リチャード・レスター監督、クリストファー・リーヴ、リチャード・プライヤー、ロバート・ヴォーン、アネット・オトゥール、アニー・ロス、パメラ・スティーヴンソン、マーク・マクルーア、ギャヴァン・オハーリー、マーゴット・キダー、ジャッキー・クーパーほか出演の『スーパーマンIII 電子の要塞』。1983年作品。
無職の身からコンピューターの才能に目覚めたオーガスト・“ガス”・ゴーマン(リチャード・プライヤー)はウエブスコウ産業にプログラマーとして就職するが、魔が差してコンピューターに細工して会社の金を着服したところ、社長のロス・ウエブスター(ロバート・ヴォーン)に目をつけられ世界の石油を独占する策略の片棒を担ぐことになる。さらにウエブスターは、彼の計画を邪魔するスーパーマン(クリストファー・リーヴ)をなき者にしようとしていた。
ネタバレがあります。
クリストファー・リーヴ主演の「スーパーマン」シリーズ(78~87年)の第3弾。
子どもの頃に映画館で観て、その後TV放映やDVDなどでも視聴。
ちまたではこの『スーパーマンIII』を「失敗作」「底抜け超大作」呼ばわりしてる人たちもいますが、僕としてはその意見には全面的に異議を唱えたい。
名作だとか傑作などと主張するつもりはないけれど、娯楽映画として充分楽しめる出来で別に失敗などしていないし、底抜けでもトンデモでもない。
エディ・マーフィの先輩格の黒人コメディアン、リチャード・プライヤーを主要キャストの一人に迎えていることからもわかるように、この作品はハッキリとコメディタッチで作られていて、そのことでもって“トンデモ”と感じている人もいるようだけど、それならのちに作られた同じDCコミックスのスーパーヒーロー物の『シャザム!』はトンデモ映画なんですかね?あれもコメディタッチでしたが。
むしろ、この『スーパーマンIII』は時代を先取りしていたと言えるのではないか。
スーパーマンをコメディタッチで描くということの意味とは。
クリストファー・リーヴが演じるスーパーマン自身はいつでも真面目でスクエア(四角四面)なキャラクターだけど、クラーク・ケントの時の彼はしばしばコミカルな表情でドタバタを演じてみせるし、リチャード・ドナー(※ご冥福をお祈りいたします。21.7.5)による1作目だってただシリアスなだけの作品ではなくて、笑える要素はいくつもあった(特に悪役のレックス・ルーサー周辺)。
失われていくアメリカ的風景へのノスタルジーを背景にしながら、同時代の『ロッキー』や『スター・ウォーズ』などとともにヴェトナム戦争で傷ついたアメリカとハリウッドの復活を宣言するような大作映画だった1作目に続いて、ドナーから続篇を引き継いだリチャード・レスターは、その『スーパーマンII』にスーパーヒーローの「強さ」を皮肉る要素を加えた。
スーパーマンの超常的な力とは彼自身の努力で身につけたものではなくて、授けられたもの。たやすく失われてしまう心許ないものでもある。
スーパーマンと対等の力を持つ三悪人との戦いでは、本当の「強さ」とは何か、という問いかけがあった。
『スーパーマンIII』では、ウエブスターの罠によって弱点のクリプトナイトの影響を受けたスーパーマンは「正気」を失い、呑んだくれて人々に狼藉を働くならず者に変貌する。
「強さ」についての問いかけがここでもされている。
世界中の石油を独占して、ガスに巨大コンピューターを作らせてスーパーマンを葬ろうとするウエブスターが手にした力。それはまさしく持つべきではない間違った力だ。
クラークと悪のスーパーマンに分裂して、自分自身との戦いののちにスーパーマンは復活する。
「コメディタッチ」は、ここではスーパーマンやアメコミスーパーヒーローのバカバカしさとご都合主義的な展開を徹底的に茶化す役割として機能している。
それでもクラークが母校の元スクールメイトのラナ・ラング(アネット・オトゥール)に見せる誠実さに、映画の作り手が本当の強さや正しさをどのように考えているのかがわかる。
前作『スーパーマンII』ではスーパーマンことカル=エルと相思相愛となったロイス・レイン(マーゴット・キダー)は今回は脇に追いやられて、ラナがスーパーマンから贈られた大きなダイヤの指輪を「クラークからもらった」と告げたために、ロイスは微妙な表情を浮かべる。
シリーズを通してのヒロインである女性キャラクターが脇役扱いされる、というのもこのジャンルの映画では異例だし、「お約束」をぶっ壊そうとするリチャード・レスターの悪戯心や反骨精神がうかがえて楽しい。
そういえば、この映画でのロイスの吹き替えの声(「日曜洋画劇場」版)は前作までの中原理恵さんに代わって「うる星やつら」のラムちゃんでおなじみ平野文さんでした。ロイスの出番はわずかだったし、その次の4作目ではまた違う声優さんが担当してましたが。
ラナは最後にクラークが勤めるデイリー・プラネット社に就職することが決まるけど、続く4作目の『最強の敵』や2作目の続篇として作られた『スーパーマン リターンズ』ではなかったことになっていて、ラナの存在にも一切触れられない。
また、3作目では敵もこれまでジーン・ハックマンが演じていたおなじみレックス・ルーサーではなくてロバート・ヴォーン演じる実業家ということもあって、この『電子の要塞』は番外篇のような扱いを受けてもいるけれど、ラナ(と、アメフト部の意地悪なブラッドも)は1作目にも高校生として出ていたし、クラークが自身の学生時代を振り返る話でもあるのだから、全然シリーズとは無関係どころか、1作目からの流れを汲む正統な続篇でもある。三部作(さらに4作目も作られたわけだが)としてしっかり物語は繋がっているんだよね。
クリプトナイトで抑制が外れてオス全開になったスーパーマンはラナにも興味を示し出すし(どうやらこの時はクラークとは別人格になってたようだが)、ウエブスターの愛人ローレライ(パメラ・スティーヴンソン)を抱いたあと、元の正常な状態に戻ると、「ハイ、ハニー」と声をかけるローレライに「君など知らん。あれは僕じゃなかった」と言い放つ。
また、イタリアのピサの斜塔を押して無理やりまっすぐに立ててしまって、みやげ物屋のオヤジに嫌がらせをする^_^;
このみやげ物屋のおじさんは最後にも登場して、「ピサの斜塔改め、ピサのまっすぐ塔でござい」と、新しく作り直したみやげ物の陶器を店先に並べるが、またスーパーマンがやってきて塔を斜めに戻してしまう。憮然とした表情で空を見つめながら、ほうきでみやげ物を全部破壊するおじさん。高鳴る「スーパーマンのテーマ」(笑)
彼にとってスーパーマンはヒーローなんかじゃなくて、ヴィラン(悪役)だろうな。
ここは笑うところですけどね。コメディですから。
ところで、以前、映画評論家の町山智浩さんが、この『スーパーマンIII』の解説で何度も「どうしようもない」と繰り返しながら半笑いでコキ下ろしてましたが、悪いけど町山さんはこの映画の魅力が全然わかってないと思う。
散々ディスりまくったあとで「でも僕はこの映画が好きなんですよ」とフォローされてたけれど、氏の嘲るような口調にはこの映画への愛情はまったく感じられなかった。ほんとに「好き」なんだったら、もう少しこの映画の魅力を語ってくださいよ。
「脱構築」という言葉で説明されていたように、町山さんはリチャード・レスターの試みについてはちゃんと理解されているんだけど、コメディタッチによるその効果は評価していないんですよね。「ギャグがほとんど笑えない」と仰ってるし。
だけど、これも個人的な意見ですが、大笑いするというほどではないけれど、僕は結構楽しかったんですよ、この映画の中でのドタバタ場面が。
視覚障碍者と盲導犬のギャグなんて、今ではちょっと許されないだろうし、なかなか酷いですが^_^;
でも、このあたりのドタバタギャグのテイストって70~80年代ぐらいの映画にはよくあったし、その中でこの映画がことさらつまらないということはないと思うんだよな。
盲人にぶつかられて工事用の穴に落ちた挙げ句、頭を踏んづけられるおじさんを演じている俳優さんは、確か『スーパーマンII』では空から湖に降りてきたゾッド将軍ら三悪人を間近で目撃して呆然とする釣り人役だった。
ガスが高層ビルの屋上からスキー板を履いたまま落ちても無事なギャグはほとんどカートゥーン(マンガ)の世界だけど、映像のマジック(おそらくワイヤーで吊ってるんだと思うのだが、それでも凄いスタント)でちゃんとそれらしく見えている。
これをほんとにやっちゃったのがジャッキー・チェンですがw
ガスがウエブスターの姉のヴェラ(アニー・ロス)を彼の母親だと勘違いして「おふくろさんがいらっしゃったんですか!」という無礼極まりない言葉を笑顔で放ったり、その後も彼女をおばさん扱いするところとか、僕はずっとこの映画をTV録画した「日曜洋画劇場」の吹替版で繰り返し観ていたので、ガス役の樋浦勉さんの調子のいい台詞廻しが最高で彼が喋るたびに笑ってました。
ウエブスターの吹き替えは『荒野の七人』や「0011 ナポレオン・ソロ」などロバート・ヴォーンのフィックスの矢島正明さんで、二人のやりとりは本当に愉快。
「日曜洋画劇場」版の吹き替えは他の声優さんたちの演技も見事で、そのアンサンブルが素晴らしかった。また吹替版が観たいなぁ。
80年代のTV放映時には、映画評論家の淀川長治さんが本篇前の解説で「キャメラがいいんですね~」と語られてました。まぁ、淀川さんが“キャメラ”=撮影を褒めてる時は映画の内容に興味がない場合だったりもするんですが^_^;
『スーパーマンIV』の脚本家がこの映画でのリチャード・プライヤーは観客から酷評された、と言ってたけど、意味がわからない。彼は好演してたし、この映画の面白さの何割かは彼のおかげだろうに。
町山さんは、リチャード・プライヤーはコンピュータープログラマーにはまったく見えない、と呆れてたけど、いや、だからブラザーなノリの彼がおよそ似合わないコンピュータープログラマーを演じている、その無理がある設定が面白いんじゃないですか。
なんかよくわかんないけどパソコンいじってたら誰もできない計算ができちゃったとか、巨大なコンピューターを設計しちゃったとか、そのデタラメぶりを楽しむ映画なの。コメディってなんだか知ってます?^_^;
ガスが会社からちょろまかした金で購入した高級車で出勤する場面で、バックにチャカ・カーンの「No See, No Cry」のサビの部分が流れていて、以来この曲を聴くたびに『スーパーマンIII』を思い浮かべます。
やはり町山さんは敵の巨大コンピューターの描写のいいかげんさにツッコまれてるけど、コンピューターが人間と敵対する、というアイディア自体はあの時代によく見られたものだし、この映画の翌年にはジェームズ・キャメロン監督、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の『ターミネーター』の1作目が公開されている。
あれもコンピューターが人類に反乱を起こす話だったし、要するに機械が従来のモンスターの代わりだったわけで、最初からSFとして科学的に厳密にやろうとなどしていないんだから、スーパーヒーローと機械のお化けが戦う荒唐無稽なお話にいちいち細かくツッコむこと自体が野暮でしょ。
その荒唐無稽さこそを楽しむ映画ですよ。
映画が始まってしばらくして起こる火災事故が最後にスーパーマンが巨大コンピューターを倒すヒントになったり、シナリオはよく練られているし、スモールヴィルに里帰りしたクラークがそこで再会したラナ・ラングと語り合って彼女の現在の苦しい境遇に「厳しいね…」と同情する場面など、とても情感がこもっていて、だからこの映画はテキトーに作ったポンコツ映画なんかではないし、もっと正当に評価されるべきだと思います。
あと、映画の評価は人それぞれだけど、これだけは明らかな間違いだから訂正させてもらいますが、町山さんは解説の中で「スーパーマンの激しいセックスシーン」がある、と語られてましたが、そんな場面はありません。
子どもも観る映画なのにそんなもんあるわけないだろ。
後半でクラークが悪いスーパーマンに粉砕機の中に入れられて、その機械が物凄い音を立てて揺れる場面があるんだけど、町山さんは多分そこと記憶がゴッチャになってるんだと思う。あるいは完全に何か別の映画の一場面と混同している。
町山さんはこの解説の前に映画を観返していない、と断わりを入れられていたので勘違いしたままで語られていたんだろうけど、曲がりなりにも映画評論家を名乗るんなら、映画を解説する前にはせめてその作品を観ておいてくださいよ。DVDで簡単に観られるんだから。
このポッドキャストの音源はかなり前のものだから、今ではちゃんと事前に作品をご覧になっていると信じていますが。
なんで今さらこんなムキになって町山さんに反論するのかというと、僕はこの『スーパーマンIII 電子の要塞』はとても好きな映画なので、実際にはそんなシーンなどないにもかかわらず、アホみたいな場面を勝手に付け加えて面白おかしく語ってトンデモ映画認定されるのが我慢ならないから。
町山さんの愛のないデタラメな作品紹介のおかげで、この作品を観ていない人までもが「ポンコツ映画」だと思い込んだり、町山さんのように昔観たきりで内容を忘れていた人たちが映画を観直さないまま、これまた「そんなヘンな映画だったんだ」と記憶を改ざんするのも腹立たしいし。
パティ・ジェンキンス監督が『ワンダーウーマン 1984』でこの映画のコメディタッチのテイストにリスペクトを捧げていたように、くれぐれも言っときますが、この『スーパーマンIII』は今観ても愉快な映画ですから。各自、自由にツッコミ入れながら観ればいい。
かつて町山さんが創刊された映画雑誌「映画秘宝」で「ダメ映画やクズ映画を愛でる」という感覚を知ったし影響も受けましたが、最近では、なんでもかんでもダメ映画やクズ映画と決めつけるなよ、と思うようになってきてまして。
しつこく強調するように、この『スーパーマンIII』は別に失敗作でも駄作でもないし、もちろんダメ映画でもクズ映画でもない。そう思ってる人もいる、というだけの話。勝手に断定しないでもらいたい。
失業中で失業保険ももらえなくなったおっさんがコンピューターの才能に目覚めて、やがて悪の手先として働くようになるが、次第に良心が咎めてくる。
一方では、クラーク・ケントの地元での元スクールメイトであるラナ・ラングは、かつては学園の女王と呼ばれたが、その後、夫に捨てられてシングルマザーに。
彼女の息子リッキーはクラークに懐き、またクリプトナイトのせいで病んだスーパーマンをかばって、「また元に戻れるよね、スーパーマン!」と応援し続ける。
黒人やシングルマザーとその幼い息子など、弱い立場の者たちと、スーパーマンやウエブスター姉弟のような強くて富める者たちとの対比。
コメディタッチではあるけれど、「今」をとても感じさせるじゃないですか。半笑いで小バカにするような映画じゃないんだよ。
現在の目で見ると“特撮”が稚拙、というのもわからなくはないんだけど、では今の最新VFXでもっと精巧に描いたら面白いかというと、多分それほどでもないんじゃないだろうか。ザック・スナイダーが撮った『マン・オブ・スティール』を思い出せばわかる。
80年代の頃のあのオモチャっぽいミニチュア特撮がこの内容にはよく合っている。なんでも「リアル」ならいいってもんじゃない。
僕はこの映画、全力で推しますよ♪
関連記事
『スーパーマンIV 最強の敵』
『シャザム!』
『ワンダーウーマン 1984』
『マン・オブ・スティール』