イヴ・ロベール監督、ジュリアン・シアマーカ、フィリップ・コーベール、ナタリー・ルーセル、ヴィクトリアン・ドラマール、ジョリ・モリナス、ディディエ・パン、テレーズ・リオタール、ジュリー・ティメールマン、フィリップ・ウシャン、ジャン・ロシュフォール、ジャン=ピエール・ダラ(ナレーション)ほか出演の『プロヴァンス物語 マルセルのお城』4Kデジタル・リマスター版。2017年(オリジナル版1990年)作品。
『マルセルの夏』4Kデジタル・リマスター版(感想はこちら)に続く「プロヴァンス物語」二部作の完結篇。
ストーリーについて書きますので、まだご覧になっていないかたはご注意ください。
なお、以前書いた内容についてより詳しい感想はこちらです。
マルセイユに帰ってからもプロヴァンスのことが忘れられないマルセル(ジュリアン・シアマーカ)は、リセの給費生試験の推薦生徒に選ばれて勉強に追われながら気もそぞろ。両親はクリスマスにも家族でプロヴァンスを訪れることにする。
前作は夏だったけど、こちらでは秋からクリスマス、そして春の復活祭。やがてまた夏がめぐってくる。
また、前作は主にマルセルの父ジョゼフ(フィリップ・コーベール)との「父と子の物語」だったのが、今回は特に後半には母オーギュスティーヌ(ナタリー・ルーセル)との「母と子の物語」になっている。
前作がマルセルの誕生からオーギュスティーヌの姉ローズ(テレーズ・リオタール)と夫ジュール(ディディエ・パン)の馴れ初め、緑溢れるプロヴァンスでのさまざまな出会い、そこでの冒険と友情など喜びと生命感に満ちた物語だったのに対して、続篇ではマルセルの恋や流れる川のイメージ、別れや哀しみといった感情が描かれる。
1作目のテーマ曲が明るく勇壮でワクワクさせられるのに対して、この2作目では美しく物悲しいメロディが奏でられる。
『マルセルの夏』と『マルセルのお城』を2本続けて観ると、最後にはすべてが過ぎ去りし美しき想い出として映画館の暗闇の中に消えていく。そこに堪らない切なさを感じる。
ジョゼフの教え子で運河の点検係ブジーグ(フィリップ・ウシャン)のおかげで助かり、ジョゼフの昇給によってプロヴァンスに馬車で通えることになってみんなで喜んだあの夏からわずか5年後にオーギュスティーヌは亡くなり、1917年には第一次世界大戦の戦場でマルセルの親友だったリリ(ジョリ・モリナス)が銃弾で命を落とす。弟のポール(ヴィクトリアン・ドラマール)はヤギを飼いながら終生愛したエトワール山で暮らしていたが、30歳の若さでこの世を去った。
──それが人の世だ 喜びはたちまち悲しみに変わる 幼き者が知る必要はない──
夏のプロヴァンスの風景で始まったこの二部作は、最後に再び時を経た夏のプロヴァンスで締めくくられる。
耳をすませば、いつでも夏のお城の前でマルセルを呼ぶ亡き母の声が聴こえる。そこは懐かしい想い出の眠る場所。
母が怯えたあの城は、息子のものだった。
過去と現在が繋がり、想い出は馬車の車輪のように永遠に回り続ける。
これまで91年の劇場公開時とTVやヴィデオなどでも観ているけど、何年かぶりに観て、もう冒頭のテーマ曲を聴いただけで涙が溢れそうになってしまった。
これは催涙曲だなぁ(;^_^A
今年は個人的に映画は豊作に恵まれたけど、この「プロヴァンス物語」二部作を27年ぶりに本当の夏に映画館で観られたことはかなりのイヴェントでした。
客席で観ている僕は27年分歳を取ってるのに、映画の登場人物たちはあの当時のまま。
それは想い出の中の人たちがけっして歳を取らずに時が止まったままなのと同じ。
そのことに気づいて、よりいっそう時の流れに無常を感じるのだ。
さて、20世紀初頭を舞台にしたこの二部作を観て今あらためて気づくことは、主人公マルセルによるハッキリと女性を見下した物言いや態度。
この『マルセルのお城』では、プロヴァンスのベロンに住んでいた少女イザベル(ジュリー・ティメールマン)との別れのあとに、マルセルが母オーギュスティーヌに「女は“男の失敗作”だよ」「女は自然が犯した過ちだ」と言い放つ。
また、「母と伯母は“女”ではない」という、少年として言いたいことはわからなくはないが、こちらも無礼といえばなんとも無礼なモノローグ(独白)。
そして、イザベルにいいように弄ばれる長男に向かって「私は女からそんな命令は受けない」と怒り心頭に発する父ジョゼフ。
少年時代のマルセル(大人になってからは語られないので)の価値観、女性観というのはいかにも19世紀末から20世紀前半の人というのか、非常に古臭いもので、もとはお針子で結婚してからは専業主婦として常に夫を立てて家事と育児に専念した母オーギュスティーヌの生き方に理想の女性像を見るような世界。
息子が女性に対して失礼なことを言っても「偉いのね。あなたは“男の成功作”」と軽くいなせるのが優れた女性の余裕であり、オーギュスティーヌは自らの力を利用して夫の休みすら自在に替えてしまう「陰謀の天才」でもある。
男に尽くす女はその美貌も賢さも認めるが、イザベルのような勘違いしまくった女はバカにするか一種の魔性の女として扱う。もちろん男と対等な存在ではない。
僕が子どもの頃にもイザベルのように男の子を従えて喜ぶ女の子っていたし、それは逆にいえば、そういう女王様タイプの女の子に惹かれる男子が一定数いる、ということでもある。
イザベルはオーギュスティーヌとは正反対の女性として描かれる。
イザベルに夢中で彼女の命じるままに口にバッタさえも入れてバリバリと噛んだマルセルを、オーギュスティーヌは「今はバッタだけど、この先どうなることか」とたしなめるし、イザベルの父親が詩人だと言われると「詩人は夢に生き、飢えに死ぬ運命よ」と斬って捨てる。
イザベルの父アドルフ・カシニョールはルイス・ド・モンマジュールというまるで貴族のような偽名(もしくはペンネーム)を使っていた。
いつも酒に酔い、本職は新聞の校正者ながら詩人を気取るアドルフ・カシニョールは、教師という堅い仕事を真面目に務めるジョゼフとやはり対照的だ。
そんなジョゼフも学業が優秀なマルセルがリセに通うことになると、「私を恥と思うだろう」「お前はとても物知りになる」と悲しげに語る。学歴が高ければ、それが豊かな生活と結びつくと信じられた時代。
しかし、皮肉なことにマルセルはやがて両親がどこかで軽蔑してもいた虚業のような“作家”の道に進む。
だからこそ、この映画でマルセルの両親が発した「夢に生きる者」への冷めた言葉は、マルセルの大成によってすべて覆される。
芸術に生きたマルセル・パニョルは、飢えて死ぬことはなかった。
老年になった原作者マルセル・パニョルがイザベルとその親を懐かしく愛着を込めて描写したのは、彼らがのちのマルセルを作った要素の一つかもしれないからだろう。
イザベルはマルセルの父親の職業を見下すようなことを平気で言ったり取り澄ました態度でマルセルに接するものの実際には貴族でも金持ちでも芸術家でもない俗物そのものの一家の娘だったが、あの時のマルセルにとっては「憧れ」を感じさせた初めての“異性”だった。
母の前で「女はくだらないことで照れたりすぐ泣く」と言っていたその直前の場面で、マルセルはイザベルとの別れが悲しくてリリの前で泣いている。
この映画のナレーションは声は年老いたマルセルだが、あくまでも少年時代の彼の心情が語られているので(「女のことはよく知らない」と言ってるし)、それと実際の映像との矛盾がユーモアを生んでいる。
ルイス・ド・モンマジュールことアドルフ・カシニョールを演じたジャン・ロシュフォールは、この「プロヴァンス物語」二部作で唯一僕が知っていた俳優さんで、90年代に『髪結いの亭主』や『タンデム』(リヴァイヴァル上映)、『パリ空港の人々』『タンゴ』など、特にパトリス・ルコント監督作品でよく顔を見た。
2000年代にはテリー・ギリアム監督、ジョニー・デップ主演の『ドンキホーテを殺した男』でドン・キホーテを演じることになって撮影も始まっていたが、諸事情から撮影が中断して幻の作品になってしまった(その後、2018年に別のキャストで完成)。
「不思議の国のアリス」の挿絵の騎士のような顔のジャン・ロシュフォールはドン・キホーテにはピッタリの配役だと思っていたから、彼の出演が実現しなかったのはほんとに残念。
『マルセルのお城』でのジャン・ロシュフォールの出番は多くはないけれど、イザベル役のジュリー・ティメールマンと同様に記憶に残る。
そのロシュフォールも2017年に亡くなった。あらためてご冥福をお祈りします。
そう、この映画で最後に母や今は亡き大切な人々のことを思い出しているマルセルに「この映画を観ている自分」が重なるのです。あれから僕も大切な人たちとの別れがあったし、想い出深かった場所が取り壊されて今はもうなかったりもする。その想い出さえもが自分の記憶から次第に消えていくという事実に愕然としながら毎日生きている。
だからこそ、幼い日々を鮮やかに覚えているマルセル・パニョルの記憶力には感心するし、それが見事に映像化されたこの「プロヴァンス物語」にフランスともプロヴァンスとも縁もゆかりもない僕までもが涙するのです。
老いたマルセル(ジャン=ピエール・ダラ)がナレーションで語るように、喜びはたちまち悲しみに変わる。それが人の世だ。永遠に続く喜びはない。
それでもマルセルの想い出の中にいた人々は作品の中でこれからも生き続けるし、フランスの国民的作家マルセル・パニョルの名前もその作品とともに人々に記憶され続ける。
劇場パンフレットによれば、マルセル・パニョルは『マルセルのお城』でもちょっと描かれるようにプロヴァンスを映画の街にしようとして挫折する。
そして1960年代にひょんなきっかけで知人たちの前で自分の少年時代の想い出を語ったところ、書籍化することを勧められて回顧録を執筆する。
イヴ・ロベールは1970年代頃からその映画化を望んでいたがパニョルの遺族からなかなか許可が下りず、90年にようやく実現する。本当に長い間の念願の企画だったんですね。
マルセルの父親ジョゼフ役は最初ダニエル・オートゥイユにオファーされたけれど断わられたそうで、もしオートゥイユが演じていたらまた違う雰囲気になっていたでしょう。
僕にはジョゼフ役はフィリップ・コーベール以外考えられないし、実際彼に決まって大正解だったと思います。
オーギュスティーヌ役のナタリー・ルーセルはフランス南部の出身で、プロヴァンス訛りを話す女優を求めていた監督の希望に合致していたし、彼女とコーベールとの互いにユーモアも交えた夫婦役は本当にピッタリだった。
90年代って僕はまだ微妙に「最近」という感覚があるんですが(だから名作だとは思うけど“往年の”と付けるには早過ぎる気はする)、30年前というのは世間一般では充分「昔」なので、この「プロヴァンス物語」ももう昔の映画ということになるのかもしれない。
20世紀の初めが舞台の時代モノだし映画の作り自体も奇をてらったところがなくて古典的なので、いつの時代に作られた映画なのか判然としないところもある。だからすでに最初から時代を越えている。
僕はアメリカ映画以外の洋画を普段そんなに観ることがないしフランス映画にも疎いですが、そんな僕がこれまで観たフランス映画の中ではもっとも好きな映画です。
フランス映画って物語がちょっとわかりにくかったりカタルシスを感じづらい作品もたまにあるけれど、この2本のシリーズはほんとにわかりやすいし、かといってくどくもなく、適度なユーモアが心地よい。ほんとに「ほどがいい」んですよね。
エンドクレジットが終わって画面が真っ暗になっても音楽は流れ続けて、深い余韻に浸らせてくれる。
一人で観ても家族と観ても心が温まりジ~ンとする。この「プロヴァンス物語」はぜひこれからも大勢の人々に観てもらいたい。
毎年夏に上映してくれないかなぁ。
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