チェン・カイコー監督、レスリー・チャン(程蝶衣)、チャン・フォンイー(段小樓)、コン・リー(菊仙)、リゥ・ツァイ(グアン師匠)、イン・ダー(劇場主)、グォ・ヨウ(袁世卿)、イン・チー(少年期の小豆子/程蝶衣)、レイ・ハン(小四)ほか出演の『さらば、わが愛 覇王別姫 4K』。1993年作品。日本公開94年。
原作は李碧華(リー・ピクワー)の同名小説。
第46回カンヌ国際映画祭、パルム・ドール(最高賞)受賞(※ジェーン・カンピオン監督の『ピアノ・レッスン』と同時受賞)。
1925年の北京。遊女である母に捨てられ、京劇の養成所に入れられた小豆子。いじめられる彼を弟のようにかばい、つらく厳しい修行の中で常に強い助けとなる小石頭。やがて成長した2人は京劇界の大スターとなっていくが──。(映画.comより転載)
実は『さらば、わが愛 覇王別姫』はこれまで劇場でもDVDでもTV放映でも観たことがなくて、有名な作品だからその存在は初公開当時から知っていましたが、上映時間が172分あるのでなかなか観る気になれなかった、というのもある。なので日本公開から29年目に今回ようやく初鑑賞。
今年は制作されて30年、そして主演のレスリー・チャンさんの没後20年にあたるんですね。
今回上映されたのは4K化されたもので、チケット料金は「一律¥1900」とあったけど、僕が観た劇場では¥2000でした。映画1本に二千円払うのはなかなか懐が痛いんですが、それでも観たかったし、鑑賞後は満足感がありました。
レスリー・チャンの映画は去年もウォン・カーウァイ監督の『ブエノスアイレス』(感想はこちら)を初めて観ましたが、こうして初公開から20年以上も経ってから劇場で観るのは不思議な感覚ですね。ちょうど僕が映画を意識して観始めた頃に活躍していた人だから、何か、ずっと逢えずにいた人にやっとめぐり逢えたような、レスリー・チャンさんの軌跡をほんの少しずつたどっているような、そんな心持ちがします。
字幕翻訳は、戸田奈津子。…えっ、なっちって中国語もできるんだっけ。
戸田さんのおなじみ「~ので?」は、ここでも健在。
失礼ながら、チェン・カイコー(陳凱歌)監督って僕は時々チャン・イーモウ(張芸謀)監督と区別がつかなくなって(お二方ともコン・リーさんが出演している映画を何本も撮ってるし)、どっちがどの作品を撮ったんだったかわかんなくなるんですが、『HERO』(2002年作品。日本公開2003年)や『LOVERS』(2004) を撮ったのはチャン・イーモウ監督で、『PROMISE』(2005年作品。日本公開2006年)撮ったのはチェン・カイコー監督…って余計こんがらがってきた(;^_^A
ともかく、中国を代表する映画監督が香港出身のスター俳優主演で撮った芸術的な文芸作品として名高いこの映画をこうして観ることができて本当によかった。
チェン・カイコー監督は『ラストエンペラー』(感想はこちら)に出演しているけれど、この『さらば、わが愛』は舞台となる時代も近いし、激動の時代の荒波に翻弄される主人公を描いた作品であることも共通している。映像も美しかった。
「覇王別姫」とは、四面楚歌で有名な項羽と虞美人とを描いた京劇作品。覇王とは、項羽のこと。
恥ずかしながら、僕は中国史に疎くて知識がないので有名な人物の名前も知らなかったり、名前は知っててもどういう人なのかよくわかんなかったりします。
だから「項羽と劉邦」という名前はかろうじて知ってても、項羽や虞美人がいつの時代の人たちで、彼らとどんな人物たちがかかわっていたのかも知らない。
一応、映画の中で「覇王別姫」の大まかなあらすじは説明されるので、物語を理解するのは難しくありませんでしたが。
映画の中で「覇王別姫」の覇王/項羽を演じる段小樓役のチャン・フォンイーはジョン・ウー監督の「レッドクリフ」二部作で曹操を演じていて印象に残っているんですが、三国志の時代と項羽と劉邦の時代の区別もつかない僕はますます混乱するばかりで^_^; チャン・フォンイーさんはそのものずばり『項羽と劉邦』という映画では劉邦を演じているそうですが。
この『さらば、わが愛』では、おおらかでユーモアもある、頼りになりそうな人っぽく見えて、しかし最後には妻やまるで実の弟のような存在だった者をあっさり裏切る人物を好演していました。
程蝶衣役のレスリー・チャン、そして元女郎でやがて小樓の妻となった菊仙を演じるコン・リーの三人が本当に素晴らしかった。彼らの間のドラマが、この何十年という時代の流れを描いた物語を動かし、支えて、やがて映画の終わりとともに崩れ散っていく。
原作小説の登場人物や物語にモデルがあるのかどうか知りませんが、まるで史実をもとにしたような重厚な作品でした。
日中戦争、その後の国民党の支配と、共産党による文化大革命。時代の激しい移り変わりと、そのたびに踏みつけられていく京劇。
京劇の学校といえばサモ・ハン・キンポーやジャッキー・チェン、ユン・ピョウなどが学んだところでもあって『七笑福』(1988年作品。日本公開92年)という映画にもなってましたが(あいにく僕は未鑑賞ですが)、この『さらば、わが愛』の時代からジャッキーたちの時代に続いていくんですね。
師匠たちによる厳しいしごきの中で、ほんの一握りの者だけが人気俳優として頭角を現わしていく。
冒頭から子ども時代の蝶衣/豆子や小樓/石頭、そして仲間たちに対する本当に残酷としか言いようのない描写の数々が続くんだけど、豆子のように母親がこれ以上息子を育てられなくて引き取られたり、親がいない子どもたちもいて、どこにも居場所がない者たちが生きていくために幼い頃から芸を身につけようと切磋琢磨している。
先日観た『インスペクション ここで生きる』(感想はこちら)では海兵隊に入隊した主人公を描いていたけれど、あの映画でもそうだったようにつらい訓練を経てなんとか生き残れた者には、かつての自分の居場所だったところに複雑な想いがあるんだろう。
忌まわしい場所として記憶していてもおかしくないのに、『インスペクション』の主人公がそうだったけれど蝶衣も小樓も必ずしも彼らの“母校”といえる京劇の俳優養成所や自分たちを激しく折檻したりもした師匠のことを呪ってはおらず、まるで犬や猫にそれぞれ序列があるように成長したあとも師匠の前では小さくなって怯えている。
そして、蝶衣は師匠亡きあと弟子として引き取った小四に師匠と同様に高圧的で暴力を伴う指導をする。幼い時に刷り込まれたものをたやすく拭い去ることはできない。
そんな蝶衣に反発し、また京劇の伝統を軽視して小四は共産党員としてやがては蝶衣や小樓、菊仙たちを告発し貶めていく。
この映画を観ていると、かつては手を取り合ってともに歩んでいた者たちが、やがて自分の身可愛さに、あるいは誤った価値観から大切だった存在を裏切り捨てていくさまが描かれていて、心が重くなる。
では、これを観ている自分は彼らのように人を裏切らず、正しく生きていけるだろうか。
世間の価値観がコロコロと変わり、それに順応できない者、器用に立ち回り周囲の顔色をうかがって自分を都合よく変えることができない者は痛い目に遭う。
そんな世の中で、果たして自分は生きていけるだろうか。僕には自信がない。
アメリカでは赤狩りがあったように、あるいは戦前戦中の日本では自由も権利も奪われて暴力によって国民が抑えつけられていた時代のように、いつなんどき僕たちも蝶衣や小樓たちのような恐ろしい時代を生きることにならないとも限らない。
この映画での蝶衣も小樓も、京劇の関係者たちも誰もが無力だし、由緒正しい家系で京劇のパトロンでもあった袁世卿でさえもが、時代の変化とともに力を失い、命を奪われる。
そんな諸行無常のような哀しみを、「覇王別姫」の美しい歌や踊りとともに描いている。
『ラストエンペラー』でも主人公の溥儀は無力だった。
…私たちは時代に溺れるしかないのだろうか。
そうではない、と思いたいが。
小豆子や小石頭と一緒に京劇を学んでいた小癩子は、大好きだったサンザシの飴がけを目一杯頬張ったあとに、首を吊って死ぬ。
菊仙もまた、小樓に裏切られてやはり縊死する。ともに生きてきたはずの人にあっさりと捨て去られることの衝撃と、それで永遠に失われてしまうもの。
映画の最後に、蝶衣は11年ぶりに再会した小樓の前で「覇王別姫」を演じたあとで…。
一人きりになった小樓は何を思い、その後を生きたのだろうか。
生きられなかった者たちがいる。
蝶衣を演じたレスリー・チャンさん自身がもはやこの世にはいないという事実が、この映画をより悲劇的なものにする。
僕は「死」をいたずらに美化したくはないし、歴史の中の多くの「死」からは教訓を得るべきだと思いますが、それでも亡くなった人々のことを軽んじたくはない。
人を踏みつけて生き続けることが正しいとも思わない。
少年期の小豆子を演じるイン・チーが、はかなげでまるで女の子のように見える。でもその立ち居振る舞いの中に痛みが滲んでいて、美しさにはしばしば悲しみが含まれるんだと強く思う。
小豆子が金持ちの老人に性的な暴力を振るわれる場面で、日本の某芸能事務所の創立者の性犯罪が脳裏に浮かんで気分が沈んだ。
歌舞伎の世界もそうですが、もう変えていかなくてはならないんじゃないだろうか。いつまでも古い価値観のまま従事者たちが搾取されて傷を負わされ続けるのを放置しておいてはいけないでしょう。
覇王と虞美人の物語も、これから変わっていけるだろうか。
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