映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

もう一つのブログとともに主に映画の感想を書いています。

「おちょやん」を観終えて

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NHKの朝の連続テレビ小説おちょやん」が5月14日(金)に最終回を迎えました。

すでにもう一つの別のブログにほぼ同じ内容の記事を投稿していますが、これまで朝ドラの感想はこちらのブログに書いてきたので、せっかくならこちらでもちゃんと終わらせたいものですから、重複してしまいますが失礼いたします。

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コロナ禍により前作「エール」の放送終了が大幅にずれ込んだため2020年の11月30日からの開始になって放送期間が例年よりも半月ほど短くなりましたが、物語はしっかり収められてドラマは無事終了。 

前回の感想からひと月以上経ってずいぶんとさかのぼることになりますが、その後をざっと振り返って〆たいと思います。

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千代と一平の結婚後、万太郎一座と観客数を競い合ったり、父テルヲとの再会と死別、寛治の「鶴亀家庭劇」入り、小暮と高城百合子のソ連への亡命を経て、そして戦争が始まり、空襲によってみつえの義理の両親が二人とも亡くなる。寛治は慰問団で満州へ。みつえの夫・福助の出征先での戦死の報告が届く。やがて終戦。 

戦後、千之助と万太郎はかつてのようにともに芝居をすることで和解、それぞれ舞台から去っていく。

満州から戻った寛治は、現地で千代の弟ヨシヲと偶然会っていたが、ヨシヲがそこで敵から人を助けようとして命を失ったことを千代に伝える。 

家庭劇は「鶴亀新喜劇」として再結成されるが、一平は同劇団の若手女優と不倫して、相手の朝比奈灯子は妊娠。千代は一平と離婚して道頓堀から姿を消す。 

行くあてのなかった千代の前に亡き父テルヲの後妻で千代の継母の栗子が現われて、過去の仕打ちを詫びる。長年、千代に花籠を贈り続けていたのは彼女だった。千代は謝罪を受け入れて二人は和解し、栗子の孫娘で自分の姪である春子も一緒に三人で同居を始める。

戦時中に防空壕で千代と出会っていた喜劇役者の花車当郎は行方がわからないままの千代を脚本家の長澤とともに捜し出して、ラジオドラマでの共演を願い出る。

千代が主演の当郎の母親役で出演したラジオドラマ「お父さんはお人好し」は、まだ戦争の傷跡が残る日本中で大ヒット。家族役の出演者たちと本当の家族のような繋がりを持った千代を見届けて栗子は永眠。千代はあらためて春子を養子に迎える。


…と、この一ヵ月半の間に戦前から戦後数年経った時点までを、一週間に1エピソードという原則を守りながら時に大胆な省略も行ないつつ駆け抜けてきました。

そして最終週では、亡き大山社長の遺志を受け継いだ熊田から新喜劇の芝居の千秋楽に一日だけ出演してほしい、と頼まれて、千代は迷いながらも今では彼女の娘になった春子(幼少期の千代役だった毎田暖乃が演じている)に自分の芝居を通じてエールを送るために出演を決心する。


当初の予定通りあと半月あったらさらにもうちょっと各エピソードを描き込めたかもしれませんが(京都のカフェー「シネマ」のみんなや山村千鳥一座の元座員たちのことなども)、けっして本筋が尻切れトンボになることなくしっかりまとめ上げられていました。

このドラマについては、ある意味システマティックに効率よくエピソードが重ねられていたという印象がとても強くて、それは朝ドラとしては変にお話を引っ張らず金曜日には問題が解決されてくれるので視聴者にとってはストレスが溜まらない一方で、人間ドラマとしては若干物足りなさを感じさせるものでもあって、でもそれは限られた放送期間に主人公の半生を描くためには切り捨てなければならない部分を選択した結果ともいえるので、なかなか難しいところですよね。

おしん」のように一年間の放送ならともかく、半年足らずでは一つ一つ深く掘り下げてはいられなかったということでしょう。

もう一つのブログにもすでに書いたことですが、このドラマからは「毒親による虐待や搾取」と「“戦争”に対する責任」の追及という要素がおそらくは意図的に削られていて、そこに個人的に疑問を感じたのでした。*1

テルヲは新しく妻に迎えた栗子の要求に従って幼い千代を口減らしのために奉公に出し、千代の弟のヨシヲのことも育児放棄する。千代は岡安でさまざまな出会いを経験して女優の道に進むのに対して、ヨシヲは神戸のヤクザに拾われてそこの舎弟として成長、のちに千代と再会することになる。

テルヲはその後もたびたび千代の前に姿を現わして、娘の信頼を裏切り続ける。

実の子どもたちをそのような目に遭わせたテルヲは最終的に反省して千代の前で懺悔してこの世から去るが(栗子についてもほぼ同様の処理をしている)、これは「朝ドラ」という枠組みの中で描く題材としてはギリギリだったのだろうし(これが深夜ドラマとかだったら、また描き方も違っただろう)、ドラマの作り手が考えた「こうであったらいい親子関係」を提示してみせたものだろうから、これはこれで一つの例として観ればいいのだと思うのだけれど、でも現実にはこうやってなんでもかんでもすべてが丸く収まることなどないのだし、だからこそ「人間」というのは複雑だったり厄介でもあるのでしょう。

解決しないことや腑に落ちないモヤモヤを抱えながら僕たちはこうやって生きているんですから。

…ドラマの中で“毒親”を反省させて謝罪させたんだからいいじゃないか。あとは許してやれば、和解すればいいだろう、というのは、「許せない人」を許さない、加害者を擁護するある意味暴力的な主張でもある。

子が親を許さず縁を切ることもある。だからって、その「子」のことをとやかく言う資格は誰にもない。和解できないこと、許せないことだってこの世にはある。

千代のモデルになった浪花千栄子さんが父親や元夫から受けた仕打ちは、ドラマで描かれた程度のものではなかったのだし(父親に騙されて奉公先の賃金を全部持っていかれて別の奉公先に移されたり、夫からは劇団で嫌がらせをされ続けて堪え切れずに離婚している)。反省などせず、罰も受けない者たちは大勢いる。

彼女は多くの痛みを乗り越えて、やがて「日本のお母ちゃん」になったんですよね。でも、それは「許した」からではない。彼女の胸の奥には「怒り」だってあったに違いない。

そういう人の世の厳しくて残酷な面を無視するのは、本当にすべての人を「受け入れる」ことにはならないと思う。

また、戦前戦中と、千代たち「鶴亀家庭劇」は次第に色濃くなってくる戦時色に迎合して戦地の兵士たちを激励するような芝居をやり続け、社長の大山鶴蔵はそれでしこたま儲ける。

ところが、そのことについて千代や仕事仲間たちが後悔するような描写はないんですよね。お客さんを喜ばせるためだったんだから、ということで千代の口からも反省の言葉は一切出てこない。これはいかがなものだろうか。*2

このドラマの千代のモデルである浪花千栄子さんが戦時中の自身の活動についてどのように感じておられたのか、どんな発言をされているのかは知りませんが、現在僕たちがどのような視点であの戦争を見るべきかはドラマの作り手としての明確なメッセージが必要なのではないか。しょうがなかった、では駄目だろう。

少なくともドラマで戦争の時代を描くんだったら、劇団や役者、脚本家などの「表現の担い手」の責任についてうやむやにしてはならないでしょう。

彼らには戦争を奨励した責任があった。そのことはちゃんと描かないと。

おしん」で主人公のおしんが抱えることになった「戦争への加担」に対する自責の念(彼女の夫は戦争特需で潤っていた)、あるいは「澪つくし」で「戦争になれば儲かる」とほくそ笑んでいた老舗醤油屋の当主・久兵衛(「おちょやん」の大山社長も彼とまったく同じ態度だった)がその後どのような末路をたどったか。

「みんなに喜んでもらうためにやっていたんだから」などという言い訳は通用しない。「正しいか」「間違っているか」ハッキリさせなければならないことはある。

先ほどの「虐待」の件と矛盾したことを言ってますし、確かに現実には、戦争協力していた者たちはそのほとんどが反省などしなかったかもしれない。映画界でも演劇界でも、なんの罪悪感もないまま戦後はしれっと民主主義的なものに鞍替えしたり、戦争そのものから目を背けようとしたのかもしれない。

たとえそうだとしても、あの時代を描くドラマの作り手は当時彼らの犯した“罪”をちゃんと意識して描かなければ。僕はそう思いますね。

だから、僕はこの「おちょやん」が“完璧”なドラマだとは思わないし、批判されるべきところだってあると思う。

そのうえで、このドラマは素晴らしかったし、疑問も含めていろいろと考えを巡らせる材料を与えてくれたと思います。ほんとに毎日楽しんで観てましたから。

本当はもっとダイレクトに描きたかったんだけど、いろんな制約があってオブラートに包んだり、含みを持たせて視聴者に考えてもらおうという狙いだったのかもしれない。

みつえの息子で軍国少年になって「お国のために軍隊に志願する」とまで言い出した一福に、父親の福助は「今は家族を守るように」と諭して出征する。彼はお別れに愛用のトランペットでみんなに「埴生の宿」のジャズ・ヴァージョンを吹いて聴かせる。

福助は仲間や家族たちの前でけっして勇ましいことを口走らなかったし、最後まで一福がトランペットを吹くことを望んでいた。彼にとってトランペットは平和の象徴だった。

父親の戦死の報を受けて一福が「無駄死に」だと呟いたのに対して千代が「お父ちゃんは家族を守った」のだと答えるんだけど、それは戦場で勇敢に戦ったということではなくて、息子に戦場に行くことを思いとどまらせて最後まで戦争を称揚することがなかった福助のその生き方が「家族を守ったのだ」と言いたかったんだと僕は解釈しました。

福助のその声高ではない生き方には、紛れもなくドラマの作り手の主張が込められていたと思います。

だから、ここで僕が書いた批判だって、もしかしたらまったく別の見方ができるかもしれない。

もっかい第一話から順番に観返したいなぁ。もう一度観て語りたいエピソードや場面は他にもいっぱいあるし、早くも再放送が待ち遠しい。

お願いですから、関係者の皆様におかれましてはくれぐれも“不祥事”など起こされませんようにw

主演の杉咲花さん、そして一平役の成田凌さん、共演者のかたがた皆さんを称えたいし、このドラマの作り手全員に感謝したいです。この半年間どうもありがとうございました。まだしばらくはこのドラマのことが忘れられそうにありません。


さて、早速今週の17日の月曜日から清原果耶さん主演の新作「おかえりモネ」が始まりました。AK(NHK放送センター)制作作品。

できれば、もうちょっと「おちょやん」の余韻に浸らせてほしいんですが…^_^;

これまで何度も述べていますが、ここ何作かのAK朝ドラを僕はどれも途中で離脱していまして、2017年上半期の「ひよっこ」以降、1本も最後まで観られていません。一方、BK(NHK大阪放送局)制作のドラマはずっと観続けているし、19年下半期の「スカーレット」に続いてこの「おちょやん」も半年間ずっと楽しんで観てきてお気に入りの作品になりました。

この違いはなんなのだろう。なんで西と東でドラマの評価にこんなに極端な差が出るのか。

その理由について述べ出すと長くなるのでやめますが。

すでに三話分放送されていますが、「モネ」については、正直僕はまだピンときていないんです。出演者は豪華だけど、お話が頭にまったく入ってこない。

清原果耶さんはBK制作の「あさが来た」(2015年下半期)に“ふゆ”役で出演されていたし(「おちょやん」の杉咲花さんもAK制作の「とと姉ちゃん」に出てましたし)、出演者に問題があるのではないことはわかっているのですが。

「モネ」が現代劇であることも、個人的に心配の種で。僕は現代劇が苦手なものですから。あの「あまちゃん」でさえもハマらなかった男なので。

清原果耶さんは同じNHKのドラマ「透明なゆりかご」(2018)でも素晴らしい演技を見せてくれていたし、優れたドラマなら現代劇だってなんの問題もなく観られるはずなんですが。だから、できれば「モネ」も最後まで観たいんですよね。なんとかこれまでのジンクスを覆してほしい。 

これからの半年間もまたぜひ「泣き笑いのエピソード」を(まだ「おちょやん」が抜けてない)(^o^)


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*1:今では「反戦」の要素を入れるとあれこれと難癖つけてくる者がいるからだろうか、などと勘繰ってしまうが。

*2:のちに千代がラジオドラマを一緒に作ることになる脚本家の長澤が、戦争で家族を失った人々を励ましたい、ということを口にするが、戦争に対する自分たちの責任については語られない。