シドニー・J・フューリー監督、クリストファー・リーヴ、マーゴット・キダー、ジーン・ハックマン、マリエル・ヘミングウェイ、マーク・ピロー、ジョン・クライヤー、マーク・マクルーア、ジャッキー・クーパー、サム・ワナメイカー、スザンナ・ヨーク (声の出演)ほか出演の『スーパーマンIV 最強の敵』。1987年作品。
米ソ冷戦による核競争を憂いた少年ジェレミーの訴えでクラーク・ケント=スーパーマンは世界中の核兵器をまとめて宇宙に廃棄することに。しかし、服役中だったレックス・ルーサーが脱走して、スーパーマンの髪の毛から培養した細胞と核ミサイル、そして太陽の力でスーパーマン以上の腕力を持つ“ニュークリアマン”を作り出す。
クリストファー・リーヴ主演の「スーパーマン」シリーズの第4弾にしてシリーズ最終作。
ここしばらくDVDでスーパーマン映画を観返していまして、先日は1作目を、また2作目の感想は何年か前にすでに書いているので順番では次は3作目の『スーパーマンIII 電子の要塞』なんですが、3作目まではDVDを持ってるんだけどその次の4作目は持っていなくてレンタルしてきたこともあって、ひとまずそちらの感想から先に上げさせていただきます。
この映画は劇場公開時に僕は観ていなくて(確かサム・ライミ監督の『死霊のはらわたII』と2本立てだった)、その後TVの「木曜洋画劇場」で吹替版が放映された時に初めて観ました。
劇場公開時は日本ではローマ数字じゃなくて『スーパーマン4』とアラビア数字で表記されていたけど(日本版の予告篇やポスターではそうなってる)、前3作と合わせたのか、その後は『スーパーマンIV』になっていますね。
なんで映画館で観なかったのかは覚えていないけど、当時は今ほど頻繁に映画館へ行けなかったというのもあるだろうし、これの3年前の84年に公開されたスピンオフ的な作品『スーパーガール』もやはり映画館へは観にいってないことからも(こちらもTVで初めて視聴)、もしかしたらすでにこのシリーズに対してあまり興味がなくなっていたのかも。でも前3作はTVで放送されたのをVHSヴィデオで録画してその後も何度も繰り返し観ていたので、スーパーガールや4作目はなんとなく面白くなさそう、と感じていたのだろうか。
今回、せっかくなら『スーパーガール』も久しぶりに観直して感想も書きたかったんですが、あいにく最寄りのレンタルショップには置いてなかったので(もしも廉価で売ってたら購入してもいいかなぁ、と思ってるんですが)、やむなく『スーパーマンIV』を観ることにしました。
83年の『スーパーマンIII』は巷では微妙な評価だったようだし興行的にも前2作ほどは当たらなかったらしいんですが、同じプロデューサーのサルキンド親子によって翌年には『スーパーガール』、そして85年には『サンタクロース』が公開されているので、そんなに悲惨なコケ方をしたわけじゃないでしょう。
ただ、『スーパーガール』も『サンタクロース』もどちらも当たらなかったため、サルキンド親子はスーパーマンの映画化の権利を売却。だから彼らがこのシリーズでかかわっているのは『スーパーガール』まで。
で、スーパーマンの映画化権を手に入れたメナヘム・ゴーランのキャノン・フィルムズはこの人気シリーズの続篇に取り掛かるんだけど、会社の経営が傾いて予算は削減、これまでのような大作ではなくてハッキリと低予算映画として作られることに。
関係者の協力で主演のリーヴをはじめ(リーヴはストーリーの原案も兼任)、悪役レックス・ルーサー役のジーン・ハックマン、ヒロインのロイス役のマーゴット・キダー、ジミー役のマーク・マクルーアや編集長役のジャッキー・クーパーらオリジナルキャストが再結集。
4年ぶりにスーパーマンの新作が作られて最終的にリーヴ主演のスーパーマン映画が4本残ったことは嬉しくはあるんですが、ではその最終作の出来映えはどうだったかというと、これがなかなか目も当てられない代物であった(;^_^A
前3作とは比べ物にならないほどお粗末で酷いシナリオと撮影。どうやらスタッフもそれまでのヴェテラン勢を集められなかったようで、監督もリチャード・ドナー(※ご冥福をお祈りいたします。21.7.5)がオファーを断わっている。
もしもこの映画が好きなかたがいらっしゃったら(いるのかな?^_^;)申し訳ないんですが、これは完全なる失敗作と断言できる。DVDの音声解説でこの映画の脚本家自身がそう言ってるし。
これの前の『スーパーマンIII』のことも「失敗作」呼ばわりして酷評してる人たちがいるけど、全然違いますよ。
失敗作とか「駄作」というのは、この『スーパーマンIV 最強の敵』みたいな作品のことを言うんです!味噌もクソも一緒くたにしないでもらいたい。
『スーパーマンIII』は子どもからティーンまで楽しめる映画(大人になった今だって僕も楽しんで観たし)だったけど、この4作目は完全に小学生低学年向け。初めて観た時にも、子ども騙しを見せられてる気がしてしょうがなかった。
これまでと主要キャストは同じであるにもかかわらず、低予算だとこんなにも違ってしまうのか、とショックだった。
これは出演者のせいではなくて、完全に監督やプロデューサー、スタッフの責任。
マリエル・ヘミングウェイ演じる、デイリー・プラネット社の新オーナー(サム・ワナメイカー)の娘レイシーがクラークを誘惑しようとするくだりとか、観客をナメてるとしか思えないほどスベりまくってるし。
そのへんの薄っぺらさはいかにもバブル時代の映画っぽいですが。
本作品の憎まれ役である新オーナーの娘にもかかわらずクラークに好意を持つレイシーはなんとも中途半端なキャラクターで、彼女が登場すると場面の雰囲気と無関係に必ず安っぽいテーマ曲が流れるのが酷かった。
せっかく1作目に続いてジョン・ウィリアムズが作曲を担当したのに(2作目と3作目の作曲はケン・ソーン)音楽の使い方がなんとも単調で、新しく作られて耳に残っているのはこのレイシーのテーマと、あとはニュークリアマンのテーマだけ。どちらも片手間で作ったようなまるでジングルみたいなシンプル極まりないメロディだった。音楽に割く予算もなかったのだろうか。
レイシーはクライマックスでは、これまでロイスがやらされていた悪役に拉致される役回りを振られている。
終盤で敵のニュークリアマンがレイシーを連れ去って宇宙まで行っちゃうのには呆気にとられてしまった。
だって、映画の冒頭でソヴィエトの宇宙船が『ゼロ・グラビティ』(感想はこちら)みたいな事故に遭って宇宙飛行士が宇宙空間を飛ばされていってしまい、それをスーパーマンが助けるのを描いてるのに、そのあとになんで宇宙服も着てない生身の女性が真空でも平気でいられるの(しかも宇宙空間なのに“下”に落ちそうになってるし)?
『サンタクロース』でジョン・リスゴー演じる悪徳社長が、やはり生身のまま宇宙に飛んでいっちゃうラストと同じことを性懲りもなくまたやってる。
「荒唐無稽」というものを何か履き違えている。
昔観た時には気づかなかったんだけど、今回、月面でスーパーマンとニュークリアマンが戦うシーンで宇宙空間に見立てた黒い幕にシワが寄ってるのが何度も何度も映ってて「えぇ~?」ってなった。バックに宇宙空間を合成する金がなかったんだな。宇宙の場面を黒い布張って撮影するとか…凄いよ、舞台劇か?^_^; クリストファー・リーヴを吊ってるワイヤーを目立たなくさせようとすらしていないし。
さすがに1987年だったらもうちょっとマシな特撮が使えたはずだけど、そんな予算すらなかったということだな。
「スーパーマン」のようにダイナミックな映像で観客を楽しませるようなタイプの映画で映像に金をかけられないんだったら、そもそも作る意味がない。
だけど、同じ年に作られたポール・ヴァーホーヴェン監督の『ロボコップ』(日本公開は88年)はやはりこの手の映画としては低予算だったにもかかわらず、今でも名作として愛され続けている。才能あるクリエイターの手にかかれば低予算でも面白い映画は撮れるんですよね。
残念ながら、この『スーパーマンIV』には『ロボコップ』や、あるいはジェームズ・キャメロン監督の『ターミネーター』の1作目(1984)のように低予算を逆手に取った工夫は見られず、ただショボさだけが目立つ作品になってしまっていた。
『スーパーガール』もかなり微妙だったし『サンタクロース』も同様に“子ども騙し感”が拭えない作品だったけれど、この『スーパーマンIV』に至ってはもはや映画が壊れているとしか思えない。
シナリオを担当した脚本家のマーク・ローゼンバーグの音声解説によると、もとは134分あったのがカットされまくって完成作品は93分になったのだそうで、うまくない演出や低予算による残念なVFX(視覚効果)、無理解なプロデューサーたちのせいで映画がダメにされてしまった、というのが彼の言い分のようなんだけど、そもそも彼が語っていた当初の構想自体が過去作ですでに描かれているアイディアばかりなんですよね。
スーパーマンが少年に会いにくる、というのは前作『電子の要塞』でやってるし、実現しなかったアイディアとして語られている、レックス・ルーサーが核兵器を手に入れて街を占拠する、というのは1作目で似たようなことをもうやっている。
スーパーマンと対等かそれ以上の力を持つ強敵や、クラークがロイスに自分の正体をバラすけどあとで「キス」で彼女の記憶を消す、というのもやはり2作目『冒険篇』で描かれ済み。何一つ目新しいアイディアがない。
ローゼンバーグは、ニュークリアマンもリーヴが演じればよかった、と言ってるけど、いや、だからクリストファー・リーヴの一人二役は『電子の要塞』でもうやってるから!(>_<)
結果としてこの『最強の敵』はシリーズ最終作となったから、レックス・ルーサーが再登場したりロイスが再びヒロインとして描かれて過去作での展開をもう一度繰り返すのが「完結篇」として効果を上げている、と受け取ることもできなくはないけれど、それは計算してやったことではないし(もしもこの映画が当たっていれば、さらなる続篇が作られる可能性もあった)。
ちなみに、マーク・ピローという、その後、他の映画に出演した形跡もなく(TVドラマには出てたらしい)現在何やってるのかもよくわかっていない人*1が演じたニュークリアマンのバカバカしいコスチュームは主人公のスーパーマンの格好がアレだから(笑)組み合わせとしてはとてもよく合ってると思うし、獰猛そうなそのツラ構えやマッチョな体格、ジーン・ハックマンが吹き替えた声など、僕はスーパーヴィランとしてはけっして嫌いじゃないんですよね。いつか新しい作品で彼も復活しないかな(^o^)
太陽の光をエネルギー源にしてるからって、その太陽が隠れると即機能が停止しちゃって動けなくなる、って役立たずにもほどがある悪役だけど。
ニュークリアマンを最後に原子力発電所の原子炉の中に放り込んで退治するのも、核兵器はダメだけど原発はオッケーってことでしょうか。なんかほんとテキトーですな。
予算削減による映像的な貧しさは脚本家だけの責任とは言えませんが、この脚本家の話を聴いていてもとても134分もの長さに耐えられるようなシナリオだったとは思えないんだよね。
この映画では完成版から完璧に存在を消されたキャラクターがいて、それはレックス・ルーサーがニュークリアマンを作る前に生み出したクローンで、DVDの映像特典でそのカットされたシーンが観られるんだけど、まるでフランケンシュタインの怪物の出来損ないみたいなキャラ(演じていたのはクライヴ・マントル)。
どうしようもなくショボいその見た目とおどけた演技が大変癇に障るし、バックに流れる小バカにしたようなふざけきった曲も非常に耳障り(仮に入れた音声なんだろうけど)。子ども向けのカートゥーン(アニメ)のノリなんだよね。面白いと思ったんだろうか。こんなシーン撮ってる暇があったらニュークリアマンとの闘いの場面をもうちょっとちゃんと撮ってくれよ、と腹が立ってくる。
このキャラクターを考えたのがローゼンバーグさんなのか別の共同脚本家なのか、それとも監督なのかは知らないけれど、なんでこんなしょーもないキャラや場面を加えたんだろう。
たとえこの場面がカットされずに残っていたとしても、映画のポンコツさはまったく変わらなかっただろう。むしろ93分への短縮は観客の苦痛をちょっとでも減らすための措置だったのかもしれない。
それから、これも新登場のレックス・ルーサーの甥のレニー(ジョン・クライヤー)は、1作目でネッド・ビーティ演じるオーティスが担っていたルーサーに頭の悪さをバカにされ続ける手下のキャラを受け継いでるけど、劇中で特に面白いことをやるわけでもなく、ただルーサーに張り付いてるだけ。
演じるジョン・クライヤーは当時若手俳優としてジョン・ヒューズ監督作品にも出演していたが、ここでは彼の面白さをまったく活かせていない。こんなんだったらオーティスに再登場願った方がよっぽど愉快だったのではないか。*2
ローゼンバーグ氏は『電子の要塞』のことを例のごとく失敗作扱いしてるけど、この人に『スーパーマンIII』のことをとやかく言う資格なんかビタ一文ないですよ。『スーパーマンIII』は『スーパーマンIV』の1000倍は面白いから。
クラークにロイス以外の新登場の女性キャラクターをあてがって、そこでスーパーマンも交えたダブルデートのドタバタを演じさせること自体、あまりにもくだらない。パロディ映画じゃないんだから。
そうじゃなくて、この映画ではクラークとロイスの関係をもっと深く掘り下げるべきだったと思う。
この映画のクラークことカル=エル(スーパーマンの本名)は、ロイスの前で自分の正体をバラしてそのまま1作目の時のように彼女と一緒に空を飛ぶんだけど(合成があまりにヒドいんで観ていても全然感動がないんだが)、結局は最後にまたしてもロイスの記憶を消しちゃうんですよ。
で、彼女はまたスーパーマンの正体を知らず、クラークのことは頼りない同僚としか思っていない以前の状態に戻る。『冒険篇』でやったことをただ繰り返してるだけ。
ここでのロイスの都合の良過ぎる扱いはあんまりだと思う。恋人扱いしたい時だけ彼女を好きなように付き合わせて、でもそのあとで記憶は消す。いくらなんでもカル=エルは身勝手過ぎる。
ここでもし、ロイスがクラークの正体を知ったうえで世界中の人々のために働くスーパーマンとともに自分もより重い責任を負う覚悟を持つに至り、またスーパーマンもロイスただ一人を愛し彼女を守りながらこれからも“スーパーヒーロー”という自らの役割を果たしていく決心をする、といった結末が描かれていれば、見事な「完結篇」になったでしょう。
僕は原作コミックは一切読んだことがないし、映画以外のTVドラマ版やアニメ版も観ていないのでそちらではどうなってるのか知りませんが、ザック・スナイダーが撮った『マン・オブ・スティール』(感想はこちら)でもそうだったように、おそらく最近のスーパーマンはロイスが彼の正体を知ってる設定でお話が作られているんじゃないかな。
だけど、80年代当時には映画の中でまだそこまで彼らの関係を進めることができなかったんですね。
今だったら、映画の作り手は「スーパーマン」の物語をカル=エルだけでなく、パートナーであるロイスの視点でも描くだろうと思う。マーゴット・キダー演じるロイス・レインが自分の意志でカル=エルとともに生きる生活を選ぶような物語が観たかったなぁ。それはもう叶わないことではあるけれど。
…あれこれと酷評してきたし、今後も僕がこの映画を高く評価することはないでしょうが、それでも最後にスーパーマンが国連ビルの前で「世界中の人々が望めば平和を実現できる」とスピーチする場面からは、この映画のストーリーの原案を担当したクリストファー・リーヴの真摯な姿勢がうかがえる。
ハリウッド製のスーパーヒーロー映画で主人公が世界中の人々に「核兵器廃絶」を訴えるのって非常に珍しいし、実は貴重な作品なのかもしれない。
最終的にはスーパーヒーローが世界を守るのではなくて、“人々”が守るのだ、ということ。これって、たとえば「ウルトラマン」のシリーズの最終話で人類が気づくことでもあって、だから「強さ」や「正しさ」をめぐる寓話でもあった「スーパーマン」で、「スーパーマンは最強なのに、どうして世界から戦争がなくならないのか」という疑問に対して挑んだこの4作目は、その出来はさておき、やはりシリーズ完結篇に相応しいお話だったと思うのです。
『ワンダーウーマン 1984』(感想はこちら)のクライマックスで語られていたのも同じことだった。同作品には『スーパーマンIV』でも描かれていたエアロビクスやブレイクダンスも出てくるしw
たびたび『ワンダーウーマン 1984』の話題を持ち出すのは、あの映画を観たことがきっかけで「スーパーマン」シリーズをもう一度観返してみようと思ったからで、『ワンダーウーマン 1984』はクリストファー・リーヴ主演の「スーパーマン」でシリーズを通して描かれていたことを本当に見事なまでに踏襲して、なおかつ現在のスーパーヒーロー映画としてさまざまな部分をアップデートしていることがあらためてわかったのでした。
『ワンダーウーマン 1984』に登場したドナルド・トランプをモデルにした敵はまるでレックス・ルーサーのようだったが、最後に彼がスーパーヒーローに倒されたり警察に逮捕されて終わるのではなく、彼が本当に大切な“願い“とはなんなのかに気づくという結末だったし、スーパーヒーローの主人公と恋人の関係も現在ならばこう描く男女の姿としてまるでかつての「スーパーマン」シリーズと比較するような感じで提示されていた。
『ワンダーウーマン 1984』はまさに“スーパーマン”を現在の形に蘇らせたのだ、と言える(さらにスーパーガールの要素も含まれるでしょう)。
古いものが新しくなって生まれ変わる。それも「スーパーマン」で何度も描かれてきたこと。
「子は父となり、父は子に還る」。1作目でマーロン・ブランド演じるジョー=エルが幼子カル=エルに贈った言葉。
父と息子の物語であった「スーパーマン」に対して、「ワンダーウーマン」は母と娘の物語として描かれている。
『スーパーマンIV 最強の敵』では、父ジョー=エルに代わって母ラーラ(スザンナ・ヨーク)の声が息子を導き、病いに冒されて臥せる彼を復活させる。
新しきスーパーヒーローであるワンダーウーマンの中に、僕は生まれ変わったスーパーマンの存在を感じ取るのだ。
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