「午前十時の映画祭9」で『雨に唄えば』を鑑賞。1952年(日本公開1953年)作品。
監督:スタンリー・ドーネン、ジーン・ケリー、出演:ジーン・ケリー、デビー・レイノルズ、ドナルド・オコナー、ジーン・ヘイゲン、ミラード・ミッチェル、ダグラス・フォーリー、シド・チャリシー、リタ・モレノほか。
サイレント(無声)映画時代のハリウッド。映画スターのドン(ジーン・ケリー)は女優のリナ(ジーン・ヘイゲン)と組んで新作映画の撮影に入るが、他社の作ったトーキー(発声)映画『ジャズ・シンガー』が大ヒットしたため、急遽トーキー映画として作り直すことになる。不慣れなトーキーに四苦八苦する現場。そして出来上がった作品の試写での観客の反応は散々な結果に。そこでドンと友人のコズモ(ドナルド・オコナー)、そしてドンと知り合って互いに恋に落ちた女優志望のキャシー(デビー・レイノルズ)の三人は、映画をミュージカルにするように社長(ミラード・ミッチェル)に提案する。
映画史に残るMGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)のミュージカル映画。
僕は最初に観たのはいつだったか、もう覚えていません。
90年代に観たリュック・ベッソン監督の『レオン』(感想はこちら)でジャン・レノ演じる主人公の殺し屋レオンが唯一知っている映画として挙げられて、映画館で彼が嬉しそうに観ているシーンがあった。ナタリー・ポートマンがレオンの前で主題歌「Singin' in the Rain」を唄うシーンも。
あとは、有名なところではキューブリックの『時計じかけのオレンジ』(感想はこちら)で、主演のマルコム・マクダウェルがソラで唄えるただ一つの曲ということで非常に暴力的な場面に敢えてこの歌を唄わせてました。
『ザッツ・エンタテインメント』(感想はこちら)の感想でも書いたように、僕はてっきりこの曲は映画『雨に唄えば』のために書かれたものだと思っていたんだけど、もっと昔に別の作品で使われたものだったんですね。
どうやらこの映画で唄われている曲のほとんどは既成のものだったようで。
でも今ではこの映画でジーン・ケリーが唄って踊るヴァージョンがもっとも有名ですよね。
数年前にオスカーの作品賞を獲ったフランス映画『アーティスト』(感想はこちら)がこの『雨に唄えば』にオマージュを捧げてました。落ちぶれたサイレント映画のスターがトーキーの時代についていけずに悪戦苦闘して、やがてミュージカル映画に活路を見出す、というほとんど同じようなストーリーだった。
まぁ、フランス映画だからか『雨に唄えば』のような陽気な映画ではなく、なんだかシリアスで暗めのお話でしたが。
『雨に唄えば』の冒頭近くでドンがリナと並んで舞台挨拶するけどリナには喋らせない、というくだりは『アーティスト』で似たような場面がそのまま描かれていた(もっともあの映画は字幕付きのサイレント風に作られていたので、登場人物たちの“声”は聴こえませんが)。
そのぐらい有名で誰もが知ってる映画ってことですね。
僕はミュージカル映画をそんなに数多く観てるわけじゃないし詳しくもないですが、“ミュージカル映画”ってこういうの、というイメージそのままなんですよね。
明るくて夢があって、そして映画でトーキー映画の草創期を描くという自己言及的なところなど。
この作品を観るとなんともいえない幸福感に包まれます。
当然ながらダンスシーンは最初期のサイレント映画のように舞台で踊ってるのをただ固定キャメラでずっと撮ってるわけじゃなくて、撮影しながら移動もするし、カットも割れる(だから実際には同じ振り付けのダンスを何テイクも撮って繋げている)。
でもなるべく踊っている全身を映していて、カットが切り替わるのも絶妙なタイミングなのでまるでワンカットで撮っているようにも感じられる。
昔のジャッキー・チェンのアクション映画が、やはりカットは割ってあるけど観客が俳優の一連の体技を追うのを編集が邪魔しないように巧いことスムーズにショットが繋げられていたみたいに。
また、これは映画制作の裏側を描いているバックステージ物であり、そこは舞台のミュージカルのバックステージを描いたフレッド・アステア主演の『バンド・ワゴン』(感想はこちら)と構成が似てる。
『バンド・ワゴン』でヒロインを演じてて見事なダンスも披露していたシド・チャリシーが、『雨に唄えば』の中でもジーン・ケリーのダンスの相手を務めている。男たちを虜にする謎めいた女、という劇中劇での役柄も同じ。
シド・チャリシーは物語の本筋とは関係がなくてダンスシーンだけにいきなり現われるのが奇妙なんだけど、ちょうどラジニカーント主演のインドのミュージカル映画でダンスシーンだけ物語とはまったく別の女優さんが登場して踊るのと似ている。
昔のミュージカル映画のスタイルの一つなんでしょうか。
ジーン・ケリーとシド・チャリシーが続けて踊るいくつかのシーンはそこだけ他のシーンから浮いてて、要するにジーン・ケリー演じるドンの空想みたいなものなんだけど、当時のミュージカル映画って物語の間にミュージカルシーンがあるというよりも、まずミュージカルシーンが先にあって、それらを物語で繋いでいくような作りになってたりする。『バンド・ワゴン』のアステアとチャリシーのダンスシーンもそんな感じだったし。
シド・チャリシーにはほんとにうっとりしてしまう。こんなに美しくて(足の長さもスゴい!w)しかもダンスもできて。立ち姿や足の動かし方で、バレエの人なんだろうなぁというのがわかる。
ジーン・ケリーもデビー・レイノルズもドナルド・オコナーもそうだけど、彼らは完全にその道のプロなんですよね。舞台で培った基礎があって、付け焼刃でできる技ではない。
そういう意味で、本物の「芸人」の芸を観てる感じがする。
彼らの足さばきや身のこなしに見惚れてしまう。
ドナルド・オコナーのおどけて笑いながら軽業っぽく踊るところなんて昔ながらの舞台芸人そのものだし、ガチムチな体型のジーン・ケリーの超絶的な動きはまるでスタントマンみたい(劇中でもスタントマン出身という設定)。
デビー・レイノルズは、「Good Morning」の歌に合わせて三人で踊るミュージカルシーンで共同監督も務めるジーン・ケリーに何度も何度も繰り返し踊らされてうんざりしたそうだけど^_^;
彼女は惜しくも2016年に娘のキャリー・フィッシャーが急逝した翌日に亡くなったけれど、デビーとキャリーの母娘のドキュメンタリー「キャリー・フィッシャー ~星になった母娘~」(BRIGHT LIGHTS: STARRING CARRIE FISHER AND DEBBIE REYNOLDS)が今年BSでやっていたので観ました。
この二人をモデルにしたシャーリー・マクレーンとメリル・ストリープ主演の映画『ハリウッドにくちづけ』も作られてます。
晩年までラスヴェガスの舞台で唄ったり、最後まで舞台人だったんですね。キャリー・フィッシャーも一緒に登場したりして、まるで姉妹のような親子でした。ヴェガスで建物の中を移動する時には足が疲れるからカートに乗ってた。
高齢になってもキャメラの前でけっしてみすぼらしい姿を見せようとはしないデビー・レイノルズに、大ヴェテランの女優や歌手に共通するプロフェッショナルの矜持を見ました。
あらためてご冥福をお祈りいたします。
あいにく僕は彼女が出演した映画をこのドキュメンタリー以外ではこれまでに『雨に唄えば』しか観ていませんが、もうこの1本に彼女の魅力が一杯詰まっている。笑顔がほんとにキュートなんですよね。
でも、最初に登場した時からデビーが演じるキャシーは自分が思ってることを率直に口に出して言うタイプの女性で、けっして男に媚びていない。
会ったばかりなのにスター風を吹かせていきなり図々しく肩を抱こうとしてくる(今なら即セクハラ認定な)ドンに対して、「映画俳優は偽物」とピシャリと言う。自分は舞台女優で、映画俳優よりも格上である、と。
実際には彼女はパーティなどに呼ばれて踊るダンサーたちの一人だったんだけど、気安く自分に言い寄ってきたドンに彼女がイラッときて思わずキツめのことを言った気持ちはよくわかる。
ドンは陽気で笑顔が素敵な男だけど、この時代には男性はみんなそうだったのかもしれないが、どこか女性を見下してる部分がある。それは今回観返してあらためて感じました。
若いボードヴィル時代からずっとともにやってきた親友のコズモも、また映画会社の社長のシンプソンも、たとえばリナに対する態度があからさまに侮蔑的なんだよね。
リナは嫌な女として描かれていて、またコメディリリーフでもあって観客の笑いをとるキャラクターなんだけど、僕は彼女がみんなの笑いものになる場面ではあまり素直に笑えなかったんですよ。
もう、作り手が最初から彼女を“かたき役”のように描いているから。
まぁ、ビジネス上のパートナーだから作品の中でカップルを演じてはいるけれど、ドンがリナのことを嫌うのはまだ下積みのスタントマンだった頃に彼女に挨拶したが無視されて、でも彼が俳優として認められると急に態度を変えてきたことに不信感があったからでしょう。
ドンの苛立ちは無理もないな、とは思う。別に女性に限らず、相手が名前が売れてたり金持ってたり自分にとってメリットがありそうな者には愛想よくするが、別に得るものがないと判断するとビックリするほど冷淡だったり、平然と見下すああいう現金な手合いはいるもの。
ただまぁ、芸能界というのはリナのような人種が集まりやすい場所なのだろうし、彼女がああいう人間になった理由も考えてみる必要はありそう。
リナが属しているのは、のし上がっていくために他人を踏みつけにしなければやっていけないような非情な世界でもあるということ。だからこそ、そういう邪まなものに汚されていない純粋なものにみんな憧れるんだろう。
自分に必要なものには食いつくが、不要だと思ったらさっさと切り捨てる人というのを僕もこれまでの人生で何人も見てきたけれど、そういう失望を伴う体験は人を見る目を養ってもくれる。
華やかで賑やかな世界は一見素敵だけれど、そこにある闇もまた深い。
ドンが後半で踊るダンスは、彼が田舎から大都会に出てきて「踊らなきゃ!」とショービジネスの世界に飛び込んでいった過去が描かれる。
魅惑的な女性(シド・チャリシー)はギャングのボスの情婦であり、彼女のドンに対する態度はかつてのリナと同じだ。
おそらくドンは、そのように過去に人としてのプライドを傷つけられた記憶が忘れられずにいる。そのことを大スターになった今でも引きずっている。
この時代のミュージカル映画って(と言えるほど観てないけど)底抜けに明るい世界を描いているようでいて、そこには表に出てこない暗さがあるように思えるんです。それを無意識のうちに感じ取るからこそ、観客はよりいっそうこれらのミュージカル映画に惹かれるんじゃないだろうか。
そんなわけで、ドンが女性すべてに対して侮蔑的な態度の持ち主ということではないのかもしれない。
ただ、今の目で観るとやっぱりリナは気の毒な扱われ方なんだよね。劇中では自業自得とはいえ、みんなに笑われたまま映画から退場する。
最後に彼女がキャシーやドンたちと和解して、リナにはまた彼女なりのハッピーエンドを用意してほしかった。
リナを演じるジーン・ヘイゲンについても僕はこの映画以外の彼女の出演作品を観たことがないんですが、充分魅力的な女性として描かれているもの。
いろいろと勘違いしたキャラではあるけれど、愛嬌もあるし憎めないんですね。
「Yes, Yes, Yes...」「No, No, No...」の場面には場内爆笑。ダメ押しで最後は声が「ノゥ~ノゥ~ノォゥ~…」とスローになるところも最高でした。あれはジーン・ヘイゲンにコメディエンヌとしての才能があるからこそ笑えるんですよね。
ちなみに、劇中では頭の先から出てるような甲高い声を発してて観客の笑いを誘っているけど、あれはジーン・ヘイゲンの地声ではなくて、劇中映画でキャシーが吹き替えたことになっている低くて落ち着いた台詞を喋る場面では本人が声を吹き込んでいるそうです。素敵な声ですよね。
そういう、役柄と演じているご本人にギャップがあるのも俳優さんの魅力の一つ。
憎まれ役のリナのキャラクターがこの映画で果たしている役割はとても大きい。
あの一連の録音や俳優の声についてのギャグシーンは、映画がサイレントからトーキーに移行していく当時の現場での実際の苦労が反映されているようです。
映画から声や音が聴こえるのも映像に色がついてるのも今では当たり前になっているけれど、ああいう試行錯誤によって技術の一つ一つが獲得されてきたんだということがわかる。映画史の一部を描いているんですね。
往年の名画を観る時に、そういう「映画」がたどってきた歴史も意識します。古い映画を観る時の楽しみの一つでもある。
映画スターと才能はあるがまだ花開く前の娘が恋に落ち、売れっ子女優の妨害に遭うが、それも利用して成功を掴み取りついに二人は結ばれる。めでたしめでたし。
ある意味、たわいない内容ではある。
だからそんな単純明快なストーリーの中で純粋に歌と踊りが僕たちの目と耳を幸せにしてくれる。
映画館は年配のかたたちでほぼ満席状態。まさか旧作でこんなに混むと思っていなかったので、いつも通りに余裕で映画館に行ったらもう最前列の席しか空いてなくて、ずぅ~っとスクリーンを見上げたままの状態での鑑賞。
失敗した…と思ったけど、画面に見入ってるうちに首のしんどさも気にならなくなって最後まで楽しんじゃいました。
それにしても大人気だなぁ。一週間限定公開の初日だからということもあったんだろうけど、午前十時からの上映の回が満席だなんて。新作だってなかなかそんなことはないでしょうに。
皆さん、若い頃に映画館でご覧になったんでしょうか。
他のお客さんたちの笑い声が耳に心地よかった。
観てると幸せな気分になれる、夢のような世界に連れてってくれる、そんな映画を多くの人々が望んでるんだな。
※スタンリー・ドーネン監督のご冥福をお祈りいたします。19.2.23
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