ジュゼッペ・トルナトーレ監督、ティム・ロス、プルイット・テイラー・ヴィンス、メラニー・ティエリー、クラレンス・ウィリアムズ3世ほか出演の『海の上のピアニスト』イタリア完全版(1998年作品。インターナショナル版の日本公開は1999年)を劇場鑑賞。
音楽はエンニオ・モリコーネ(ご冥福をお祈りいたします。20.7.6)。
原作はアレッサンドロ・バリッコの朗読劇“ノヴェチェント(Novecent)”(邦題は「海の上のピアニスト」)。
大西洋を巡る豪華客船ヴァージニアン号の中で置き去りにされていたのを機関員のダニー(ビル・ナン)に発見された赤ん坊は、新しい世紀にちなんで“1900(ナインティーン・ハンドレッド)”と名づけられる。しかし、彼はどこの国籍も持たないために船を降りて陸に上がることがなかった。成長した1900(ティム・ロス)はピアニストとなってトランペット奏者のマックス(プルイット・テイラー・ヴィンス)と知り合い、船の乗客たちの前で一緒に演奏する。1900は人々の心の中を読む力があった。
原作本が日本でも出版されているようですが、僕は読んでいないので映画についてのみ書きます。
1999年の最初の劇場公開時(上映されたのは121分のインターナショナル版)に観ていますが、それ以来21年間観返していなかったので内容はまったく覚えていませんでした。
懐かしかったのと、これまでイタリア以外では上映されていなかったらしいこのヴァージョンの日本公開は貴重な機会だから映画館に足を運びました。
今回、久方ぶりに映画館で観てみて、我ながらこんなにも見事に物語を忘れてるものかと思った。ほとんど初めて観るような感覚だったから。
ちょっと邦題がポランスキーの『戦場のピアニスト』(2002年作品。日本公開2003年)とカブってるし(こちらの方が先だけど)、戦時中の話だったっけ、と思ってたら全然違っていた。
どうやら今回インターナショナル版の4K修復版も上映されていたようなんですが、僕は知らなくてそちらは観ていません。
だから、この170分のイタリア完全版でインターナショナル版にどの部分が付け加わっていたのかはわかりませんでした。
さて、名作というような評価もされているしお好きなかたも多い映画らしいのですが、ごめんなさい、僕はノれなかった。まったくピンとこなくて(以下、ネタバレがありますのでご注意ください)。
なので、残念ですが褒めません。かなり酷評してしまうかも。
この映画のファンのかたはお読みにならない方がいいかもしれません。
映画観ていて久しぶりに強烈な睡魔に襲われたのでした。
何度か舟を漕ぎそうになりながらも、なんとか寝落ちせずに持ちこたえましたが。
まず、イタリアからの移民たちが移民船でニューヨークに到着して自由の女神を見る場面からすでになんともいえない違和感が。
自由の女神が「絵」なのがバレバレなんだよね。まるで昔の『猿の○星』のラストに映ってたのみたいな。これで一気に興が削がれてしまった。
この映画、あとで映るニューヨークのビル群も、ラストでマックスが歩き去る街並みも、すっごく安っぽいCG製のような映像なんですよ。海を航行するヴァージニアン号もそうだし、クライマックスでの客船の爆発の映像もそう。
いくら20年前の作品とはいえ、このクオリティはガッカリ過ぎる。VFXを担当した会社のレヴェルが低過ぎたってことだろうか。ジェームズ・キャメロンの『タイタニック』が公開されたのがこの映画が作られた前年の1997年だからね。
CGが難しいんだったら、昔の『ポセイドン・アドベンチャー』みたいなミニチュアでやってもらいたかった。
移民船の乗客たちが自由の女神を見上げる場面というのはかつてコッポラの『ゴッドファーザーPART II』(感想はこちら)で感動的に描かれているので、それよりもはるかに劣る映像を見せられても萎えるんですよ。
トルナトーレはイタリア出身の監督だから、コッポラの映画だったりセルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(感想はこちら)あたりも意識していたんでしょうね。レオーネ作品の音楽を担当しているのは、同じモリコーネだし。
ってゆーか、今回のテーマ曲もちょっと『~アメリカ』とか『ウエスタン』(感想はこちら)のそれっぽかったりもする。
主演のティム・ロスをはじめ主要キャストの多くは英国や米国出身で使われている言語も英語だけど、一応この作品はイタリア映画でもあるんだな。「イタリア完全版」ではタイトルやエンドロールがイタリア語でした。
さっきも述べたように僕はこの映画の中身をほとんど忘れていたので、しばらく観ているうちにこの映画の妙に現実離れした描写や展開に戸惑いを覚えました。
そもそも主人公が船の中で発見されておじさんたちに育てられることになるいきさつがファンタジーっぽい。あれ?こういう映画だったっけ、と。
20世紀の初め頃に豪華客船の最下層で白人と黒人と中国人が仲良く働いてるような世界。やがて1900を最初にみつけた黒人の機関員が不慮の事故で亡くなると(その事故の様子もまたずいぶんと取ってつけたような描写だったのだが)、船長はじめ乗組員全員がその死を悼んで悲しみに暮れる。
そして彼ら全員が1900の親代わりとなる。
ちょっとコメディタッチというか、90年代頃に観たいくつかのヨーロッパ製の映画のような。4歳の時の1900を演じる子役の子(イーストン・ゲイジ)が可愛かったですね。
この映画は朗読劇が原作ということだけど、実在の人物の人生をもとにしたとかそーいうんじゃなくて『フォレスト・ガンプ』系の「ホラ話」の類いだったんだな。
生涯で一度も船から降りたことがないピアニスト、というアイディアを膨らませて作った感じの。
で、ちょうど「人生はチョコレートの箱みたいなもの。食べてみるまでわからない」という『ガンプ』でのおなじみの文句のように、ここでは語り部であるマックスの口から何度も「面白い物語があって、聞いてくれる人がいる限り、人生は悪くない」という文句が“なんかイイ言葉”風に語られるんだけど、困ったことに劇中で語られるその「面白い話」というのが僕にはちっとも面白くなかった。
この映画は1900やマックスたちの台詞のやりとりが多いんだけど、なんか会話もいちいち長くて、そのお話もたいして面白くないんで全体的にすっごく間延びしているように感じられた。
『フォレスト・ガンプ』ではいくつものエピソードが次々と映し出されて、主人公が実在の人物とも絡んだりして、そこが愉快だったんだけど、この『海の上のピアニスト』 ってそんなに多くのエピソードが描かれるわけじゃないんですよね。
最初のインターナショナル版は121分だったけど、この「イタリア完全版」は本来ならば二時間程度で描けるはずの物語を170分もかけて描いているから、なんか飽きてきてしまった。
途中で『ガンプ』のように1900が何人もの実在の人物たちと一緒に写真に収まっているのが映し出されるんだけど、その写真がまた出来の悪いコラ画像みたいな代物。もっとまともな合成ができなかったのか。
それから、自称「ジャズの創始者」とのピアノ対決の場面をあんなに長くする必要があっただろうか?
クラレンス・ウィリアムズ3世が演じる居丈高なピアニストのジェリー・ロール・モートンは実在した人物で、彼が「ジャズの創始者」を自称したのも事実らしいんだけど、当然ながらモートンが“船上のピアニスト”と「ピアノ対決」をして負けた、などというエピソードはフィクション。
ジャズの創始者と称する黒人ピアニストを打ち負かして「ジャズはクソだ」と吐き捨てる白人ピアニスト。なんだろう、この嫌悪感。
僕は音楽にもジャズにも疎いですが、劇中での音楽の扱われ方には音楽への敬意が感じられなかった。音楽って勝ち負けなのか?
どれだけ激しく速く鍵盤を叩けるかなんてことが音楽の楽しさとなんの関係があるのだろうか。
あまりに激しく演奏したものだからピアノ線が熱を発して煙草に火がつく、なんて曲芸かハッタリじみた技のどこが“ジャズ”なのか。
あのピアノ対決の場面で奏でられた曲はモリコーネが作曲したものだそうだけど、申し訳ないけれど僕はあれらの曲に劇中で乗客たちやマックスが驚嘆するような凄さや素晴らしさをまったく感じなかった。
モリコーネによるこの映画の主題曲はノスタルジックで耳に心地よかったですけどね。
どうも、この映画からは本当に音楽を楽しむ姿勢を見出せなかった。
僕は、別にティム・ロスという俳優さんを嫌ってるわけでもなんでもないけど、どうしても彼の場合はタランティーノの初期の作品のチンピラのキャラのイメージが拭えなくて。たまに甲高く裏返る彼の声も耳障りで、エレガントさがない。1900のイノセントな人物像にそぐわない気がした。
甲板にいた少女(メラニー・ティエリー)のことを好きになって女性専用の船室に忍び込んで寝ている彼女にキスしようとする場面なんて、なんかそれを美しいもののように描いているのが異様だった。
何よりも、一度は船を降りて陸に上がろうとした1900が思いとどまって、その後も何年も同じ船の中で生活を続けて、最後はその船とともに爆破される、というその理由にまったく説得力がない。
船のタラップからニューヨークの街並みを見つめていた1900は、かぶっていた帽子を海に捨ててきびすを返して船に戻る。
マックスに1900は、建物や通りの終わりが見えなかった、街には終わりがないから俺は降りない、と説明するが、何を言ってるのかよくわからない。
1900の話を聞いているうちにどんどん涙目になっていくマックスには、プルイット・テイラー・ヴィンスの誠実な演技のおかげもあってもらい泣きしそうになる部分もあったんだけど、やはりティム・ロスのあの裏返り声の不快さと喋ってる内容の説得力のなさで感動には至らなかった。
なんかもう「悲しい別れ」が前提でお話が作られてるようで。どう考えたって1900があそこで船に残って一緒にダイナマイトで吹っ飛ぶ必要なんかないんだよな。
おそらくトルナトーレ監督は、1900(ナインティーン・ハンドレッド)という主人公に「過ぎていくもの」へのノスタルジーや感傷を込めたのだろうけれど、映画の中でそれがちゃんと表現されているようには思えなかった。
マックスが「本当の話なんだ」と何度も訴え続けるような真実味のある話でもなければ、楽器店の店主が「いい話だった」と言ってマックスが売ったトランペットをタダで返してくれるほどイイ話とも思えなくて。
どうしても1900を船に残らせるなら、やはりもっともっといろんなエピソードを重ねて、映画の観客にもあの船に愛着を持たせてくれなければ。『ニュー・シネマ・パラダイス』にはそれがあった。
要するに『ニュー・シネマ・パラダイス』のクライマックスのあの“パラダイス座”の爆破と同じことをやってるんですね。一目惚れした少女、というのもそうだし。
豪華客船を舞台にした泣ける話、みたいなのは先ほどの『タイタニック』で、ホラ話は『フォレスト・ガンプ』。感動げなものを集めました、という。
『ニュー・シネマ・パラダイス』は僕はとても好きなんですが(あの作品も映画に一家言ある人たちからは何かと揶揄されてますが)、この『海の上のピアニスト』の「感動」にはなんともいえない“まがい物臭”がした。
なんかもうクソミソに貶しちゃってますが…この映画を最初に観た1999年というのは僕は個人的にいろいろあった年で、だからその年に劇場で観た映画を21年ぶりに再見するというのは、それなりに感慨があったんですよね。
映画って、それを観た時代とか時期とか自分自身の人生とも分かちがたく結びついているものでもあるから、そこに思い入れを込められたりもする。僕にとって『ニュー・シネマ~』がそうであるように。
だけど、一方では僕がこの映画の内容を全然覚えていなかったように、作品としてハマらなければ、面白いと思えなければ忘れられていくものでもある。
トルナトーレ監督の作品は、僕はこれまでに『ニュー・シネマ~』とこの『海の上の~』、それから2013年公開の『鑑定士と顔のない依頼人』しか観ていなくて、実は『鑑定士と~』の方もかなり酷評してしまったんですが、そちらもあれ以来観返していないのでわずか7年前の作品にもかかわらず、もうどんな内容だったかよく覚えていません。
つい先日、映画に限らず創作物に対しては批判はここぞという時だけにとっておいて、なるべくしない方がいい、批判なんていくらでもできるんだし、批判することに自分で酔ってしまうのは危険、というような呟きをTwitterでされてるかたがいて、確かにその方が他の人たちに対する印象は悪くならないだろうし、たまに批判した時に説得力も増すだろうなぁ、とは思うんですが、それよりも僕は映画を観たその時に自分がどう感じてどのような気持ちになったのかその反応を記録しておきたいので、こうやって読んでも楽しくないような作品の批判をあえて残しています。
僕だって、面白いと感じたり感動した映画のことはそれを書き残したいですが、不満を感じたのならばなぜそう感じたのかを書き留めておきたい。映画の内容を忘れてしまっても、その映画を観て自分がどう感じたのか、その“感情”を残しておけるから。
同じ映画でも繰り返し観ているうちに評価がコロッと変わってしまうこともあるし、あくまでもこれは今現在の自分の評価ということで。絶対的な評価なんてないんですから。
なので、この映画も、もしかしたらまたいつか観た時には僕もマックスみたいに鼻水垂らして泣くかもしれません。