映★画太郎の MOVIE CRADLE 2

もう一つのブログとともに主に映画の感想を書いています。

『夢の島少女』

作・演出:佐々木昭一郎、出演:中尾幸世横倉健児若林彰菊地とよ友川かずき、音楽:池辺晋一郎のTVドラマ『夢の島少女』。1974年作品。

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運河のほとりで倒れていた赤い服の少女・小夜子(中尾幸世)を救った少年ケン(横倉健児)。病院に連れていってやれ、という友人(友川かずき)の忠告も聞かず小夜子を自分のアパートの一室に住まわせておく。次第に失われていた小夜子の記憶とケンの空想が交じり合い、やがて少女はケンの部屋から姿を消す。


珍しく映画ではなく、TVドラマについて。

NHK-BSプレミアムプレミアムアーカイブス」で11月3~7日(再放送:10~14日深夜)に「佐々木昭一郎の世界」と題して佐々木さんの過去作を5作品、デジタルリマスター版で放映していて視聴。

その中から『夢の島少女』をピックアップ。

僕がこの作品を初めて観たのは1996年。同じくNHKのBS2での再放送。

番組予告でその映像が気になり、同じく連日放映された佐々木監督(TVだから“ディレクター”か)の他の作品『マザー』『さすらい』『四季~ユートピアノ~』『川の流れはバイオリンの音 ~イタリア・ポー川~』などとともにヴィデオに録画してその後何度も観た。

その中でも特にこの『夢の島少女』に強く魅せられて、感化されて8ミリで自主映画を撮ったほど。


ちょうどその当時観て好きだった河瀬直美の8ミリ映画や岩井俊二の映像作品が実は佐々木昭一郎に影響を受けていた、と知って「なるほど」と合点がいったのだった。

佐々木作品の出演者のほとんどはプロの俳優ではなく、佐々木さん言うところの“実生活者”。

撮影は16ミリフィルム。

フィルムで撮影されているのは大きい。おそらく同じ内容のものをヴィデオで撮ってもこれほど愛着は感じなかっただろうと思う。

フィルムの質感、発色がいいのだ。フィルムの中だけに存在するリアリティというものがある。

脚本はあるがロケ地の人々との出会いや出演者たちの即興も取り入れられていて、説明は極力省かれストーリーは通常のドラマのようにわかりやすくない。

その作品はしばしば「映像詩」と表現される。

それでも単にイメージ映像が繋がっているだけの抽象的な作品ではなくて、“ロードムービー”の側面がある。

撮影・編集がちょうど時代的にも近いアメリカン・ニュー・シネマのいくつかの作品を思わせたり、あるいは寺山修司の作品に通じるところも。佐々木昭一郎寺山修司はラジオドラマで一緒に仕事もしている。

Twitterで『夢の島少女』を「ATGみたいな作品」と言ってる人もいた。確かにw

夢の島少女』はのちに『四季~ユートピアノ~』や「川3部作」と呼ばれる連作の主演も務めることになる中尾幸世の映像デビュー作。

ユートピアノ』や「川3部作」では長い髪の明るく快活なヒロインとして登場する中尾幸世は、『夢の島少女』では痛みや哀しみを全身にまとったような少女を演じている。髪の毛もおかっぱがちょっと伸びたぐらいの長さ。

最近いろんな人が「『夢の島少女』のヒロインは『あまちゃん』の橋本愛に似ている」と言ってるのが可笑しい。

まさに今の時代ならではの反応ですよね。40年前の作品なのに。

あの髪型は中尾自身がつげ義春の漫画「紅い花」のヒロインを意識していたからだそうで。ちなみに彼女が演じた少女の名前「小夜子」は「紅い花」のヒロインから取られている。

また、佐々木昭一郎は『ユートピアノ』のあとに、別の女優で「紅い花」を映像化している。

佐々木さんはどうやら当時ヒロイン役の中尾さんにかなり入れ込んでいたようだし、実際『夢の島少女』の小夜子のイメージは多くの人の記憶に強烈に残ったんだろう。

僕自身は初放映からずいぶん経った90年代に初めて観たんだけど、赤い服を着たいたいけな少女を「喪失感」の象徴として描く、というやり方自体はわりとありがちではあるものの、何よりも中尾幸世の存在感によってそれが非常に胸に迫るものになっていた。

当時17歳だった中尾さんが演じる少女のエロティシズムと、かけがえのないものが失われてしまった、という哀しみ。

僕はパッヘルベルのカノンの調べとともに映し出される彼女のその姿、その声にいつも涙ぐんでしまう。

「私がみつけたの…」と言ってピアノでカノンの旋律を奏でる少女。

今では僕はカノンを聴くと真っ先にこの作品を思い出す。

夢の島少女』をはじめ、そのほとんどがソフト化されていない佐々木昭一郎作品についてはこれまでに熱心なファンのかたがたが資料を作成したり非常に深い考察をされていて、参照させていただきました。

微音空間

佐々木昭一郎アーカイブ

「夢の島少女」の深層

佐々木昭一郎のテレビドラマ全作品解題・そして新作『ミンヨン 倍音の法則』


今回は作品の感想というよりも、作品への個人的な愛を語ることになりそうです。

たいしたことは書けないけれど、次にはいつこのような機会があるのかわからないから、今またこうしてTVでこの作品にめぐり逢えたことを記しておきたい。

なので、この文章は作品をご覧になっていない人には意味不明でしょうが、『夢の島少女』や何本かの佐々木昭一郎作品はネットで探せば動画がみつかりますので(いけないんだけど、購入することがかなわないんだから仕方がない)興味を持たれたかたはぜひ観てみてください。


さてこの作品、どうもその魅力は認めつつも「難解」と評している人がけっこういらっしゃるのが僕には意外で。

作品に対する好みは人によってそれぞれだろうけど、僕はこの作品自体に難解さを感じたことはないんで。

ブログで作劇上の矛盾にツッコミを入れて「何度観ても理解できない怪作」と書いてた人がいるけど、これは頭で「理解」するんじゃなくて“感じる”作品だと思う。理解できなきゃつまらない、という人には向いてないだろうし、作り手が自らを登場人物に重ねて描く心象風景を「ただの独りよがりな前衛映画モドキ」としか思わないような人もやめといた方がいいだろう。

だけど、一度でも「喪失感」というものを抱いたことがある人だったら、すんなり入ってくると思うんだがなぁ。

だいたい「夢の島」の少女、というタイトル自体、なんかもう“捨て去られた者”ということじゃないですか。

ストーリーについて細かい説明がないためにこの作品にはいろんな解釈があるようだけど、僕が最初に観て思ったのは、小夜子は最初の場面、ケンに助け出された時点で死んでいるのではないか、ということでした。

ケンが小夜子を自分の部屋に連れていって以降はすべて彼の想像(妄想)なのではないか、と。

作品の冒頭で映し出される「ひとびとは遺失物の行方を探しています」という字幕のとおり、小夜子こそ「遺失物」、失われてしまった存在であることは明白なのだから。

だからこれは、“小夜子”という大切な少女を失ってしまったケンが想像の中でもう一度彼女と出会う話なんじゃないか。

これはケンの物語なのだ。

赤い服を着た少女・小夜子とは、ケンの中にあった“かけがえのない何か”なんだろう。

下手すりゃケンが赤い服の少女を助け出す場面だって現実かどうか。

赤い服を着た少女というのは、ちょうど「紅い花」で少年が川で見た“紅い花”のように、少女に仮託した少年の刹那の想いではなかったか。

もちろん、この作品は理詰めで作られていないし、こうこう、こういう意味があるのだ、とかこれはこういうメタファーなのだ、といった謎解きや解説をする必要などまったくないのはわかっています。基本的にはどのように解釈しようが観る者の自由だと思う。

ですからこれは“僕の解釈”です。

まわりに「死」のイメージが濃厚なその生い立ちや集団就職など、この作品が作られた70年代でも小夜子はどこか現実から遊離した、いつの時代の人間なのかハッキリしないところがある。

一方では教室で楽しそうにクラスメイトたちと語らっているショットがあったりして、それは演じている中尾幸世そのもの、普通の少女に見える時もある。

この記憶やイメージの中の薄幸の少女と現実の少女が混ざり合ったようなキャラクターの造形は、次の『四季~ユートピアノ~』のヒロイン・栄子(A子)にも受け継がれている。

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さらにその次の『川の流れはバイオリンの音』以降は、いっそう現実の中尾幸世が持つ「明」の部分が占める割合が大きくなる。


で、僕はどちらかといえば明るくさまざまな人たちとふれあって旅を続ける栄子さんよりも、部屋で真っ白な胸をあらわにしたり浴衣姿で眠ったり、中年男性の愛人になったり、ケガした指の血を紅をさすように唇につけたり、「どうしたらいいの、どうすればいいの」と繰り返し呟きながら町を彷徨する小夜子の方にたまらない魅力を感じるのです。

あるいは、『ユートピアノ』以降の明るい栄子としての中尾さんを観ているからこそ、彼女が他の作品ではけっして見せなかった『夢の島少女』の暗さやはかなさによりいっそう惹かれる、ということなのかもしれない。


ケンは時間を飛び越えてまだ自分が出会う前の小夜子の部屋に行って、「僕の気持ちわかる?わかってくれてる?…待ってたんだよ!」と彼女を問い詰める。その時の小夜子の表情。

小夜子は何を「わかってくれてる」のか。

ケンは何を「待っていた」のか。

ケンは小夜子をかどわかし傷つけた男(若林彰)を刺し殺して、夢の島に埋めようとする。

この「男」はケンの社会に対する憎悪の象徴だろう。大切なものを傷つけて無残に捨てていくこの世の中への憎しみ。憤り。


小夜子が帰る故郷の田舎の風景は、そういう場所で育ったわけじゃなくても、そういう場所に行ったことすらなくても激しくノスタルジーを掻き立てる。

優しいおばあちゃん(菊地とよ)や小夜子が使う井戸、村の葬列。

何か、小夜子にまつわるすべてに「痛み」と「死」の匂いがつきまとう。

セーラー服姿の小夜子が逃げ回り、乱暴される。

彼女にとって、まるでこの世には安住の地など存在しないかのようだ。

かようにこの作品はつねに暗さに覆われている。

中尾幸世の他の出演作のようにユーモラスだったり、ホッとできる場面がない。

それゆえか、作品の制作当時はNHKの上層部からは酷評されたらしい。

でも、僕はこの作品がとても愛おしい。

そしてのちに、この『夢の島少女』を愛する人たちが世の中には大勢いることも知りました。あぁ、俺だけじゃないんだ、って。

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目をつぶって地面に横たわっている赤い服を着た小夜子やケンは死んでいるようにも見える。

この作品には眠っている小夜子の姿がしばしば映し出される。

エンディングのカノンが流れる直前にまるで死体のように微動だにしない小夜子とケンを見て、そしてそのあと一緒に縄跳びの縄を回している二人の映像が続くと、これはいよいよケンは死んじゃったんじゃないかと思えてくる。


日々アルバイトを掛け持ちして、あるいは仕事を転々として働き続けながら、「大切なもの」を失ってしまったのはケン自身ではないのか。

小夜子というのは、ケンが失ったものを擬人化して描いたキャラクターのようにも思える。

そしてキャメラの視点は空からになって、作品の冒頭と同じく赤い服の小夜子を背負ったケンが延々と歩く姿を撮り続ける。

寄せては返す波のように、何度も何度も繰り返されるカノンの旋律。

少年と少女は永遠にその中で廻り続ける。

まかり間違えばこれは自己愛や自己憐憫の物語になってしまうかもしれない。

でも、中尾幸世が具現化してみせた、失われてしまった小夜子という少女の生々しさに、たとえそれが自分で自分自身に涙するような行為だとしても、痛みを負って消えていく者へ僕は涙を流さずにはいられないのだ。

中尾幸世はフィルムの中に、僕や多くの人々の心の中に「小夜子」としてその姿を刻み込んで、永遠に少女のまま、同じく少年のままのケンと一緒に海を見つめている。

そしてひとびとは、今日も失ってしまったものを探し続けている。


夢の島少女』の小夜子役で映像デビューした中尾幸世さんは佐々木さんの演出による「川3部作」の最終作を最後に映像の世界から退かれて、その後はラジオドラマやナレーターなどで活躍、現在も定期的に朗読会を催されているそうです。

「音」や「声」にこだわった佐々木作品で彼女の「声」は本当に印象的でした。

そして今もまたその「声」のお仕事をされている、というのが何かすべてがそうなるべくしてなった、という感じで、いつか彼女の朗読を聴くことができたら、と思っています。


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