名古屋市美術館で6/6(日)まで開催中のランス美術館コレクション「風景画のはじまり コローから印象派へ」に行ってきました。
19年の「あいちトリエンナーレ」以来の来館。
愛知県は新型コロナウイルス感染症拡大予防のために今月12日から緊急事態宣言が出されたので、美術館の営業はどうなんだろう、と心配で電話で直接確認してみたところ、通常通りやっているようなのでホッとしました。
去年はやはり楽しみにしていた「ミュシャ展」がコロナ禍で中止になって観られなくなり、金券ショップで購入済みだった前売り券が無駄になってしまった腹立たしい経験があるので、やはり金券ショップで前売り券を買った今回も同じ轍を踏まされるのは御免こうむりたかった。
先日行った「バンクシー展」(6/20まで開催)と違って館内は撮影禁止だったし、いつもはある音声解説も見当たらなかったけれど、ランス美術館所蔵の「バルビゾン派」や「印象派」と呼ばれる画家たちに影響を与えた画家ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796-1875)をはじめ、主に19世紀に活躍したフランスの画家たちの風景画74点が展示されていて、なかなか見応えがありました。
時間の都合で後半ちょっと駆け足気味の鑑賞になってしまったので、もうちょっと余裕を見ておけばよかったと後悔。じっくり観れば僕の速度だったらニ時間ぐらいかかっただろうか。
正直なところ、タイトル通り「風景画」ばかりだし、同じような風景の絵がいくつもあるのであまり区別がつかなかった作品もあって、その素晴らしさをどれぐらい堪能できたか心許ないんですが。
エッチングとか、相変わらず「虫眼鏡使って描いたんですか?」ってぐらい細かくて小さな絵に必死で目を凝らす。昔の人たちは異常なまでに手先が器用で目がよかったんだろうか。
それまではアトリエで行なわれるのが当たり前だった絵画制作が、鉄道の発達で遠くへ行けるようになったり、絵の具を携帯して移動することが可能になったおかげで画家たちが戸外へ出て自然をじかに観察して描くようになって、それまでの神話や歴史を描いたものから自然の風景を描くように絵の題材が変化していったんですね。
「写真」が生まれたのもこの時期で、写真がこれ以上普及することに危機感を持って反対した画家たちもいたというのが面白い。
“風景画”の画家コローが描いたのは写真のように現実の風景をそのまま写し取ったものではなくて、スケッチしてきた風景に画家の頭の中のイメージを加えてアトリエの中で再構成したもので、しかし、それがやがて完全に戸外で絵筆を取る画家たちの出現に繋がっていった。
バルビゾン派や印象派の画家たちはまるで未完成なままのような絵を完成品としてサロンに出品した。その場で光や大気の変化をとらえようとした結果だった。
以前にもどこかに書いたけれど、僕はたまにこうやって美術展に足を運ぶことはあるものの、美術とか絵画のよさをちゃんとわかってはいないし、自分がなんとなく「いいなぁ」とか「綺麗だなぁ」とか感じられるのはせいぜい印象派ぐらいまでなんですよね。それよりもさらに現代アートに近づくとそれらはもうどんどん抽象画に近くなってきて、僕には絵画というよりも「模様」にしか見えない。
「模様」にだって美しさはあると思いますが、何が描かれているのかもわからない絵は僕には評価のしようがない。バンクシーの絵は具象画だからアートに疎い僕でも「面白いなぁ」と思える。
今回展示されていた作品の中でも、たとえばルノワールの絵でまるでパレットに出された絵の具みたいなものもあったけれど、コローの作品などはまだ何が描かれているのかちゃんとわかるし、写真とは違う魅力も伝わる。先ほどのエッチングのように細か過ぎる筆遣いもあれば、大胆に省略されて描かれているものも。
それにしても、こうやって何点もの絵画を眺めていると、あらためて「絵」というのは不思議なものだな、と思います。
だって、さまざまな色の連なりを僕たちはこうして人物だとか木々だとか岩だとか建物や海や空といったふうに認識して観ているけれど、実際にはそれはキャンヴァスに引かれた線だったりまるで染みのような点でしかなかったりする。中にはそれがなんなのかよくわからないものもある。
でも、解説文などを読むとそれが何を表現したものなのかしっかり説明されていたり、画家がどんな想いを込めて描いたのか、彼らの心情までもが細かく語られている。
もちろん、それはあてずっぽうに解釈したものではなくて、同じ画家のこれまでやその後の作品、その時代とのかかわりなど、専門家たちが長年研究したうえで明らかにされたことですが。
一人の画家はまた別の何人もの先人の画家たちの影響を受けていて、多くを学んだうえで自分の作品を制作している。だから、そういう歴史や人物同士や作品と作品の繋がりを知らなければ、一枚の作品を理解するのも難しい。絵画や美術には門外漢の僕にはわからないことがあまりに多い。
そんなわけで、僕は解説なしに絵だけ観てその作品の真価を判断することなんてできないので(解説を読んだからってその作品が“理解”できるわけではないが、知識は得られる)、「解説」とセットで「作品」を楽しむことになりますが、美術館で過ごす時間の心地よさはいつまでも忘れたくないな、と思いますね。
こうやって同じ時代に活躍した画家たちの作品をズラッと見てみると、誰一人として時代や歴史と無縁な画家はいないことがわかる。どこかで繋がっているものがある。だから、絵画にしろ他の美術品や表現物もそうだけど、その作品単体だけを切り離して評価することはできない。人もそうだ。
コロナ禍のさなかにある現在、けっして油断できない状況ですが、こんな時だからこそ芸術にふれる時間や心の余裕は大切だと思うし、忘れてはならないとも思う。 それは現実逃避するためではなく、逆に現実をより鮮明にするためでもある。
文化や芸術に無関心だったり、そういうものを平気で切り捨ててしまうようになったらどんなに酷いことになるか、僕たちは歴史から学べるはずだ。