ミロス・フォアマン監督、F・マーレイ・エイブラハム、トム・ハルス、エリザベス・ベリッジ、ジェフリー・ジョーンズほか出演の『アマデウス ディレクターズ・カット』をDVDで視聴。2002年作品(オリジナル版1984年。日本公開85年)。PG12。
原作はピーター・シェーファーの戯曲。シェーファーは映画版の脚本も担当している。
第57回アカデミー賞作品賞、監督賞、主演男優賞(F・マーレイ・エイブラハム)、脚色賞、美術賞、衣裳デザイン、メイクアップ賞、録音賞受賞。
19世紀。自殺を図った元作曲家のサリエリ(F・マーレイ・エイブラハム)は、かつて宮廷で出会い、やがてその才能を妬むこととなった若き天才作曲家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(トム・ハルス)との因縁を語り始めるのだった。
内容について語りますので、まだご覧になっていないかたはご注意ください。
この映画は80年代にTV放映で観ました。
長めの作品だったけれど、トム・ハルス演じるモーツァルトの特徴的な甲高い笑い声と奇矯なキャラクターが印象に残って好きな映画だった。
この「ディレクターズ・カット」は最初の劇場公開版でカットされていた20分ほどの場面を追加したもので、日本でも2002年に公開されたということだけど、ちょうど同じ時期に他にもさまざまな映画のディレクターズ・カット版がリリースされだした頃だったこともあって、その当時にこのヴァージョンを映画館で観たのかどうかちょっと覚えていませんが、ともかくその後DVDを購入。
「午前十時の映画祭」でも上映されたみたいだけど、それもあいにく未鑑賞。
でも、久しぶりにDVDで観たら、あぁ、やっぱりこれは劇場のスクリーンで観たいなぁ、と思いましたね。豪華絢爛な美術と衣裳、そして全篇を彩る音楽。まさに映画館で観るべき作品。
なんで急にこの映画を観ようと思ったかというと、新型コロナウイルスのせいで映画館へ行くこともままならず、TVをつけても面白い番組がやってなくて退屈だったので。
それと、今やってるNHKの朝ドラ「エール」の主人公が“天才作曲家”という設定で、彼が時々見せる天才ならではの鼻持ちならなさというか、凡人の気持ちを理解しない無神経さに、この映画のモーツァルトとサリエリの関係をふと思い出したから、というのもある。
まぁ、昭和の時代を駆け抜けた国民的な大衆作曲家の生涯を描く「エール」(やはり新型コロナ禍のために収録が止まっていて、6月末で放送はいったん中断するようですが)とモーツァルトの死をめぐる謎に迫るこの『アマデウス』は、作品のスタイルもお話の内容もまったくといっていいほど異なっていますが。
物語は老いた作曲家のサリエリが自殺未遂をしたあと精神病院に収容されて、そこを訪れた神父に「自分こそが、かのモーツァルトを殺したのだ」と告白する。物語自体が彼の回想という形をとっている。映画の主人公は、このサリエリ。
今もって偉大な作曲家としてその名と曲の数々が人々に記憶されているモーツァルトと、すでに忘れられた存在となったサリエリとの対比。神に愛された天才と見捨てられた凡才。イノセンスとジェラシー。
僕は、天才モーツァルトに深く嫉妬し神に懇願したかと思えば天を呪うサリエリにどこか共感してしまう。
彼はモーツァルトを陥れようとする一方で真の悪人にもなりきれない気弱さや人のよさもあって、とても人間臭い。モーツァルトはモーツァルトで、作曲家としての才能と浪費家で酒飲みで金銭にだらしない実生活との落差がこれまた実に生身の人間っぽくて、けっして浮世離れした天才ではないんですね。サリエリに「あなたに嫌われていると思っていた」と告白するモーツァルトには、また彼なりの弱さや孤独があったのだ。
で、サリエリがそんな「人間モーツァルト」に気づいた時にはすでに当人の身体は病いに蝕まれていた。こうして、まるでサリエリがモーツァルトを死に追いやったような形でこの物語は幕を閉じる。
車椅子に乗って病院の患者たちに笑顔で「お前たちを許す」と言い続ける老サリエリの姿に、人間の滑稽さと哀しみ、そして一片の救いを見る。人は人を妬み、望みを叶えてくれない神を罵倒し、老いて忘れられ死んでいく。
実際サリエリは長らく忘れられた存在だったのが、この映画の原作である戯曲がきっかけで再評価されるようになったんだそうで、彼の望みは何百年ものちに叶ったわけですね。モーツァルトのおかげで。
もちろん、これはあくまでもフィクションであって史実ではサリエリがモーツァルトの死に直接的な関係があったわけではなく、サリエリをモーツァルトと対比させるためにまるで凡人の代表のようにあえて卑俗な人物として描いたのだろうし、劇中のモーツァルトの人物像も実像とはかなり異なるようで。だから、そこは映画としての面白さの方を優先しているんですね。
モーツァルト役のトム・ハルスは、僕はこの映画以外ではケネス・ブラナーが監督とロバート・デ・ニーロとのダブル主演を務めた『フランケンシュタイン』に出演しているのを見たきり(『アマデウス』で“天才”を演じたハルスが、『フランケンシュタイン』では天才ケネス・ブラナー=フランケンシュタインの脇で普通の男を演じるのがちょっと面白かったが)で、でもこの『アマデウス』でのモーツァルト役はほんとにインパクトがあったので、もっと多くの出演作を観ていたような気になっていました。
ちょっとロバート・ダウニー・Jr.を崩したような顔で(^o^)とても人懐っこそうで。
トム・ハルスは2000年代に入ってから同性愛者であることをカミングアウトしたのだとかで、それを知ってあらためてこの作品でのモーツァルトの演技を見ると、確かにドラァグ・クイーンっぽい雰囲気もあるよな、と。
妻のコンスタンツェ役のエリザベス・ベリッジは童顔っぽく見えるけどおっぱい*1がなんだかスゴくて、外見が子どもなんだか成熟してるのかよくわからないフリーキーな魅力があって、どうやら悪妻という評価もあるらしいコンスタンツェは料理や片づけが苦手で朝もいつまでもベッドで寝ているちょっとだらしない人として描かれているんだけど、それでも彼女は夫の“ヴォルフィー”を愛していて、彼の作った新曲の楽譜を持ってサリエリに会いにいったり彼女なりに夫のために尽くそうとする。
コンスタンツェは息子を訪ねてきたモーツァルトの父レオポルド(ロイ・ドートリス)と早速衝突する。マイペースなコンスタンツェと厳格そうなレオポルドとではソリが合わないのはよくわかる。なんだか現代の嫁と舅の関係みたいで可笑しいですが。
幼い頃から父に音楽の英才教育を施されて親子二人三脚で世界を飛び回ってきたモーツァルトは、父に内緒でコンスタンツェと結婚するものの生活能力のなさから借金を重ね、心身ともに疲弊して、やがて父レオポルドの死による喪失感からその症状は悪化の一途をたどる。
サリエリが送り込んだ召使いの少女ロール(シンシア・ニクソン)は急激に具合が悪くなっていく「ご主人様」を恐れてスパイの仕事を辞めるが、今観るとモーツァルトの姿からは異常さよりも心の支えを失って苦しむ者のつらさが滲み出ていて、だからロールはそんな彼を見続けるのがいたたまれず忍びなくて去っていったのではないだろうかと思う。
ロールは出番もわずかな脇役にもかかわらず、演じるシンシア・ニクソンの表情がとてもよくて彼女のことは印象に残る。
シンシア・ニクソンという女優さんは「セックス・アンド・ザ・シティ」の出演者として有名なんだそうだけど、僕はあのドラマは未見なのでまったく知らなくて、若い頃から演技力抜群の人だったんだなぁ、と。
この映画ではこれ以外の作品では見たことがない(でも、本国ではおそらく有名な)俳優さんがいっぱいいて、そのアンサンブルがいいんですよね。
なんていうか、見事なまでに美男美女が出てこない。ちょっとヨーロッパ映画っぽかったり。
皇帝ヨーゼフ2世役のジェフリー・ジョーンズは、その後恰幅がよくなってティム・バートンの映画でよく見かけたけど、性犯罪で捕まって業界から干されてしまった。いろいろありますな。
主演のF・マーレイ・エイブラハムは、この映画と日本では87年に公開されたジャン=ジャック・アノー監督、ショーン・コネリー主演の『薔薇の名前』(感想はこちら)の異端尋問官役で記憶していて、『薔薇の名前』は中世が舞台だったけど同じくコスチューム物だったし、また出演者たちの個性的な顔つきや時折挟まれるおどろおどろしいイメージなど共通するところがあるので、80年代~90年代初めの近い時期に観た映画としてこの2本はセットで頭の中にインプットされています。『薔薇の名前』の方は最近ご無沙汰だけど。
F・マーレイ・エイブラハムのサリエリは、シュワちゃん主演の『ラスト・アクション・ヒーロー』(93)でもご本人が出演してネタにされてました。もはやハリウッド映画史に残るキャラクターですよね。
今ではサリエリといえばF・マーレイ・エイブラハム以外考えられないけど、最初は彼は脇役でキャスティングされていたというのが驚き。それでも、さすがオスカーを獲っただけのことはある名演技で主役を手にしたのはほんとに凄い。
またディック・スミスによる特殊メイクが素晴らしく、撮影当時エイブラハムは40代の半ばだったけど、顔だけでなく手の甲に無数に走る浮き出た血管や皺まで丁寧に作ってあって、エイブラハムの熱演もあってもう完全に老人になりきっている。
実際のサリエリがああいう人だったということではなくて、自分にはとても手に入らない才能を持つ者への嫉妬と神への怒りに燃えるその姿が人間の愚かさそのもののように感じられてくる、一見真面目で控えめだが、その性根は卑小で俗物である人物を見事に演じてみせている。
禁欲的であれば神に自分の望みを叶えてもらえる、という、なんとも都合のいい考えに囚われていたサリエリには、「禁欲」などとは程遠い放蕩生活をしているモーツァルトが「才能に不相応な若造」に見えたのだった。
でも、音楽の才能と禁欲にはなんの関係もないし、素晴らしいモノを生み出す者が実生活では低俗極まりない存在に見えることは往々にしてある。そこが面白くもあるが、残念な時もある。
だからこそ、サリエリの“怒り”も理解できるんですよね。そして、なまじ自分にはモーツァルトの才能、その曲の良さを見極める耳があるからこそ、神への「なぜ?」という疑問と怒りもまた募ってくる。どうして渇望だけ与えて才能を与えなかったのか、と。
モーツァルトの病死は避けられないものだったのかもしれないし、映画で彼の死因もハッキリとしないんだけど、サリエリによる度重なる就職の妨害や「父の死」を利用した裏工作などでモーツァルトが精神的に追いつめられていった、というふうに解釈できなくもないような描かれ方なので、これは「かけがえのない存在を破壊してしまった」という罪の意識についての話だったのだな、と思いました。
世の中にはどんなに望んでも得られないものがある。しかも、それをよりによってこんな奴が?という者が持っていたりする。その理不尽さ。納得いかなさ。
だったらそんなものは破壊してやる、という、暗く醜い欲望。とても人間らしい感情だと思う。
さて、この「ディレクターズ・カット」でもっともわかりやすい追加場面は、モーツァルトがサリエリに借金を願い出たところ、ケネス・マクミラン演じるシュルンベルクなる金持ちを紹介されてその家に音楽の家庭教師として行くものの、先方のあまりの教養のなさに憤慨して立ち去るところと、のちに本格的に困窮し始めたモーツァルトが再びシュルンベルクを訪ねるが門前払いを食らうところ。
確かにカットされてもお話は繋がりはするが、どんどん生活が苦しくなってきてプライドも何もかも捨てなければならなくなっていく過程、だがその頃にはもはや誰からも雇ってはもらえなくなっているという現実の厳しさを表わす意味でもこれらのシーンはあった方がよかったでしょう。
シュルンベルク役のケネス・マクミランは、僕はこれ以外ではデヴィッド・リンチ監督の『デューン/砂の惑星』(感想はこちら)で見た悪役ハルコーネン男爵役のインパクトが強烈で、あの1作だけでこれからもずっと記憶に残るだろう俳優さん。残念ながら『アマデウス』出演の5年後の89年に亡くなっているので、ご本人はカットされてしまった自分の出演シーンを観ていないんですよね。
サリエリはモーツァルトの俗物ぶりに失望し、モーツァルトは成金貴族の絶望的なまでの音楽への無理解ぶりに苛立つ。なんとも滑稽だが、現実にありがちな話だ。
わずか20分間とはいえ、やはり細かい描写がちゃんと加えられたこの 「ディレクターズ・カット」こそが映画『アマデウス』の決定版といえるのではないでしょうか。
いつかまた、劇場で観てみたいです(「午前十時の映画祭」は早くも来年復活するそうだから、ぜひ再上映お願いします)。
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