※以下は、2012年に書いた感想です。
ジュゼッペ・トルナトーレ監督、フィリップ・ノワレ、ジャック・ペラン、サルヴァトーレ・カシオ、マルコ・レオナルディ出演の『ニュー・シネマ・パラダイス』。1988年(日本公開89年)作品。PG12。
シチリアの小さな村に母親と妹とともに住む映画好きの少年トト(サルヴァトーレ・カシオ)は、村で唯一の映画館「パラダイス座」に入り浸っている。やがてそこの映写技師アルフレード(フィリップ・ノワレ)の手伝いをさせてもらえることになり、映写機の操作を教わるようになる。
主人公と村の人々の喜びや哀しみ、出会いと別れ、そして月日の流れをみつめてきた小さな映画館の物語。
以下、ネタバレあり。
昭和の時代からあった地元の映画館“ゴールド・シルバー劇場”の「さよなら興行」上映作品だったので、その映画館との最後のお別れのために観に行ってきました。
今回上映されたのは、1989年に公開された「インターナショナル版」。
上映時間は124分。
僕がかつてこの映画館で観たのは91年公開の「完全オリジナル版」で、上映時間は今回のヴァージョンより50分近く長い173分。
完全オリジナル版予告篇
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母親がこの映画が好きなので、以前DVDとサントラCDをプレゼントしました。それも「完全オリジナル版」の方。
BSで放映されたときに観たのもたしかこっちだったと記憶している。*1
そんなわけで、最初に映画館で公開されたヴァージョンを観るのはじつはこれがはじめて。
このインターナショナル版と完全オリジナル版の違いは、おもに主人公トトの壮年期を演じるジャック・ペランの場面や青年期のトトと恋人エレナのシーンが短くなっていること。
あと、たしか「完全オリジナル版」には青年トトが村のおばさんに「筆おろし」してもらうシーンもあったと思うが、それもない。
青年になったトト(マルコ・レオナルディ)はエレナ(アニェーゼ・ナーノ)という女性に恋をするが、彼女はトトが兵役でローマに行っているあいだに行方知れずになってしまう。
完全オリジナル版では、その後30年の時を経てアルフレードの葬儀のために故郷をおとずれたトトの前に、年をとったエレナ(演じるのは『禁じられた遊び』の名子役として知られるブリジット・フォッセー)が現われる。
彼女は自分がかつてトトの前から姿を消した理由を語る。
ところが今回観た最初の公開版では、エレナは行方がわからなくなったままついに最後まで出てこないのだ。つまりブリジット・フォッセーの出演シーンはまるまるカットされている(エンドクレジットで本篇には登場していない彼女の顔が映る)。
これについては「オリジナル版の大切な場面がカットされてしまっている」と否定的なものから、「むしろエレナとは再会しない方がよかった」というものまで人によっていろいろと意見が違うようで。
さて映画の感想に入る前に、この映画が上映された僕の地元の映画館についてちょっと。
ロビーの壁に貼ってあった資料によると、この映画館は1983(昭和58)年に建てられたそうです。
最初はシルバー劇場の方は「成人向け映画」専門だったらしい。
おなじ建物で普通の映画とポルノ映画が壁を隔てて上映されていたわけですね(内部が改装されるまでは2つの映画館の出入り口は別々で、なかで行き来ができなかった)。
写真は小さくてよく見えないけど、看板に『細雪』や『刑事物語』とか書いてある。
あぁ、たしかに1階はいまの漫喫になる前はパチンコ屋だったな。*2
僕はいつ頃からここに来るようになったのか正確にはおぼえてないけど、多分90年代のはじめ頃だったと思います。
91年には先ほどの『完全オリジナル版』や『デリカテッセン』、『プロヴァンス物語』(感想はこちら)などをここで観た。
『デリカテッセン』(1991) 監督:ジャン=ピエール・ジュネ マルク・キャロ
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どれも思い出深い作品。
ブルース・リーの『燃えよドラゴン』のリヴァイヴァル上映を観に来たのもここ。
それ以外にもいろいろ観ました(残念ながら記録していないので、作品名がいまパッと出てこない。過去の上映作品のリストとかないかなぁ)。
思えば、あれからもう20年以上経ったのだ。
なんだかフッと気が遠くなりそうになった。
地元にもどってからは(いつ内装が現在のものに変わったのか忘れちゃったが)また利用するように。
せいぜい年に1~2回程度だから「通っていた」などといえるほどではないけれど。
でも昨年(※2011年)は『キック・アス』(感想はこちら)を観に何度も通ったっけ。
このあたりではほかではやっていない単館系の作品をよく上映してくれていた貴重な映画館でした。
で、まさにもうすぐなくなろうとしているその映画館で『ニュー・シネマ・パラダイス』を観るという、このなんともいえない感覚。
お客さんはやはり年配の人たちが多く、でも人気作ということもあってそれ以外の世代の人たちもけっこう来ていました。
映画のフィルムは20年前のものにしては汚れや傷がすくなくて観やすかったんだけど、これはどういう理由なのかわからないが音声がやけに小さくて、特に台詞がほとんど聴こえない箇所もあってちょっと残念でした。
それでもエンニオ・モリコーネによるあのテーマ曲を耳にすると胸がじ~んとした。
映画監督のサルヴァトーレ=トト(ジャック・ペラン)は、30年帰っていない故郷の母からアルフレードが亡くなったことを知らされる。
彼の胸によみがえる少年時代。
おそらく「完全オリジナル版」では、この少年時代のエピソードももっとくわしく描かれていたんだろう。
少年トトを演じているサルヴァトーレ・カシオは、その後おなじトルナトーレ監督の『みんな元気』に出演。マルチェロ・マストロヤンニと共演していた。
壮年期のトトを演じるジャック・ペランはその後『WATARIDORI』や『オーシャンズ』を監督しているけど、フランス製のモンスター映画『ジェヴォーダンの獣』に出てるのも観た。
トトの少年期や青年期を演じたイタリア人の役者たちと顔立ちがずいぶんと違うので見た目おなじ人物とはちょっと思えないが、顔が似てるかどうかよりも彼の演技力を買っての配役なんだろう。
懐かしいフィルムをみつめるペランの目にうかぶ涙に観客ももらい泣きする。
「完全オリジナル版」ではもっと出番が多いことは先ほど述べたとおり。
そしてトトが慕う映写技師のアルフレードを演じているフィリップ・ノワレ。
惜しくも2006年に亡くなっているが、この人のユーモラスとシリアスの両方を行き来する演技は絶品で、少年時代のトトを演じたサルヴァトーレ・カシオとの掛け合いなどはこの作品が紹介されるときにはかならず映し出されるので、いまや多くの人々の記憶にこのオジサンの顔が刷り込まれている。
ちなみにこの『ニュー・シネマ~』はイタリア映画だけど、ジャック・ペランもフィリップ・ノワレも、そしてこのヴァージョンには出ていないがブリジット・フォッセーもフランス人俳優。
台詞はすべてアフレコとのこと。
以前はモリコーネの音楽が雄弁すぎて少しうるさいかも、と思っていたんだけど、今回は音声の不具合のせいかわからないがそれほど気にならなかった。
あるいは、3時間ある「完全オリジナル版」ではモリコーネの音楽がないと逆にちょっとしんどいかもしれない。
20年前「完全オリジナル版」を観たときにはアルフレードがなぜトトに「この村を出ろ。ここは邪悪な場所だ」というのかよくわからなくて、それは前途ある若者の背中を押しているのだ、と思っていたんだけど、あれから時を経てひさしぶりに観ると、あの当時とはまた違う感慨におそわれた。
アルフレードは執拗にトトに「お前はここにいてはいかん」といってローマへ旅立たせる。
僕はそんなアルフレードに、かつて僕を送り出してくれた今はなき祖父を思い出した。
もっとも祖父は、アルフレードのように僕を故郷から追い立てたのではなくて、故郷を捨てるつもりで上京した僕を父親の代わりに見送ってくれたのだが。
その後、祖父は僕に会いにわざわざ東京まで来てくれて、品川プリンスホテルで極上のステーキをご馳走してくれた。
そしてその翌年、奇しくも僕の誕生日に倒れてそのまま長らく病いの床に就き、2009年、帰らぬ人となった。
僕は祖父をはじめ、自分のために心を砕いてくれた人々に対する申し訳なさで、いまでもたまらない気持ちになる。
それは功成り名遂げたトトとはおそらくまったく正反対の悔いだ。
トトは故郷を離れて、そのままアルフレードがいっていたように寂しくても懐かしくてももどらなかった。
トトにとって、故郷とパラダイス座は「郷愁〔ノスタルジー〕」そのものだ。
アルフレードは長いときが経つまでトトにノスタルジーに浸ることを許さなかった。
アルフレードは戦争で死んだトトの父親代わりであり、またトト自身の心の声でもある。
離れていても、ふたりはいっしょだった。
サッカーくじで当てた賞金で火事で焼けた「パラダイス座」をあたらしく建て直したナポリ出身の新館長は、青年時代のトトを映写技師として使っていたが、30年ぶりに再会した彼に「あなたは偉くなられた」といって敬語を使う。
そんなトトは、おなじく映画監督になってやがて世界へ羽ばたいていったジュゼッペ・トルナトーレ自身の姿だろう。
91年当時、僕はそうやって立派な映画監督になって故郷に凱旋した主人公の視点でこの映画を観ていた。
夢をもってこれから旅立ってゆく若者の気持ちで。
でも今回は違う。
もしかしたら、いつも「ここは俺の広場だ!」とわめいているあのホームレスのオッサンの視点だったかもしれない。
少年時代には想像もしなかった場面でいまの僕は泣いている。
それでもはじめてこの「インターナショナル版」を観てみて、不満を述べる人たちとおなじように少なからず物足りなさを感じてしまった。
やはりすでに3時間版を観てしまっていると、細かいディテールがカットされているのが気になるのだ。
その分、2時間ちょっとにおさまっていて観やすいのだけれど。
特にトトとエレナの関係はどうも性急過ぎるように感じられた。
今回観て思い出した台詞がある。
それはエレナの「あなたはいい人よ。でも愛してないの」という言葉。
これは恋する男子にはなかなかショッキングな一言だ。
おなじようなことを女の子からいわれたことがある身としてはこたえる。
アルフレードはトトに「王女と兵士」のたとえ話をして、彼の恋がかなわぬことを説く。
別れはいきなり、理由もなくやってくる、と。
トトはそれでもあきらめきれずにエレナの部屋の窓の下で雨の日も大晦日の夜にも待ちつづける。
やっぱりダメなのか、とあきらめかけたトトのもとをエレナがおとずれる。
僕は今日この場面を観て、「これは夢だ」と思った。
だって窓の外で待ちつづけたって、恋は成就しないことの方が多いのだもの。
だからトトとエレナが映写室や雨のなかでキスしたり、楽しそうにデートする姿を見ていてだんだん哀しくなってきてしまった。
これは「幻影」なのだと思ったから。
アルフレードは旅立つ前のトトにいう。「現実は、お前が観てきた映画とは違う」と。
「映画愛」を描きながら、この作品ではそれが所詮「幻」であることも語られている。
映画監督になった男は、その代償にいくつもの大切な存在を失ったのだ。
基本的には3時間の「完全オリジナル版」の方がより出来は良いと思います。
ただ、30年後にトトがエレナそっくりの若い女性に出会い、それがエレナの娘であることを知ったことからはじまる、一連の再会のくだりはいらないと思った。
いや、もしかしたら僕がもっと年をとったらまた感じ方が変わるかもしれないが。
人生には失ったと思っていたものとひょんなことでまた出会うときもある、と思い直すかもしれない。
でも、いまはまだそれは夢に思えるのだ。
エレナは彼のもとを去った。永遠に。
その理由はわからない。
この断絶。いまの僕にはそれが一番しっくりくる。
感傷的な文章になってしまったけれど、おなじ映画でもそのときどきの自分の心境によって感じ方も変わるのは面白い。
変わらなかったのは、映画館「新パラダイス座」が取り壊されることになって、懐かしい顔たちがいくつも並ぶシーン。
爆破され轟音とともに崩れていく建物、涙を流す老いた館長の顔。
それまで当たり前のようにあったモノが消えていくとき、いいようのない寂しさをおぼえる。
それは自分自身の思い出もいっしょに消えていくように思えるからだ。
この映画をひさしぶりに観て、なき祖父母を思い出し、父や母を想った。
そして友人たちを。
昭和に建てられた映画館がまたひとつ消える。
スクリーンに映し出されるかずかずの映画のキス・シーン(グレタ・ガルボ、チャップリン、マレーネ・ディートリッヒ、ゲイリー・クーパー、ジャン・ギャバン、ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマンetc.…)と「FINE(終わり)」の文字とともに。
最高のフィナーレでした。
さようなら、僕らのパラダイス座。たくさんの思い出をありがとう。
※エンニオ・モリコーネさんのご冥福をお祈りいたします。20.7.6
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