葛飾北斎とその娘・お栄(葛飾応為)や居候の池田善次郎(渓斎英泉)など、浮世絵師たちが巡る、時にちょっと恐ろしくもある“逢う魔が時”の不思議や艶物、江戸の人々のユーモアや死生観を描く。
現在劇場で公開中のアニメーション映画『百日紅〜Miss HOKUSAI〜』(感想はこちら)の原作漫画で、映画鑑賞後に購入。
杉浦日向子さんは90年代にNHKで放映されていた「コメディお江戸でござる」に江戸風俗の専門家として出演されていたことを覚えていますが、彼女が漫画家でもあったということをこれまで知らなくて(あるいは忘れていた)、その著書も今回初めて読みました。
亡くなって今年で10年目なんですね。
僕は普段まったく漫画を読まないので本当に久しぶりに漫画を買ったんですが、80年代に描かれた漫画だということもあるけど、素人目にもけっして絵が特別巧いとは思えない。登場人物の描き分けができていないところもあった。
いや、ほんとはスッゴく巧いんだけどわざと崩して描いているのかもしれませんが。漫画のことも絵のこともよくわからないんでご容赦を。
でも「味がある」というんですか、すぐにTVアニメ化される週刊連載漫画のような今風の絵柄や題材ではなくて、通好みというか、ある程度漫画を読み慣れている人が評価する感じの作品だな、と。
映画を観ていて、多分原作は短篇の連作なんだろうな、と思ったんだけど、実際そうでした。
毎回どこか素っ気なくもある終わり方など、この語り過ぎない、描き過ぎないところなんかが江戸の「粋」というものなのか、と。
アニメ版を観たあとに原作を読んだわけですが、原作のお栄は映画のように全面的に主役として前に出ているのではなくて、時にちょっと顔を出すだけだったりエピソードによってはまったく登場しない回もある。
それでも彼女は明らかにこの漫画の「ヒロイン」であって、それが証拠に「アゴ」だの「色黒」だの「人三化七(にんさんばけひち)」だの「化十(ばけじゅう)」だのと散々な言われようにもかかわらず、実際の作画においては別に肌は黒くないしあごもしゃくれてないし、ちっともブサイクじゃない。
体型も、風呂屋で父の弟子で愛人でもある政女(葛飾北明)に「まるで小娘そのまンまの体」と言われるが、ようするにスレンダー美人ということだ。
十分に魅力的に描かれている。
そんな若くて画才のある“火事フェチ”の女性が男言葉を使って居候の浮世絵師を「ヘタ善」と呼んだり、「じゃりン子チエ」のチエちゃんよろしく実の父親を本名の「鉄蔵」と呼び捨てにしたり、父の門人に岡惚れしたり、なぜかいきなり男娼に抱かれたりする。
そりゃ萌えるでしょ、とw
江戸の怪異と艶笑譚、そして人情物。
エピソードごとにそれぞれの「味」があり、それらが江戸情緒を醸し出す。
夜寝る前に一篇ずつ読むような、まさにそんな楽しみ方がふさわしい。
それでも全篇を通してこの作品に僕が感じたのは、賑やかではあってもけっして沸騰しない、熱狂しない、世の中に対するどこか引いた視線でした。
それは見方によっては「薄情」だったり、あるいは「人間、死んだらおしまいよ」というような諦念にも似た感覚だった。
どこかヒヤリとするような、人間を突き放すような冷たさ。
蔭間茶屋で男娼・艶之がお栄に語る、同じ男娼仲間の吉弥が見たという夢の話。巨大な仏が自分を拝む人間たちを踏み潰して去っていく。そして男色に熱心な寺のクソ坊主たちは、神仏など畏れてもいない。
我が子が身罷ったのに、お栄の母親は微笑を浮かべて「いっちゃったよ」と告げるだけだ。
ここで描かれる江戸の人々には、ちょうど文明開化の時代や太平洋戦争後に日本にやってきた西洋人を困惑させた奇妙で不可思議な日本人と、紛れもなく現在の僕たちに繋がっている日本人の姿が混在している。
艶っぽく、軽薄でマジにならない、しかしどこか底知れぬ哀しみが常に横たわっている。
まさしく200年前にタイムスリップしたような錯覚。
映画版と原作、どちらにも目を通すとより深くこの世界観を愉しめます。