーマンを演じることはないかもしれませんが、『スーパーマン リターンズ』での彼の演技は紛れもなく素晴らしかったし、この映画は今後もクリストファー・リーヴのスーパーマンとともに記憶され続けていくべきだろうと思います。
関連記事
『スーパーマンIII 電子の要塞』
『X-MEN: フューチャー&パスト』
『スコット・ピルグリムVS. 邪悪な元カレ軍団』
『テッド』