映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

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【爆音映画祭】『ボヘミアン・ラプソディ』『グレイテスト・ショーマン』

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一週間前に爆音映画祭で『ボヘミアン・ラプソディ』と『グレイテスト・ショーマン』という夢の二本立てを鑑賞。

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どちらも去年の公開以来これまで何度も劇場で観ていますが、今回「爆音映画祭」で同じ日に続けて上映されることを知って、運よく四日間の上映期間でこの2本の上映日と休みがかち合ったので観てきました。

別の日には『レ・ミゼラブル』も上映されてて、もしその日が休みだったらヒュー・ジャックマン主演のミュージカル映画も2本続けて観られたのにちょっと残念。

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爆音映画祭」は僕はこれで2度目で前回は2017年に『キック・アス』を観たんだけど、その時は思ってたほど音が大きくなかったし、どうせなら前の辺の席で、と思って臨んだら、今度は予想以上に音がデカくてビックリ。前回平気だったのは、席がもうちょっと後ろの方だったからだろうか。

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もともと大きな音は苦手なので(鼓膜にビンビン響いて頭痛がしてくるから)慌てて両耳にちぎったティッシュを詰めたらちょうどイイ感じに。

この『ボヘミアン・ラプソディ』と『グレイテスト・ショーマン』という組み合わせはたまたまなんだけど、両者に共通しているのは「実在の人物」を描いているところと、「ありのままの自分」を社会に受け入れられなかった者が自分の「居場所」をついに手に入れる、という話なところ。

ボヘミアン・ラプソディ』の映画だけを観ていると、なぜフレディが孤独に苦しんだのかよくわからないんですよね。そもそも、その人生において彼が「孤独」を強く意識していたのかどうかも。

せいぜい冒頭あたりで「パキ(パキスタン野郎)」と侮蔑的に呼ばれたり、TVで性的指向について暴露されるぐらいで、彼が受けてきた差別はそんなに詳しく描かれてはいない。

フレディ・マーキュリー自身が自分の人生を直接語ったり自伝を書いているわけではないので、映画で描かれていることはあくまでも彼が残した歌や関係者の証言と想像、そして明らかな創作に基づいている。

史実ではフレディが自分がHIVに感染しているのを知ったのは映画のクライマックスである「ライヴ・エイド」よりもあとだということだし、ライヴ・エイド直前の両親との和解や、やはりクイーンの他のメンバーたちとのいさかいと和解もフィクションとのこと(メンバーとは別に仲違いしていない)。

映画には実際のクイーンのメンバーたち(ブライアン・メイロジャー・テイラー)がかかわっているし、ここでは意図的に史実よりも「物語」を優先しているわけで、だからこれは“伝説のスーパースター”の物語なんですね。

ゲイの描かれ方があまりに図式的、類型的でLGBTQ的に抵抗を感じるかたもいらっしゃるようだし、実在の人物であるフレディ・マーキュリーの人生を不正確に歪めて描いているんじゃないか、という批判もある。

僕はこれを、「居場所」を見つけられず苦悩する者を描いた作品として観たので、共感を覚えましたが。

グレイテスト・ショーマン』の方も実在の人物である興行師P・T・バーナムを主人公にしてはいるものの、物語は『ボヘミアン・ラプソディ』とは比べ物にならないほど創作の要素が加えられていて、史実が基になっているとはいえほぼ別物。*1主要な登場人物の中にさえ架空の人物が何人もいる。逆に映画には登場しない人物も。

たとえば、バーナムが黒人の老女を“買って”見世物にしていたことは映画ではまったく描かれない。

そのことで本当は人身売買をしていたような人間をまるでハンディキャップのある人々を救った者のように描いている、としてこの映画を快く思わない人もいます。

「せめて実在の人物の名前を使わずに、登場人物は架空の名前にすべきだったのでは」 という意見もある。

でも、そもそもミュージカル仕立てな時点でフィクショナルな作りで、最初からこの映画で描かれているのがすべて史実であるとは到底思えないし、この映画はP・T・バーナムという実在の人物を「偉人」として称揚したり、あるいは歴史を捏造することを目的としているわけじゃないと思うんですよね。

これは、貧しくて地位の低い者がやがて成り上がって成功をおさめていく過程で過ちも犯して、そこから再び立ち上がっていく物語で、虐げられた者たちが「私たちはここにいる」と高らかに宣言する物語だから充分共感できるものだと思うのです。 

「視界から消えろ」と言われる者、を描いた映画といえば、最近では『ジョーカー』がまさにそうでしたが、『グレイテスト・ショーマン』が、そして『ボヘミアン・ラプソディ』が「ありのままの自分」に誇りを持って生きた人々をポジティヴに、希望を持って描いたのに対して、それをより現実の厳しさを強調して「悲劇的に(それは反転して劇中では“喜劇“のように扱われる)」 描いたのが『ジョーカー』だったといえるのではないか。

題材はとても似ていて近いんですよね。ミュージカルじゃないけどジョーカーも踊るしw

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ちなみに、映画評論家の町山智浩さんがされていた『グレイテスト・ショーマン』 の解説によれば、南部ではいまだに奴隷制度が続いていて南北戦争の真っ最中だった時代にP・T・バーナムは“買ってきた”サーカスの団員たちにちゃんと給料を支払っていたので、それは結果的に彼らを救うことになったのだそうで。

“髭の歌姫”レティのモデルになった女性たちをはじめ、サーカスで働いていた身体に障碍を持っていたり特徴的な外見の人々はただ気の毒で無力な存在ではなくて、自分のその外見や特技を駆使して自ら稼ぐことができたんですね。だからバーナムがただ障碍者や有色人種を搾取する悪人だったとは一概には言い切れないわけで。 

もっとも、日本でも外国人技能実習制度や、戦前戦中の徴用工や従軍慰安婦の強制労働のように、建前では給料が支払われていることになっていても実質“奴隷”扱いされている、ということもあるから、現在の感覚で人権的にどうなのか、という疑問は拭えませんが。

ただ、『グレイテスト・ショーマン』に限っていえば、ほとんどフィクションの物語に架空の人物じゃなくてあえて実在の人物の名前を使う、というのは、その胡散臭さ、インチキ臭さがP・T・バーナムがやっていた詐欺まがいの見世物興行と重なって、僕はなかなか悪くないんじゃないかと思いますけどね。 

いくらでも「偽善的」だと批判ができるでしょうが、レティたちが唄って踊る「This is Me」に込められた叫びに僕はニセモノなんかじゃない、真のメッセージを感じるし、それは『ボヘミアン・ラプソディ』も同様。

映画ではフレディがバンドのメンバーをないがしろにして皆と距離ができてしまうあの展開は現実にはなかったそうで、それは『グレイテスト・ショーマン』でバーナムがサーカスの団員の信頼を裏切って…という展開が映画用のフィクションであるのと同じで、とてもよく似た構成のこの2本の映画が同じ年に日本で公開されて、今もこうやって二本続けて観ていることの奇妙さと楽しさを感じます。

それから、歌姫のジェニー・リンドはオペラ歌手なのに劇中で彼女が唄うのはオペラではないことでモヤモヤされたかたもいらっしゃるようで、映画の観方って人それぞれで面白いですよね。

ジェニー・リンドの件に関しては、映画の作り手は彼女をセリーヌ・ディオンをイメージして描いたそうだから、「オペラ」の方じゃなくて「歌姫」の方を取ったということでしょう。

それぞれ批判があるのはしかたがないのかもしれないし、別にすべての人が絶賛する必要もないけれど、でも1年ぶりに観た『ボヘミアン・ラプソディ』と『グレイテスト・ショーマン』に僕はまた胸が熱くなって涙ぐんじゃいました。これは毎年上映してほしいなぁ。 

※その後、2020年の7月に今度はIMAXで『グレイテスト・ショーマン』を鑑賞。

 

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*1:でも、バーナムとサーカス団がヴィクトリア女王に謁見したことや欧州の歌姫ジェニー・リンドを招いてアメリカでの公演を行なったこと、サーカスの建物(博物館)が火災で焼けたことなどは事実だったりする。フィクションの中に巧みに史実が編み込まれている。